頭が痛い。こめかみがずきずきする。
 うっすら目を開けると、額に金属的な痛みが走った。思わず顔をしかめ、またおそるおそるまぶたを持ち上げる。
――ここは……私の部屋じゃ、ない?――
 おそらくライナスの寝室だ。自分のベッドには布くずやぼろぼろの衣装を散らかしたままだったのでこちらに連れてこられたのだろうが、運ばれた記憶がまったくない。どれほど気を失っていたのだろう?
「気がついたか?」
 頬に、ひやりと冷たい手があてがわれた。
「どこか痛むのか? 何かほしいものはあるか?」
 耳に心地よい声。ぼやけて見える人影はライナスに間違いない。まぶしい視界に目を細めながら、アーレインは口をひらこうとした。ひびわれていた唇が切れ、ぴりりと痛む。かすかに血の味がした。
「水、を」
 ライナスの腕にもたれて上体を起こし、差し出されたグラスの水をゆっくり飲んだ。ようやく人心地がついた気がする。
「だいじょうぶか?」
 いつになくライナスの声が優しかったので、アーレインは笑ってしまった。ライナスの優しさがわかりやすく表れるのは、希少なのだ。
「頭が痛い」
「ほかには?」
「こめかみが痛い」
「それだって頭だろう」
「唇が切れて痛い」
「……なめておけば治る」
 ライナスが顔を近づけてきたので本気で傷をなめられるのではとおののき、アーレインは腹筋がゆるすかぎり身を引いた。
「言ってみただけよ」
 アーレインは座りなおして額に手をあてた。二度、大きく深呼吸する。ライナスの眉間の皺が深くなった。
「本当につらいときに冗談を言うのはやめておけ」
「つらいけど話せないほどじゃないから大丈夫。私、どれだけ気を失ってた?」
「つらいなら休んでいろ」
「そんなわけにはいかないでしょう? エリイ様は?」
「……おまえがたおれて、一時間弱。皇王妃はご無事だ。湯浴みと御着替えをすまされて、今マリサがお世話をしている。アルソレイムへも早馬を走らせた。両陛下とも、アーレインにとても感謝していらっしゃる」
「そう。……よかった」
 思わず力が抜けて、背中からベッドにたおれこんだ。ぽふっと柔らかな音がする。
「なんだか、やつれたんじゃないか?」
 ライナスの手がアーレインの頬をなでた。
「やせたんだったら嬉しいわ。コルセットが少し、窮屈じゃなくなるもの」
「だからつらいのに冗談を言うのはよせ」
 アーレインは弱々しく笑った。
「そろそろ、起きなくっちゃ」
 シーツと羽根布団の海からごそごそき上がろうとすると、ライナスが手をかしてくれた。手櫛で髪をすき、スカートのひだを最低限ととのえる。
 アーレインがサルーンに出向くと、アーレインの部屋着をまとったエリオノーラ妃が紅茶を飲んでいるところだった。アーレインの姿を見とめて、エリイ妃とマリサの瞳が同時にぱっとかがやく。
「まあ、アーレイン!」
「アーレイン様!」
 エリイ妃は皇王妃という肩書きももったいも関係なしに、アーレインに飛びついた。アーレインがふらつきたたらを踏んだので、ライナスが後ろからささえなければならなかった。
「エリイ様、ご無事で何よりです」
「あなたもですわ、アーレイン。わたくしがあの哀れなヒメネズミの姿から無事戻ることができたのは、すべてあなたのおかげなんですもの!」
「なぜあのようなことになってしまわれたのか、教えていただけますか?」
 エリオノーラ妃は力をこめてうなずいた。
 アーレインがクッションをならべた長椅子に楽な姿勢で収まり、熱い紅茶のおかわりが運ばれてくると、皇王妃は話し始めた。
「今宵は新年の賀の第一夜。わたくしは早朝から準備におおわらわでしたわ。一段落着いたところで今回のために新調したドレスを確認しようと、侍女とともに衣装部屋へ向かったのです。衣装部屋には届けられたばかりの衣装箱が山と積んでありましたわ。けれど一箱足りない気がしたのです」
 皇王妃は紅茶を一口のみ、カップを置くとふたたび顔をあげた。
「侍女に確認を命じて、衣裳部屋に残ったわたくしは目の前の衣装箱をひとつ開けてみましたの。箱を開いて、わたくしが注文したのではない藍色のガウンを見とめたとたん、体が縮んで――……そのときにヒメネズミになってしまったにちがいありませんわ。波打った衣装の布のなかに墜落して、何とか逃げ出そうと必死でした。すると何者かが衣装箱のふたを閉めて、金具をかけてしまって。布をかじったり、引っかいたり、音を立てて何とか誰かに気づいてもらおうとしたのですけれど、だめでしたわ」
――それで、あんなにドレスがぼろぼろだったのね――
「それからは何もわかりません。アーレインがわたくしに気づいてくださるまで、わたくしは閉じ込められたままでしたから」
 エリオノーラ妃の話が終わると、アーレインは蜂蜜を入れた紅茶を飲み干して、大きく息をついた。蜂蜜の甘さが頭痛をやわらげ、紅茶の熱さが頭をはっきりさせてくれた。
「きっと、衣装箱に魔術の仕掛けが施されていたのでしょう」
 アーレインは言った。
