〇、十年前

十年前、私は家出をした。 　家出といっても、七歳の子どもがすることだから、たかが知れているけれど。 　引っ越してきたばかりの私は新しい街になじめずに、いつも泣いてばかりいた。あんまり泣いてばかりいるものだから、しんぼう強く私をなだめていた母さんの堪忍袋の緒も、とうとう切れてしまって。いい加減にしなさいと叱られて、私は家を飛び出した。そのときまだ幼すぎた妹はきょとんとしていた。小学校に上がっていなかった妹には、たくさんの友達から引きはなされて、無理矢理に遠い土地へ連れてこられた私の気持ちなどわかったはずがない。 　家を飛び出した私は、まだ覚えてもいない道をめちゃくちゃに歩いた。それでもやっぱり、人が多いところに身を置くのは気が引けて、自然と静かな場所へ――人工川の対岸にある公園の方へと歩いていった。 　公園は静かだった。ハトが何かをついばんでいるだけで、人の気配はない。私は石のベンチに座って、ひとり空を見上げた。青い青い空だった。私が以前住んでいたところでは、空はもっと灰色がかっていた。たくさんの人間、たくさんの車。それらでくすんでいたその空が、ここではとても澄んでいた。 　空を眺めているうちに、やっと涙の乾いた頬が、また無性に泣きたくなって、ぬれた。声を押し殺して、泣いた。大声で泣いたほうがすっきりするに違いないのに、私にはそうする勇気が足りなかった。 　そのとき。 　自分のものとは明らかに違う泣き声が、どこからか聞こえてきた。私と同じように、懸命に声を殺して、泣いている。正直怖い気持ちもあったけれど、私は手の甲で涙をぬぐうとベンチから立ち上がった。 「だれ？」 　見まわしても、誰もいない。私はかすかに聞こえる嗚咽だけを頼りに、そろりそろりと歩き出した。 「だれなの？」 　植えられた低木の傍らまできたとき、その泣き声はもっともはっきりと聞こえるようになった。ためらいがちにのぞきこむと、私は低木の陰には丸まった小さな背中を見つけた。 「……どうしたの？」 　びくん、とその背中がふるえて。色素の薄い髪がさらりと流れた。 　男の子だった。私と、同じ年頃の。 「どうして泣いてるの？」 　男の子が、おそるおそるこちらをふり返った。うるんだ大きな瞳が私の姿をとらえる。まっすぐでやわらかそうな髪が、また額で流れた。 「……きみは？」 　彼がたずねた。色が白くて、肩の細い少年だ。そのころの私は身長も体重も標準より大きかったから、余計に彼が小さく見えた。 「わたしは、ショウコ」 　アカイシ　ショウコ。 「ショーコ？」 「ちがう。ショ、ウ、コ」 　私は彼に自分の名前を教えた。教えたからといってどうにかなるわけではないけれど、まだてんで子どもだったものだから、それぐらいしか答えることがらが思い浮かばなかったのだ。 「泣いてたのね。どうしたの？」 　妹を持つ身として、いつもの癖が出たのだろう。自分よりもかよわいものを見つけると、自然と世話を焼いてしまう。また、強がりな私は彼が頬の涙のあとを見つけやしないかと心配で、自分もつい先ほどまで泣いていたことを必死に隠そうともう一度頬の涙のあとをこすり、何ごともなかったかのように微笑んでいた。 「どこかけがでもしたの？」 「ううん。そんなんじゃ、ないんだけど」 　彼は言った。 「なんだか、じぶんがきえてしまう気がして……こわかったんだ」 「きえる？　どうして？」 　彼は涙をはらって、無理矢理に笑顔をつくった。 「うん……そうだよね。おかしいよね、そんなの」 「きえるって、どんなふうに？」 「なんだか……ここから、つれさられちゃうようなかんじ」 「つれさられちゃうって、こわいおじさんについていったりしなければだいじょうぶよ。おうちはどこ？　いっしょに、帰ってあげよっか」 「ありがとう。だいじょうぶだよ」 　彼の笑顔は寂しかったけれど、私は、そのまま彼と別れてしまった。彼の背中は細くて、日本人にしては色の淡い髪も肌も、そのまま空気に溶けてしまいそうで――本当に消えてしまいそうで、怖かった。 　それからは一度だって、この十年間、彼に会っていない。寂しげな微笑みがまぶたに浮かぶ。あそこで無理矢理にでも一緒に帰っていたら、また会えたかもしれないのに。 　そういえば、名前をきいていなかった。私は名乗ったのだから、なんだか不公平だ。 　今彼はどこで、何をしているのだろう？　 　……会いたい。 　会いたい。 　会えるものなら、また――――……。

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