町人が蜂蜜とお茶で楽しく語らいをする時間。 アーレインは、いつものように裏山に登った。膝下まである厚織りの上衣にこげ茶色のズボン、頑丈なブーツを履き、背中には籐の籠といういでたちである。ポケットには小腹がすいたときのために乾燥させた果実を入れ、ベルトには水でたっぷりとふくらませた革袋をさげた。 彼女がかたい靴底で地面を踏みしめるたびにさわやかな草の香りが周囲に散る。風の凪いだ空は色石のターコイズのように美しく晴れわたっている。緑の大地と澄みきった蒼穹はヘーデンの宝だ。南へ行けばもっと暖かいだろうが、空はけぶって淡いに違いない。ヘーデン地方のさらに北の湖水地方は、五つの湖と国内随一の厳格さを誇るハルマン修道院で有名だが、この時期でもまだ雪が解けきらずに空気ははりつめていることだろう。湖と、氷の荒野。修道院が建つほどなのだから、よほど何もなくて退屈で質素な土地に違いない。ヘーデン生まれで良かったと、アーレインはしみじみ思う。 木の根元に生える薬草や香油用の花を摘んでは背負った籠に放りこんだ。解毒に使える草は同時に強力な毒草である場合も多いため、ほかの薬草と触れ合わないように厳重に懐紙でくるむ。歩きまわるうちに日あたりの良い斜面に立派な春タンポポの群落を見つけると、根を炒ってコーヒーにするために彼女はタンポポの長い根を数本掘り起こした。 籠の三分の二まで採集した薬草がたまり、日が西にかたむいた頃。 アーレインは籠を傍らに置き、太い木の根に腰を下ろして空を仰いだ。五年前に弟が消えた場所に行き、手がかりになるものはないかと丹念に調べたが、いつものごとく何も見つかりはしなかった。西の方角はほんのりと山吹色に染まりはじめ、春の空気は少しずつ冷えて頼りなげになってゆく。上衣のポケットから干した果実をとり出して噛みしめると、甘苦い独特の味がした。 アーレインはしばらくぼんやりとしていたが、不意に、こちらへやってくる人影に気がついた。距離はまだ遠いが、ふらふらとおぼつかない足どりであることは見てとれる。肩幅が広く、背が高い。男だ。昼間の旅人といい、今日は妙な人物と遭遇する相でも出ているのかもしれない。アーレインは立ち上がってオリーブ色の双眸を凝らした。それとほぼ同時に、男は足がもつれたようになって芝生の中に倒れこんだ。目を凝らしたまま彼女は動かずにいたが、もう一度人影が起き上がることはなかった。アーレインは籠を片手にぶらさげて、倒れこんだ彼に歩み寄った。 「……どうしたの？」 彼女は声をかけた。しかし返事はない。 うつぶせに倒れているのは、麦藁色の髪をした長身の男だった。赤紫の狩猟服に黒の乗馬ズボン。銀の拍車がついたスエードのブーツ。身なりからして郷士か下流貴族だろうが、ディッセルベーンの者ではない。アーレインは仕事がら町人のほとんどとは顔なじみだが、この男には、まったくもって見覚えがなかった。 首筋に軽くふれると、やや弱いものの脈が感じられた。とりあえず死んではいない。仰向けにさせようとして男の顔の下に手を差しこんだアーレインは、その頬の熱さと手のひらにべとついた汗のに驚いた。できるだけ負担をかけないように努めて仰向かせると、若く端整だが苦痛にゆがめられた顔を目の当たりにすることとなった。ただごとではない。もともと病気持ちでなかったのならば、何かの毒にあたったに違いない。 医者のあてがあれば当然医者を呼ぶべきなのだろう。しかし町へ戻ったとしても、ディッセルベーンに医者はいない。医者を呼ぼうと思えば、一番近くてリンデルの街へ馬を飛ばさなくてはならない。リンデルまでは馬車ならば三日、単騎で駆けたとしても最低一日半はかかる。