二、道なき道のどうどうめぐり バルコニーの手すりにもたれながら、セルファスはぼんやりと都の屋根屋根を眺めていた。風が銀の髪をさやさやと撫でて通り過ぎてゆく。彼のすみれ色の眼下で人々は忙しく道を行き交い、街は以前と変わらぬにぎわいを取りもどしたかに見える。神女が、海神と戦って死す前と同様のにぎわいを。 しかしセルファスの胸の中にある何か――魂のような何か――は宙ぶらりんになっているような心地で、不安定で、ひどく虚ろなままだった。海神の神女シャオツィが健在だったときには、常に明るく過剰なほどに脈打っていたというのに。神女の意識が外界にさまよい出でて彼女が眠り続けているときですらそうだった。なのに。今では廃墟のようなあばらの骨の隙間を、木枯らしが吹きぬけていくがごとくの空虚だ。心臓が手品のように掻き消えて、あるべき場所が空洞になってしまったのではないかと疑いたくなるほどに、虚ろだった。 目を閉じればすぐに、シャオツィが怒った際のつりあがった青い瞳が思い浮かんだ。跳ね上がった白銀の眉、白い頬に挿した朱色。セルファスを押しのけようとした華奢な腕。もうそのどれにも触れることはおろか、見ることもかなわない。 彼女は、この世界から完全に旅立ってしまったのだから。 「セルファス」 耳慣れた声に――今は最も聞きたくもない声に名を呼ばれた。彼は振り返らなかった。 「あんた、まだ魂すっぽぬかれたまんまみたいね」 そしてセルファスは応えもしなかった。 「……いつまでそうしているつもり？」 さあ、いつまでだろう。心中では思ったが、もちろん口には出さなかった。 「海神の神女は死んだのよ？ しかも、あいつは日の息子を連れ合いに選んで。それはあんたが一番よくわかってるんじゃないの？」 じくじくじくじくと、腹立たしさがみぞおちからせり上がってきた。不快だ。耳をたたんでしまえたら、どんなに楽か。 「セルファス」 もう一度名を呼ばれたとき、彼の我慢は限界に達し、彼は視線をつとはずしたまま、少女のわきを通り過ぎて室内にもどった。少女は噛み付くようにすばやく彼の衣をつかんだ。 「ちょっと、何とか言ったらどうなの？」 黒くざらりとした澱を体の奥底の地底湖の水面から吐き出すように、セルファスは息を漏らしながら、少女の目を見た。少女は彼の険悪なまなざしにたじろいたようだった。 「いい加減にしろアザレア」 僕は、そんなにできた人間じゃない。僕のはらわたが沸点に達する前に、君は姿を消すべきだ。口には出さずに、セルファスは腹の中で言った。くれないの髪をした長身の少女は燃える薄紫の双眸に息をのみ、弁解するように、早口でまくしたてた。 「だ、だって、本当のことじゃないの。それなのにセルファスはまだ神女のことを考えて物思いに沈んでばっかり。おかしいのよ。もう終わってしまったことなのに、どうしてあんな神女のために、セルファスがそんな顔をして悲しみ続けなくちゃなんないの？」 「シャオツィを侮辱するなら、僕が許さない」 「何よ、セルファスは神女に選ばれなかったくせに！」 神女が選んだのは、ルカウだったのよ！ それなのにどうして、セルファスはあの神女のことを思い続けるの。 内臓をえぐられる不快感と痛みを噛み締めて押し殺したセルファスは、衣をつかんでいたアザレアの手を乱暴に引き剥がした。凶暴な獣にでもなった気分だ。 「アザレアには、僕にとやかく言う権利などない」 アザレアはひるんだが、それでも言い返した。 「でもあたしはセルファスの許婚よ」 「僕は認めていない」 そのまま、セルファスはアザレアに一瞥だってくれてやらずに立ち去るつもりでいた。立ち去るつもり、だった。 「…………神女とルカウの亡骸を盗んだ犯人って、セルファスでしょう」 アザレアがこんなことを言わなければ。 