| Nachtmusik おすそわけ |
曇りガラスにえがかれたオレンジの樹。そのガラスを額縁のようにふちどる頑丈なドアを押しあける。 カランカラン。 真鍮のドアベルが心地よく耳に響いた。 「ミチルさん、来たよー」 元気よく声をかけると、カウンターからにっこりと素晴らしいことこの上ないほほ笑みが返ってくる。白地に薄青いピンストライプが入ったシャツに、黒のタブリエ。ミチルさんはいつも清潔で、きらきらしていて、まぶしい。 〔いらっしゃい〕 私はカウンターの一番奥、いつもの席に座ってにっこり笑い返した。 「いつものやつ、頼むわね」 〔はいはい〕 ひらひらと手をふって、ミチルさんはポットとコゼーを用意する。 ミチルさんは声が不自由だ。小さいころに何かの薬品を吸いこんでしまったとかで、思うようにしゃべることができない。だから会話は、自然と身ぶり手ぶり、そして口のおよその形を読んで雰囲気やニュアンスでつかむものになる。私、手話できないから。 だけどそれを厄介だとか面倒だとかって感じたことは全然なくて、私はいつも、ミチルさんの声がすぐ耳もとで聞こえるような気さえする。ミチルさんって、言いたいことを何気ないしぐさで伝えるのが上手なんだ。もしもミチルさんがしゃべれたとしたら、きっとミチルさんの声はちょっと低くてやわらかくて、おだやかで陽だまりみたいなあたたかさのある声なんだろうな。 こぽこぽこぽ。 お湯が注がれる、小気味よい音。 「何かいいお菓子、入ってる？ お茶請けに」 〔ロッククッキーを焼いたけど、食べる？〕 ミチルさんが冷ましてあったオーブンの天板をかたむけて、焼きたてのクッキーを見せてくれた。 「食べる食べる！ 私大好き！！」 ミチルさんのお菓子は、天下一品。食べないわけがない。 「兄貴も言ってたのよ。ミチルさんのお菓子は最高だって！」 〔東藤にまで褒めていただけるとは光栄だね〕 笑いながらミチルさんが肩をすくめる。そう。ミチルさんは兄貴の腐れ縁というか、古なじみなんだ。 「いや、ほんとのことだから。私、ミチルさんのクッキー食べるためだったら、どんなにお高くたってそのために貯金するよ」 〔それはすごいね〕 「本気だよ、私」 〔そんなぼったくるようなことはしないよ？〕 「わかってる。もののたとえよ」 ミチルさんが淹れたての紅茶を出してくれた。アップルティーのいい香り。うん、癒される癒される。一級品のお菓子がつくれて、さらに絶品の紅茶を入れるミチルさんの手はまさに神の手だ。 「うわあおいしい！ 兄貴にお土産に、ちょっとクッキーもって帰っていい？」 〔もちろん。……東藤、そういえば最近顔出さないけど、元気でやってる？〕 「兄貴ね、近頃サークルが忙しいんだってさ」 〔晶ちゃんも部活動、忙しくない？〕 「忙しいよ」 〔こんなところで油売ってても大丈夫？〕 油売ってるだなんて！ 私は絶品の紅茶をあやうく吹き出すところだった。 「ひどい。こんなところってねぇ……ミチルさん、ここは私のオアシスなのよ？」 〔ハハ。嬉しいね、そう言ってくれると〕 「バレー部は平気。練習ある日にはちゃんと出てるから」 〔今日はお休み？〕 「まあね。顧問が出張」 〔なるほど〕 「……ねえ、ミチルさん」 私はまじめな顔になって、まっすぐにミチルさんをみつめた。すぐ目の前に、ミチルさんの小づくりな白い顔がある。 〔なに？〕 「私、ここに連れてきたいヤツがいるの」 ぱちぱちとミチルさんがまばたく。細い首が傾げられる。 「そいつ、見た目よくって頭もよくって女子から熱烈に人気あって。一見ものすごくめぐまれてて幸せそうなのに、実のところ全然そうじゃなさそうなヤツなの」 〔…………〕 瀬野。私の友達。笑顔の奥は、きっと今にも壊れてしまいそうなガラスの泣き顔。 「でもね。そいつはひとりの女の子を好きになって、追いかけまわしてて。彼女を追っているときは、そいつ、とっても幸せそうな目をしてるのよ」 〔……うん〕 「だけどその女の子はそいつに一向になびきそうにないのよ」 〔うん〕 「あいつをね、癒してやれるのは彼女だけだと思うんだけど。それでも痛々しく笑ってるのを見てるのは、こっちがなんだかつらいの」 〔うん〕 「ここに連れてきたら……完全に癒すことはできなくても、なぐさめにはなるんじゃないかなと思って。なんてったって、ミチルさんは私のオアシスだし。ミチルさんのお菓子を食べて紅茶を飲んだら、一時でもあいつを本物の笑顔にしてやれるんじゃないかなって」 〔……うん。連れておいでよ〕 ミチルさんはとても優しい目で、言った。凪いだ湖のような、きれいな瞳。 「ありがと。ミチルさん大好きー」 〔ふふ。どういたしまして〕 「私って、本物の幸せ者よね」 〔幸せ者だと自覚できるのは素晴らしいことだよ〕 「うん」 〔幸せ者の晶ちゃんにそんなに気にかけてもらえる彼も、きっと君のそばでは幸せ者なんだよ〕 「そうかな」 〔そうだよ〕 甘くて爽やかなアップルティー。 チョコレートチップの入ったロッククッキー。 そして目の前にいるミチルさん。 ――瀬野。 あんたにも、私の幸せを少し、分けてあげるよ。 |
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