医者のいないディッセルベーンでは、まじない師であるアーレインと占い女の老婆がその代わりを務めていた。ちょっとした腹痛や頭痛であれば簡単に薬を調合できる。毒草から痛み止めを精製することもできる。 アーレインは唇を引き結んで、ともすれば呼吸が弱くなる青年の上着を脱がせた。彼が手で左のわき腹を押さえる格好をしていたので袖を抜くのには苦労した。手をわき腹からはがすと、押さえられていた部分に黒っぽい染みが現れた。小さな染みが、二つ。一瞬考え、そしてすぐにアーレインは飛び上がった。クロナガヘビの牙の痕だ。 スカーフを取り去りブラウスのボタンをはずす。年頃の娘として若い男の胸をはだけさせることにいささか抵抗があったのも事実だが、今はためらっている場合ではなかった。白くさらけさせた左肩にこれまた黒く引きつった妙な痕を見つけたが、これは噛み痕ではない。十字をななめにして円で囲んだような印章めいたものだ。アーレインはひとまずこちらを無視し、わき腹の傷に集中した。 クロナガヘビはヘーデン一帯の草むらに生息する毒蛇の一種である。噛まれると傷が腫れて変色し、高熱が出る。ガルテン地方など国南部の森林に生息するマムシやハブとは異なり、毒性が消化されることはなく、誤って毒をのみこんでしまうと死に至る。味も匂いもない毒なので、国史書の記述によれば暗殺に用いられたことさえあるのだそうだ。しかし噛み傷だけならば、薬草を調合して毒を中和させることができる。半年ほど前だったか、マレイユの息子ディールもクロナガヘビに噛まれた。傷口が腫れあがり、汗がふき出し、高熱が続いた。見ている自分のほうがつらくなり、一刻も早く解毒薬を完成させようと薬草関係の書物を手あたりしだいにめくったものだ。幸い、眠らずに作った薬がよく効いて、ディールは一命をとりとめたわけだが。 しかし今はその薬を持ちあわせていない。アーレインはまず、青年の傷口を心臓より低い位置に保たせるため、背と頭に丸めた上着をさし入れた。そして傷を洗い、ディールの時の記憶を頼りにヘビ毒を中和させるはたらきの薬草を籠の中から探し出した。ほかにも数種類を選んで口の中に放り入れ、一緒くたに噛み混ぜる。乳鉢もガラス器もないのだからしかたがない。しばらく口にふくんで充分に混ざりあった薬草を懐紙に吐き出すとそれを湿布にして青年のわき腹にあてがった。これで一晩もすれば、熱も汗も引くはずである。 ひととおり手当てを終えて気がつけば、夕日はまさにフォンティーナ山脈の向こうに沈もうとしていた。一番星が頭上で瞬いている。革袋に残っていた水で口と手をゆすぎ、アーレインは横たわったままの青年を見下ろした。湿布がかなり効いたようで呼吸はかなり落ち着き、一定の間隔で胸が上下している。 ――さて……どうしたものだろう―― 彼女は考えた。このまま意識を取りもどすまで待っていようか、帰ってしまおうか。もうじき夕食の時間である。閉店時刻をすぎても帰らなければ父や母が心配するだろう。 しかし、アーレインは迷っていた。ここは、彼女の弟が――ハーティスが消えたまさにその場所だったのだから。弟が魔女に連れ去られるのを許してしまったこの場所で、弱っている人間を置きざりにしてしまうのはどうしても気がひけた。 どうしようか。罪悪感は感じるが、このままとどまっていてもどうしようもないかもしれない。町の自警団に連絡するべきだろうか。夜明けまでのあいだなら、彼を一人にしておいても大丈夫だろうか――…… 「おい」 突然。足元から声をかけられてアーレインは飛び上がった。本当ならば飛び退きたかったのだが、足首をつかまれていたためにそれはかなわなかった。 「水が、ほしい」 足元の声が言った。アーレインは一瞬声の出し方も忘れて、ただ機械的に革袋を差し出した。