三、花送りのち花贈り 　ひづめの音が止まり、草の上に人が降り立つ軽い音がした。来るなと、大声で叫んでやろうか。しかし今はもう叫べないだろう。涙を飲み込みすぎたせいで、喉が言うことをきかない。熱い鉄の棒が喉につっかえているかのように麻痺をして、声など出るはずもなかった。 「ごめんなさい」 　馬から降り立った人物は、開口一番、まず謝った。 「ごめんなさい」 　語尾が震えていた。セルファスはてこでも顔を上げるものかと思った。 「……あたし、セルファスを怒らせようなんて、これっぽっちも思っていなかったの。でも、くやしくてくやしくって。神女は死んだのに、セルファスは死んだ神女のことしか考えていなくって。だから、だからあいつは死んだんだって、もうもどってこないんだって、セルファスにわかってほしかっただけなの」 　声をわななかせながら、彼女は一気にまくし立てた。息つぎもなしに。 　セルファスは地面に頬を押し当てて、土が自分の涙を吸い込んでいく感触を覚えながら、身じろぎもせずに耐えていた。冷たい鎖で皮膚を焼かれるようなシカッシカッとした痛みに、唇を白くなるほどに引き結んで耐えていた。 　海神の神女は死んだ。シャオツィは死んだ。青い聖炎に焼かれて花とともに水に溶け、はるか果てなる国に居を移してしまった。――そんなこと、彼女にあらためて言われなくとも、嫌というほどにわかりきっているのだ！　 　セルファスの命が絶えない限り、その国へ逝くことはかなわないだろう。廃墟になった体になど用はないのだから、できることなら、今すぐにでもからっぽの心臓をえぐり出してやるところだった。しかしそうやって果ての国へ渡ったところで、シャオツィは決して会ってはくれないだろうという確信があった。シャオツィは潔癖なのだ。まっすぐすぎて、こちらの意のままにしようと手をのばすと、曲がるのではなくぽきっと折れてしまうくらいに。そして永遠に失われてしまう。不当な手段によって果ての国を訪れたとして、シャオツィに鼻先で扉をぴしゃりと閉じきられ、その向こうでルカウに笑われるのがおちに違いない。だからこうして自分は、川の果てに思いを馳せるだけで、しかたなしに生きているのだ。セルファスは唇を噛み締めた。強く噛み締めすぎて、血がにじんだ。 「ごめんなさい……ねえ、セルファス……ごめんなさい……」 　その気性と同じく、燃え上がるようなくれないの髪をした少女は草の上に膝をつき、手をついてしゃくりあげた。しゃくりあげている――泣いているのだった。鉄錆びた味のする唇をさらに、痛みがわからなくなるほどまでに噛んで、セルファスは目をかたく閉じた。まつげのしたからふたつぶもみつぶも大きなしずくが転がり出て、草の根に吸い込まれた。 　彼女は、なんて愚かしいんだろう？　何についてあやまっている？　誰に謝っている？　侮辱したことについて、あの世の海神の神女に謝罪しているわけではない。みずからの愚かしさを三天の神に懺悔しているわけでもない。ただ――ただひたすらに、僕にこうべを垂れ、子どものようにしゃくりあげて、��僕に�°魔ｵを乞うているのだ！　 　――そう。ただ、セルファスの許しだけがほしくて、泣いているのだった。 「…………アザレア」 　ようやく声が出るようになった喉で、セルファスはかすれたごくごく小さな声で、少女を呼んだ。彼女がはじかれたようにいきおいよく顔を上げたのが、気配でわかった。 「僕は、君に言わなくちゃならないことがある」 　ゆっくりと上体を起こし、袖口で丹念に涙のあとをぬぐってから、それでもうつむいたままでセルファスはアザレアの向かいに座った。 　アザレアが両膝と両手を突いて硬直し、セルファスの言葉を待っている。恐怖におののきおびえと震えで奥歯をカチカチ鳴らしながら、救いなのか制裁なのかわからない言葉を待っている。その奥歯の音を聞いてもなお、セルファスは容赦なく言い放った。 「僕は、君が嫌いだ」 　僕は、君が嫌いだ。思ったとおりに、その言葉は冷たく響いた。彼自身は、思った以上に冷ややかに響くのを期待していたのだが。 　アザレアの表情はわからない。見てはいないのだから。しかし彼女の指先が、爪に土が入るのもかまわずに地を握りこんだのが、うつむいているセルファスからもうかがえた。 「僕は今だってシャオツィがいとしいし、それを君にどうこう言われる筋合いはない。シャオツィを侮辱するのだって許さないし、君は僕に、君を好きになるように強いる権利だってないんだ。許婚はあくまでかたちの上でのことにすぎない。僕が君を嫌いで、シャオツィを好きでいたってかたちは成り立つのだから」 　残酷なことを言っているのはわかっている。だがこれはセルファスにとっての真実であり、道理の通っていることだ。アザレアの指先にさらに力がこめられた。あのままでは、爪が割れるだろう。 「でも」 　セルファスはアザレアに向かってはじめて顔を上げ、立ち上がった。見るもあわれな少女の姿が目に入った。 