| Nachtmusik 屋上にて |
あの日から、私の世界はセピア色になった。 モノクロみたく色がなくなったわけではないけれど、 どれも遠くて、曖昧で。 伸ばした手は宙を掻くばかり。 ねえ、私に応えて。あなたの声が聴きたい。 がばり、と私に向けて頭が下げられて。 「沖沢さん、俺と付き合ってください！」 単刀直入。ごくシンプル。 屋上の明るい太陽に白い夏服のシャツがまぶしいけれど。もう少し、独創性のあるセリフは思いつかなかったの？ 「ごめんなさい」 だから私も、ごくシンプルに答えた。 「君のことをそういうふうには見ることはできないの。だから」 しばらく間があいて、彼は呆然としていた。 「ごめんなさい」 もう一度私が言うと、彼は眉毛を八の字にして笑った。 「あ……いや。駄目かな、とは思ってたんだけどね。やっぱりきっぱり断られちゃうと、落ち込むなあ」 またしても独創性のない繕いかた。私は返事の代わりに微笑んだ。 彼とは去年同じクラスで、委員長も一緒にやった。悪いやつじゃない。友達かと問われれば、たぶんそうだと私は答えるだろう。でも、それだけのこと。 彼が心もち背を丸めて屋上からの階段を下っているのを見届けると、私は空を見上げた。 胸いっぱいに風の匂いを吸い込む。季節は六月。梅雨の晴れ間は貴重だし、とても風の香りがいい。 「……ねえ」 深呼吸を終えて、振り返らずに呼びかける。 「人の告白現場をのぞき見だなんて、とんだ悪趣味だわ」 「のぞき見なんかじゃないよ」 階段を覆った壁の陰に座っていた人影が身じろぎした。 「僕のほうが先に、ここにいたんだから」 「普通、気を利かせて出て行ったりするものじゃない？」 人影は立ち上がり、こちらへ歩み寄ってくる。 「機会を逃しちゃったんだよ」 「どうだか」 私はかたわらに立った彼をにらんだ。 彼の名前は瀬野譲。授業中の居眠り、内職の常習犯なのに、なぜが常に成績は学年二位だ。その成績優秀さと色白で繊細で端整なその優男ぶりがものをいって、学内でこいつのファンじゃない女子を探すほうが難しい。私はそのごく希少な、ファンではないほうの女子なのだけど。 「ねえちとせ、ちとせに告白しに来たやつって今ので何人目？」 「数えちゃいないわよ、そんなの」 「うわ、かわいそう」 瀬野は笑った。まったく、どの口がかわいそうなどと言えるのか。 「君に言われたくないわね。君が受け付けてはねのける告白数に比べたら、私なんか数える価値もないくらい少しだもの」 沖沢千歳、十六歳。私は腰まで伸ばした長い黒髪と常に学年一位の成績を持っていることをのぞけば、どうということもないただの高校二年生だ。そんな私でも、ときには男子から告白されたりする。そのたびにこいつらは物好きだなあと思って断るだけだけど。もしかしたら恋愛云々ではなくって、私が几帳面にまとめているノートや参考書への書き込みが目当てなのかもしれない。 一方で瀬野は、学校が休みの日以外はほとんど毎日といっていいほど屋上に呼び出される。そして恋する女子たちから差し出される告白やラブレターを受けとったそばから、「魅惑的な微笑み」を浮かべたままばっさばっさと破り捨てる、らしい。私はのぞき見をしたわけじゃないから、真偽のほどは知らないけれど。 「ああそうだ。ちとせ、この前の話。考えてくれた？」 瀬野が例の「魅惑的な微笑み」で私ににっこりした。この笑顔にノックアウトされる女子は数えきれないらしいけれど、私はその笑顔の下によからぬ魂胆がひそんでいるのを知っているから何とも思わない。 「さあ？ どんな話だったっけ」 瀬野は唇を絶妙な角度でつり上げたまま、私に顔を近づけた。 「僕を好きになってほしいって話」 さらりと、簡単に言ってくれる。普通、こういうセリフって顔を赤くしたり、さっきの奴みたいに照れを隠すために目をそらしたりするものでしょう？ 