中にはほんの数滴だけ、水が残っていた。 意識をとりもどすために丸一晩かかった幼いディールとは異なり、もともと体力があったので回復が早かったのだろう。気がついた青年は緩慢な動作で上体を起こし、途中で傷口が痛んだのか一度顔をしかめ、ふるえる指先で革袋を受けとった。そして数滴の水をまるで極上の花酒であるかのように、ゆっくりと味わい、飲みこみ、最後に大きく息をついた。アーレインは動くことができずに、ただその様子を見つめていた。 しばらくして、青年が顔をあげたので、見下ろしていたアーレインの視線と彼の視線とがまっすぐにぶつかった。月明かりを受けてアーレインの目に見えたのは琥珀を思わせる金茶の瞳だった。切れ長のその瞳は、命を救ってくれた彼女への感謝というよりも、むしろ不信と猜疑に満ち満ちていた。 「……見たか？」 彼は言った。アーレインはわけがわからなかった。 「見たのか？」 彼は重ねて言った。 「なにを？」 ようやく自分自身を落ち着けても、そう問い返すだけでアーレインは精一杯だった。青年は目に見えていらついていた。 「では、見ていないのか」 「だから、何を見たかと訊いているの？」 喉元を押さえてアーレインはもう一度声をしぼり出した。青年は不信にまみれたまなざしのまま、わき腹にあてがっていた手で左肩に触れた。途端、アーレインの脳裏に十字をななめにして円で囲んだような、奇妙な印章が思い浮かんだ。彼女の表情が変わったのを感じとった彼の声は一段も二段も低くなった。 「……見たのだな」 今度の彼の言葉は問いかけではなく、確認だった。彼は長く息を吐き出した。 「死にたくなかったら、ここにいろ。どこにも行くな」 「どういうことよ？」 だんだん、アーレインは青年のまなざしに射すくめられた恐怖よりも不条理さからくる怒りのほうが自分の中で勝っていくのを感じた。助けたはずなのに、この敵意に満ちた態度は何なのだ。 「そんな口がきけるくらいに元気なら、もう大丈夫でしょう？ 手当ては終わったし、私が帰ろうがどうしようが、あんたにどうこう言える権利はないわ」 糸がぷつりと切れた気分で彼女は言った。そして薬草の入った籠を片肩に背負い、きびすを返した。だが、彼女の背中にはヘビの毒のように青年の言葉が苦く染みた。「このまま貴様がここをはなれようものならば、そう遠くはないうちに貴様の命はないぞ」と。 「そんな馬鹿馬鹿しいおどしってないでしょう」 彼に背を向けたまま、アーレインは応えた。 「私、何かいけないことをした？ 咎められるようなことをした？ おどされなくちゃならないようなことをした？ ……あんたの手当てをしただけじゃない。なのに、どうしてこんなふうに言いがかりをつけられなくちゃいけないの」 「俺は助けてくれなど一言も頼んでいない」 「そうよ！ 私が勝手に助けただけよ！ 悪い？」 我慢ならなくなり、振り返ってアーレインは叫んだ。すっかり暗くなり静まっていた裏山の空気に彼女の高い声は大きく響いた。しかしそれも長く続きはしなかった。彼女が背後に大きな気配を感じたのとほぼ同時に、内臓が身体の奥へと沈みこんだ。後ろから迫っていた何者かにみぞおちを殴られたのだと認識するまでに、しばしの時間が必要だった。 なぜ殴られたのだろうと逡巡し、呼吸ができなくなり、膝がかくりと折れたが、地面に突っ伏することはなかった。彼女を殴ったその腕によって支えられていたのだ。 「ライナス様。申し訳ございませんでした」 「遅いぞ、バートラム」 これが、このときアーレインの聞いた最後の言葉だった。 |
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