「セルファスなんでしょう？ 宮の上層部は何とかして聖骸を取りもどそうとして、でも何の情報もなくて、上へ下への大騒ぎみたいだけど」 「――君は犯人が僕だと確信した上で、僕を脅そうっていうのかい？」 セルファスは地の底を這う声音で、極寒の視線をアザレアへと向けた。途端、アザレアは蛇ににらまれたカエルのように射すくめられ、膝を震えさせた。 「そ……そんなつもりじゃなかったの。脅すつもりもないし、セルファスを海神の宮に訴えるつもりなんて、まつげの先ほどだってないのよ」 「じゃあなぜ？」 なぜ、そんなことを言う？ アザレアはその問いに答えようとして口を開きかけたが、セルファスは聞く耳を持ってやるものかと決心した。彼は口を開けかけたアザレアをそのまま残し部屋を出、音高く扉を閉めて、足早に廊下を突っ切ると月の宮を脱け出した。そのまま厩舎へと向かう。馬丁が目を白黒させて「どこへお出かけなさるのですか」と追いすがってくるのを羽虫を追い払うように振り払い、手綱がかけられただけの馬に身一つでまたがり、門を出た。馬腹を蹴りこむと、月の宮の美しい外壁はあっという間に背後に流れていった。 大聖殿の紛糾は、数日のうちに無秩序な混乱に変わったように思われた。通り過ぎざまに聞こえてきた罵声や怒号は、意味をなさないものばかりだ。海神の宮の祭司長の権力は失墜した。日、月、星の三宮はまだ良い。だが、神女と日の息子が命と引き換えにわだつみを討った今、海神の宮の存在意義はなくなってしまったのだ。海都の体制は、近々様変わりすることをせまられるだろう。 セルファスは手綱をさばき、騒がしい大聖堂の敷地から遠ざかった。彼は、シャオツィが旅立った大河を目指して馬を走らせていた。静かに川の果てを見つめたかった。彼女が眠る果ての地をただ静かにのぞみたかった。 花があふれた岸辺。シャオツィの瞳のような青い川面。草の香り。涼やかな風。すべてが彼をやさしくくるんだ。ここにはアザレアの責めるような声も、月の宮の務めも、大聖堂で繰り広げられる醜い政争も、何もない。シャオツィと別れた日と同じ、やさしい静寂があるだけだ。 馬に草を食ませ、セルファスはひとり川辺まで行き、やわらかな芝生の上にごろり横になった。今度は目を閉じなくとも、水色に靄がかった空にシャオツィの様々な表情が、映し出されたかのようにはっきりと見える。様々とは言っても、彼女がセルファスに見せたほとんどは、怒りのバリエーションばかりだったのだが。 彼女の眠る柩を馬車に乗せて運んでくるよりも先に、シャオツィが元気であったうちに、この美しい川辺に連れてこればよかった。そうしたなら、きっと彼女は喜んだだろう。水際で遊んだかもしれない。草の上を跳びまわったかもしれない。色とりどりの草花で、花かんむりを作ったかもしれない。――――そうしたなら、自分を、もう少しだけ好いてくれたかもしれない。セルファスは大地に頬をつけて、涙をこらえた。シャオツィが海都に帰ってきたばかりの頃、どうしてああも性急に自分の気持ちばかりをおしつけてしまったのだろう？ ルカウがしたように彼女の話を聞き、彼女が望むようにいろいろなことを取り計らったのなら、シャオツィは日の息子ではなく月の息子を選んでくれただろうか。今となっては、わからないことだけれども。 馬のひづめの音が大地に響いた。セルファスが乗ってきた馬はまだ近くで草を食んでいる。別の馬の足音だ。予感を得たセルファスは、顔を上げなかった。こんな情けない顔を、誰にも見せてなるものか。彼はうつぶせになり、肺いっぱいに土の香りを吸い込んだ。ひづめの音はすぐそこまで来ていた。 |
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