「今お話をうかがったかぎりでは、藍色のガウンが入った衣装箱に――つまりエリイ様が注文されたのではないガウンが入った箱に、その仕掛けはなされていたのです。そして、藍色のガウンを注文したのは私でした。つまりエリイ様を捕らえてしまったあの魔術は、おそらく私をねらって施されたものだと思われます」
 それを聞いてエリオノーラ妃は両手で口元を覆い、ライナスは目を見張った。
「アーレイン。おまえはさっき、陛下に古い魔術が何かの拍子に誤作動したと……」
「最初はそう思ったのよ。でもさっき、解呪を試みたときに気づいたの。この術は古式だけど、かけられた時期はあたらしいって。きっと、クーレウス一味の仕業なんじゃないかと思うわ。粘着質でしぶとくて陰湿で性質が悪い魔術――似ているのよ、あいつのときと」
 ライナスは口のなかでなにやら毒づき、マリサはかいがいしくおかわりの紅茶を注いだ。
 そのとき馬車の車輪とひづめの音が聞こえ、やかましく呼び鈴が鳴った。
「きっと、アルソレイムからお迎えが来たのよ」
 アーレインはつぶやいて、エリイ妃に微笑みかけた。疲れていたので顔の筋肉がきちんと微笑みのかたちに動いてくれたかどうか、疑問だったが。
「エリイ様、アルソレイムにお戻りください。そして無事なお姿を陛下のご覧に入れてくださいな。術の後遺症はないはずです。何も心配はありませんよ」
「ええ、わたくしはだいじょうぶですわ。なんといってもアーレインがこの体をとりもどしてくだすったのですもの。でも」
 皇王妃は案じるようにアーレインを見つめた。
「あなたのほうが、大変なのではなくって? わたくしを助けたことであなたの身に何かあったのなら、わたくし、どうしたらいいのか」
「もともと私をねらって仕掛けられた魔術だったんです。エリイ様が案じられることはありませんよ」
「エリイ!」
 名を呼ぶ声とともにサルーンの扉がけたたましく開けられ、飛び込んで来たのはアルソレイムの使者ではなく、皇王その人だった。
 ルバート皇王はマントをはためかせて、大またでサルーンに入ってきた。質素なマントがひらめくたびに、その下に着付けられている豪奢な礼服が垣間見える。今宵のための衣装にちがいない。
――ちゃんと、宴の準備をしていらしたんだわ――
 自分を信じてくれたのだと知れて、アーレインはとても嬉しかった。
 皇王は妻をすくいあげるようにして抱き上げると、アーレインにむかっていきおいよく一礼した。エリイ妃が転げ落ちないようにあわてて夫の首に両腕を回す。
「アーレイン殿、本当に本当に本当に、ありがとう。これ以上なんと言ったらよいのかわからない。こんなに気がせいているときでなかったら、もっとましな麗句を尽くして礼を言えるのかもしれないが」
「そんなこと。今いただいたお言葉だけでも、充分すぎるほどお気持ちは伝わりました」
 アーレインが答えると、皇王はもう一度頭をさげた。
「……ありがとう。また礼はあらためてさせていただく」
 そして、つむじ風のように馬車を駆ってアルソレイムに戻っていった。
 遠ざかる馬車を窓から見ていたライナスは、さぐるようにアーレインを見つめた。
「新年の賀の開宴まであと二時間あまりだ。俺たちが準備するにはあまりに時間がない。第一夜くらい欠席したとて、あのようすでは陛下も文句はおっしゃらないだろう」
「民のために、エリイ様のために宴に出ろと陛下に言っておいて、あんたは出ないつもりなの?」
 ライナスの表情が険しくなる。
「出席しろというのか」
「立たせて」
 言って手をさしのべると、憤然とした顔のままだがアーレインの手を引いてくれた。
「私は宴に出席するわ」
「なんだって?」
 見開かれたハシバミ色の目をアーレインは見つめ返した。
「今から急いで着がえて、宴に出るって言ってるの。二時間あれば何とかなるわ」
「こんな体調なのに、無理を言うな!」
「あのヒメネズミの魔術は私をねらったものだったのよ?」
「だからこそ余計に身を潜めているべきだろう」
 アーレインはかぶりをふった。
「仕立て屋の衣装箱がどこかで取り違えられてアルソレイムに行き、そこでエリイ様が仕掛けられた魔術にかかってしまった。でもそれだけなら衣装箱はお城の衣裳部屋に置かれ続けてしかるべきだったはず。それなのに何者かが魔術が発動したあとの衣装箱の金具をわざわざ閉じて、またこのお屋敷まで運んできたのよ。私に挑戦状をたたきつけたんだわ! つまりアルソレイムに、クーレウスの息がかかったスパイがいるのよ!」
 挑むようにアーレインはライナスを見上げた。
「そいつを捕まえなくちゃ、またこんな罠が仕掛けられるかもしれない。こんどは私がヒメネズミになってしまって自分で術を解けなかったら、いったいだれが私を元に戻してくれるの?」
 二人はしばらくにらみ合っていたが、やがてライナスが折れた。実のところ、いつだって折れるのはライナスなのだ。
「わかった。準備をしよう。だがアルソレイムに着いても、くれぐれも無理はするな」
 アーレインはうなずいたが、この時点ですでに充分無理しているということは言わずにおいた。



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