番外編、黒の魔女


「アーレインを知らないか？」
　女中のマリサは、洗濯室に持っていくシーツをつめ込んだ籐かごを両手で抱えながら、主人の顔を見上げて大きな双眸をしばたいた。この館の若い主人は機嫌がすぐれないときのくせで、眉間にわずかに皺を刻んでいる。小さく息をつき、マリサは洗濯かごを抱えなおした。
「ご存知ないんですか？　奥様は、二時間も前から図書室にこもっておいでですよ」
「あいつを奥様なんぞと呼ぶな。まだ俺たちは結婚していないだろう」
　主人の眉間がますます深く皺を刻んだ。せっかくの端整な面立ちがだいなしだと、マリサは惜しく思った。
「同じようなものですよ。婚約者（フィアンセ）でいらっしゃるでしょう？」
「フィアンセと奥方では大いに違う。アーレインに面と向かって言ってみろ、あいつだって腹を立てるか笑い転げるかのどちらかだ。……図書室だったな、行ってくる」
　マリサは、麦藁色の金髪を揺らしながら立ち去るその長身の後ろ姿をやれやれと見送った。実際のところ、主人はアーレインという名のまじない師がみずからの「奥様」だと呼ばれることを、嫌うどころかまんざらでもないと感じているに違いないと、マリサは確信していた。

　アーレインは、二時間以上も前から本の樹海に埋没していた。造り付けの紫檀の書架に立てかけた梯子の途中に腰を下ろし、壁棚や棚板に分厚い本を何冊も積み上げて、黙々と文字をたどっているのだった。日光で書籍が傷んでしまわないように、図書室に窓は設けられていない。彼女はランプを傍らに置き、薄暗いなかでただひたすらページをめくった。魔術で照明用の光をかかげてもよかったのだが、本に没頭するためには光源の強さをいちいち調節するのが面倒だったので、蜜蝋のランプを使うことにしていた。
――絶対に、何かあるはずなのよ――
　『ミラスティアの歴史』という古語体で書かれた巨大な本を膝に抱え、アーレインはアリの行列のような文字を追った。
――これが執筆されたのが六百年前。レイリエ伯爵夫人が亡くなり、霊となってバラ園に出没し始めた頃。肖像画の顔が変わるだとか足音が聞こえるだとかいうのは単なるありふれた怪談だから無視するとして、問題は〝塔に眠るという異国の皇子〟。どの文献を紐解いても、古語体の文で、例の皇子が登場することはない。文法が現代語体へと移行したのが約三世紀前だから、やっぱり二百年前のエルディーニャ媛王国の件と関わりがある疑いが濃くなるわ――
「アーレイン」
　薄闇の中、耳に心地よい声が響き、アーレインは顔を上げた。首をめぐらせてみれば書架の下に金髪の長身痩躯の姿があり、腕組みをして、そしてどこかしら不機嫌そうな様子で、こちらを見上げているのだった。
「どうしたのライナス？」
「どうしたもこうしたもあるか。おまえは本に熱中すると、何ごとも全部忘れるだろう。今が何時だか知ってるか？　十一時をとうに過ぎたぞ。遠乗りに連れて行ってほしいと言ったのはどこの誰の口だ？」
「ああ、いけない。もうそんな時間？」
「だから俺は不機嫌なんだ」
「ライナスは上機嫌のときのほうが希少よ。不機嫌なのはめずらしいことじゃないわ」
　栞をはさみ込むとアーレインは『ミラスティアの歴史』を書架に戻し、梯子から飛び下りた。黒髪がぱっと舞い上がる。深緑の裾が広がり、その下のアンダースカートの白いひだがちらとのぞいたので、ライナスはあわてて目をそらした。けれどもアーレインは彼の態度をまったく気に留めることなく柔らかく着地し、棚上に置いてあったランプを指先の動きひとつで手もとへと下ろした。
「じゃあ厩舎に行きましょう？　昼食までまだ時間があることだし、内周のひとまわりくらいならできるわ」
　一度ライナスの方を見遣っただけで、彼女は歩き出した。大樹のようにそそり立つ書架書棚のあいだをすばやく器用にすり抜けてゆく。城館の若い主人の口からは思わずため息が漏れ、婚約者の姿を見失わないようにとすぐさまそのあとを追うほかなかった。
「敷地内をまわるだけでは、遠乗りと言わないだろう」
　重い両開きの扉をあけて廊下に出る。大きなはめ込み窓のガラス越しに降り注ぐ白い陽光が、ひどくまぶしい。アーレインは目を細め、額の上に手をかざした。
「遠乗りはまた今度。遠くに出なくたって、馬に乗るだけでもいい気分転換になるもの」
「……おまえは、行きたいと言っていた遠乗りをすっかり忘れるほどの、いったい何を調べていたんだ？」
「学院で、ちょっと気になる噂を聞いたのよ」
「噂？」
　ライナスの形よい眉がひそめられた。
「おまえのまわりで、ろくでもない噂が立てられているということか」
　彼には心当たりがあった。アーレインに関する噂ならば、宮殿に昇殿しているときも執務にたずさわっているときも、無意識のうちに耳に入ってくるものなのだ。