「でも……僕は思うんだよ」 　目は赤黒く腫れあがり、口もとはわななき、竦然(しょうぜん)とし、頬は涙と埃で汚れてひどいありさまだった。しかし今のこの少女のほうが、商人連の後ろ盾をかさに着て頭をそびやかし、胸をそらしてシャオツィを罵っていたアザレアよりも、さらにアザレアらしかった。 「僕たちは、許婚なんて関係ではないほうが、きっとうまくいったんじゃないかって。……ねえ、そうは思わないかい？」 　動かないままのアザレアをそのままにして、セルファスは花が特に群れている川べりまで歩いてゆき、そこに腰を下ろした。そして花を摘み、膝の上に広げる。 　白、薄紅、黄色、青、薄青。彼女の――シャオツィに髪と瞳に一番よく映るのは、やはり青い花だ。だがそれではあまりにさびしいと思った。青は海都を象徴する色であり、遺骸を焼く聖炎の色であり、昼も夜も変わらぬ空の色だ。彼女には似つかわしくない。あんなにも怒り、悲しみ、拒絶し――しかしわずかに、花街から救い出した際にほんの少しだけ心許してくれたかに見えた表情。こんなにもいろどりゆたかな性質のシャオツィには、色とりどりの花こそふさわしい。 　白、薄紅、黄色、青、薄青。すべての種類の花を使い、彼は花かんむりを仕上げた。少し大きすぎるかも知れない、かの神女の頭を飾るものにしては。その花のひとつに口づけて、セルファスは川の中に投げた。花かんむりは穏やかにたゆたいながら、果ての国の方角へ流れてゆく。彼はもうひとつ、花かんむりをつくりにとりかかった。 「アザレア、覚えてるかい？」 　何本かの花をほかの一本で束ねてはつなげていくのを繰り返しながら、セルファスはさして大きくはない声で言った。アザレアに聞こえていないのであれば、それでもかまわなかった。 「花かんむりのつくりかたをはじめて僕に教えてくれたのは、アザレアだったね。ほんの子どものころに、教わったんだ。でも僕は一度だってアザレアに花かんむりを贈りはしなかった。全部、シャオツィにあげていたんだ」 　昔も、今もね。ふたつ目の花かんむりにも口づけて、川に流した。川の果ての、はるかな果ての国にこの花かんむりが流れ着いたとき、僕がつくったものだと気づかずにシャオツィが拾い上げて髪に飾ってくれたなら、それだけでいい――。セルファスは三つ目の花かんむりを編み始めながら、唇のはしをゆがめて笑った。自分が、その想像が、小さなおのれの願いが、可笑しかった。 　そのとき。頭にふわりと何かがのる感触があって、セルファスは視線を上げた。アザレアがすぐそこに立っており、彼の頭の上に手をかざしていた。セルファスが怪訝に思って自分の頭に手をやると、ほんのり湿った花弁の感触がした。 「……あんたが海神の神女に花かんむりを贈り続けたって、もう、かまやしないわ」 　アザレアは、かすれきった喉でつぶやいた。 「だって、あたしは少なくとも生きているもの。……セルファスと、おんなじ場所でね」 　それだけ言い置いて彼女は馬に歩み寄りまたがると、川の流れとは反対の向きに、街のほうへと馬首をめぐらせた。 　セルファスも花かんむりをいただいたまま、歩き出した。そして編みかけの花をくるりと輪にし――腕輪ほどの大きさにしかならなかったが――その小さな花かんむりを、「アザレア！」呼びかけて彼女に向けて放り投げた。まさか後ろから呼びかけてもらえるとは思っていなかった彼女はびっくりして振り返り、飛んでくる小さな花の輪に二度びっくりし、馬上から手を差し出して必死の体(てい)でそれを受け止めた。 「僕は君が嫌いだ」 　みずからも馬にまたがりながら、セルファスはあらためてアザレアに言った。 「昔も、今もね。だけど――」 　だけど、 「これからは、わからない」 　少なくとも君は、僕の花かんむりを受け取ってくれるからね。 　馬腹を蹴ってアザレアの馬を追い抜き、来た道をもどりながら、彼は駆けた。頭の上で跳ねる花かんむりを感じながら。 「僕のいとしいシャオルウ。僕の魂はもうすでにあなたのものだ。おそらく、もう、僕のもとへと戻ってくることはない。けれど……けれどどうか、シャオルウ。魂はいらないが、心臓だけは返してほしい。だって、あなたには必要ないでしょう？　あなたの傍らにはルカウがいる。きっと鼓動が速くなりっぱなしの、ルカウの心臓がある。だから、僕の心臓なんて用なしでしょう？　……いつか、いつか遠い道の先に、僕に心臓が入用になるときが来るかもしれない。そのときのために、返してほしい。……ねえ、シャオツィ。僕があなたのためにつくった花かんむりを、頭に飾ってほしいだなんて贅沢は、この際言わないことにしておこう。でも、その花かんむりのうちのひとつでも手にとって、僕を思い出としてでもその胸に留めておいてくれるなら、僕は、君が返してくれた心臓が別の想いに高鳴る日が来ても、自分を許せると思うんだよ」

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