瀬野は慣れてるんだろうなぁ、女の子を口説くってこと。だからこんなにも表情を変えずに、さらりと言ってのけるにちがいない。 「お断りするわ」 「どうして」 心外そうに目を瞠って小首を傾げ、私をのぞきこむ。 「どうしてって、自分の胸に手をあてて考えなさいよ」 「心当たりがないから、どうしてって聞いてるのに」 「何人も女の子泣せてるあんたが満面の笑顔で私に好きだとか何とか言ったって、冗談以外の何にも聞こえないのよ」 「ひどいなあ。冗談なんかじゃないのに」 「それにしちゃあ、誠意のこもっていない口ぶりだったわね。しかもものすごくああいった台詞を言うのに慣れてる感じがしたし」 「ちとせ。僕の誠意がどれくらいか知りたい？」 「……遠慮しとくわ」 私は腰を下ろして、フェンスに背中をあずける。ギシ、と軽くフェンスが軋んだ。 「私みたいな難しい物件じゃなくて、もうちょっと簡単にいい返事をくれる女の子を選びなさいよ。瀬野なら、絶対優理みたいな女の子に夢中になるものだと思ってたわ。そうでしょう？」 「うん、山浦さんはかわいいね」 瀬野は素直にうなずいた。山浦優理は、私の数少ない友人のうちの一人だ。 「優理は私が見てもかわいいと思うわ。小さくて、白くて、細くて、目が大きくて、睫毛長くて、守ってあげたくなる感じで、それでいて垢抜けてて」 「でも山浦さんには滝村がいるし」 「だから優理みたいな、ってたとえただけじゃないの。そういう子に比べたら私なんかのどこがいいの？」 「僕が好きなのは山浦さんじゃなくて、ちとせだから」 瀬野も私にあわせるように座って、フェンスにもたれかかる。 「どこがいいとかどこが好き、なんじゃなくて、ちとせだからいいんだ」 「私なんかを彼女にしたって、となりを歩かせてもさぞ見栄えがしないでしょうね」 「そんなことないよ」 「そう？ だって、男って女の子を自分のアクセサリーか何かだって思っているでしょう。だからぽいぽい簡単に彼女を替えるんだわ。洋服を着替えたり、アクセサリーを付け替えるつもりで。外見に飽きたらおしまいで」 「そうじゃない男もいるよ」 そう言った瀬野のまなざしは、なぜかとても真剣で。こいつもこういう目ができるんだなって、私は妙に感心してしまった。だって瀬野譲はいつでも、誰にでも優しくて、優しい笑顔を振り撒いていて。私だって、そんな瀬野しか知らなかったから。 「それに……たいていの男は女のこと馬鹿にしてるでしょう。自分より頭がいい女は彼女にしたくないって思っている奴が多いって、日本史の田端先生も言ってたじゃない」 「それでも、そうじゃない男もいる。少なくとも、ちとせに告白してくる奴らはきっとみんなそうだよ。成績、ちとせがトップなんだから」 「ふーん。そう。そうかもね」 気乗りのしない顔で、私は瀬野を見る。瀬野はまたいつもの柔らかい微笑みに戻っていて、そうだよ、とうなずいた。 「ね？ だからさ、僕の誠意と想いに応えてほしいな」 「いったいどこをどうしたら〝だから〟が出てくるのよ。何の脈絡もないじゃないの」 私は立ち上がった。ちょうど、昼休みが終わる五分前。予鈴がうるさく鳴っている。瀬野もチャイムの音に腰を上げて、やれやれと伸びをした。 「私は教室に戻るけど、瀬野はサボり？」 「うーん……ひとりじゃ寂しいから、ちとせもつきあってよ」 「嫌」 私の突っぱねた返事に瀬野の笑みが深くなる。風に、さわりと彼の髪が揺れる。 「そうだよね。真面目で優等生なちとせには、無理なお誘いだったかな」 「わかってるなら言わないで頂戴」 私の髪も、風にもてあそばれる。じっとりと首筋は汗ばむのに、束ねたくないのは私のこだわりで。 「じゃあね」 まだ動こうとしない瀬野に手を振って、私は屋上をあとにした。 |
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