　アーレインが学院に籍を置くようになって数か月。シェルパーダ公爵の名によって推薦された彼女は、入学試験を全面的に免除され編入、他の学院生たちから羨望と嫉妬と悪意の混濁したまなざしで見られることとなった。彼女の魔術は単なるまじない師の域をすでにはるかに越えており、入学したばかりの一回生でありながら高名な教授の多くから一目置かれている。そんなアーレインを快く思わない輩たちは、陰で彼女のことを「黒の魔女」と呼んだ。あることないことを吹聴してまわり、「黒の魔女」の悪名は皇王の耳に届くほどなのだった。
「黒の魔女殿はお元気か？」
　以前、皇王ルバートが、からかうようにライナスに言ったことがあった。
「ミラスティアから穏やかでない話が、次から次へと聞こえてくるな。召喚した異形の魔物とアーレイン殿が毎夜逢瀬を重ねていると、まことしやかに囁かれているようだよ」
　ライナスは根も葉もない噂に怒り狂った。しかしこの皇王が楽しむばかりでまるで真に受けておらず、噂の当人であるはずのアーレインも、何もライナスに訴えようとしないので、彼は学院に乗り込みたいという衝動を必死で抑え、怒りを腹にため込む努力をしていたのだ。
　しかしようやく今、アーレインの口から被害を訴える声を聞くことができる。そう思い、ライナスは息をはずませた。
「おまえのことを悪く言う輩がいるのだろう？　アーレインは黒の魔女だとか、何だとか」
「違うわ」
　臙脂のじゅうたんを踏んで中央階段を下り、玄関ホールをまっすぐに突っ切ると、アーレインは突然足を止めてライナスを振り返った。
「そんなちんけな噂、私が気にすると思う？　私にとって気がかりなのは、そういった馬鹿どもとは関係のないことなの」
　二人はしばらく向かい合い、その瞳の奥にあるものをさぐりあった。けれどもライナスには、緑褐色の双眸がいだく思惑を読み解くことはできなかった。
「…………いったい、何だというんだ？」
「〝塔に眠る皇子〟に関する噂よ」
　降参したライナスがたずねると、アーレインはあっさり明かした。
「塔に眠る皇子？」
「そう、塔に眠る皇子。ミラスティアの七不思議のひとつなのだけど、学院には、この皇子を利用して何かしようとたくらんでいる人間が少なからずいるようなの。でも、私にはまだよくは分からない。皇子の素性に何かが絶対隠されているはずなのに、異国の皇子の出身国自体が謎なのよ。それでも学院の中に裏切り者がいるだとか、その裏切り者が塔に眠る皇子の力を使って陰謀を練っているだとかそういう噂が飛び交っていて――」
「ばかばかしい」
　しまいまで聞かずに、ライナスはうんざりと頭をかかえた。アーレインは明らかに気分を害された顔をした。
「ばかばかしいって、どういうことよ？」
「七不思議なんぞ、ただの怪談だろう？　そんな作り話に惑わされるなんぞ、アーレインらしくもない」
「こういう伝承にこそ、虚構の中に本当の歴史が織り込まれていたりするのよ。……ああ、魔術の基礎構成すら理解しようとしないライナスに、こみいった話を理解してもらおうとした私が間違ってたわ。もうライナスは学院のことに首を突っ込まないで」
「首を突っ込むな？　誰のおかげで学院で勉強できると思っているんだ」
　ライナスがそう言い放ったと同時に、アーレインの喉がひゅっと鳴った。途端、ライナスはもっとも卑怯な言葉を持ち出してしまったことを激しく後悔した。アーレインは矢を射られた雌ジカのようにオリーブ色の瞳を見開き、こぶしを握り、唇を噛み締めていた。
「……ごめんなさい」
　硬質な声音で、アーレインが謝った。
「頭、冷やしてくるから」
　そのまま玄関ホールを出てどこへなりと消えかねないアーレインの腕をライナスはあわててつかんだ。ここで消えてもらっては困るのだ。彼女が姿を消してしまえば哀れな目を見るのは自分のほうなのだと、ライナスは重々承知していた。
「――遠乗りに行くんだろう」
　重い玄関扉を開け、彼は口笛で愛馬を呼んだ。敷地内の牧で草を食んでいた巨大な黒馬は、主人の口笛が聞こえるやいなや、牧の柵を軽々飛び越えて一直線に馳せ参じる。つややかなたてがみと尾を今日も誇らしげに波打たせて、雄馬は主人に向かって機嫌よく鼻を鳴らした。その背に半ば放り上げるようなかたちでアーレインを乗せると、ライナスは鞍もあぶみもない裸馬に、水鳥が舞い降りるように無駄なくまたがった。
「ちょ、ちょっと！　今遠乗りなんかに出かけたら、昼に帰ってこられないじゃないの」
「昼食なんぞ、何時になろうが帰ってきてから食べればいい」
　ライナスが馬腹を蹴ると、彼の意思を心得た黒馬は軽やかに駆け出した。鞍も何の足場もない不安定な馬上で、アーレインはまことに不本意ながら、ライナスの上着にしがみつくよりほかないのだった。
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