その日。ステンドグラスから差し込む青や緑の光を浴びながら、アーレインはミラスティア研究学院三階の回廊を歩いていた。先ほどからずっと、ちりちりとした視線を背筋に感じる。嫌な視線だった。アーレインは無視を決め込んで、ハルクメニア教授の研究室へと急いだ。
　幻影物質具象化論を専門とするハルクメニア教授は六十代も半ばを過ぎた白髪の老人で、鋭くとがった鼻の下に髪よりもさらに白いひげを雲のようにたくわえている。痩せぎすだが声は太くやわらかく、笑い声は調子はずれのフクロウのようだった。このハルクメニア教授が今朝早く、シェルパーダ公爵邸にアーレインへの使いをよこした。ひとつ、聞いて欲しい話があるとのことだった。アーレインはまだ学院に入学して半年も経たない一回生だが、ハルクメニア教授は彼女を高く評価し、研究生やマイスターたちと同様に研究室への出入りを許可している。アーレインがこうして呼び出されるのも、今回が初めてではなかった。
　回廊の最後の角を曲がり、学院舎の東西に張り出した研究棟に出る。床に敷かれた紺碧のカーペットを踏みしめ、アーレインはひとつの扉の前に立った。背には未だ不快な視線を感じるが、その視線が誰のものであるかを彼女は薄々勘づいていた。相手にする価値もない輩だ。アーレインはひとつため息をつき、「バークデイ＝ハルクメニア」と刻印された銀のプレートの下にもうけられた敲き金を鳴らした。
「アーレイン＝メリッシです。今、参りました」
　彼女が呼ばわると、内側から鍵が開けられ、フクロウじみた笑い声がこぼれ出た。
「よくぞきてくれたのう、アーレン君」
　この教授はとても人が好く親しみやすく、また、彼の論文はアーレインにとって非常に魅力的だったので、彼女はバークデイ＝ハルクメニアを少なからず尊敬していたのだが、ひとつ難点を挙げるとするならば、それは何度訂正をしてもアーレインという彼女の名前を「アーレン」と言い間違えることだった。これまでに彼女は「アーレン」と呼ばれるたびに訂正をしてきたのだが、近頃ではそれも結局は徒労になるのだと悟って、聞き流すようにしている。
「ほれ、そこのソファにかけておくれ。コーヒーがいいかな？　紅茶かな？」
「紅茶をいただきます」
　アーレインは応え、派手な織り柄のチンツ張りソファ（しかし教授一番のお気に入りの家具である）に腰かけた。彼女は実のところ紅茶よりもコーヒー党なのだが、ライナスが淹れるコーヒーを飲むようになってからというもの、外では飲む気がしなくなってしまった。あのいつも無愛想で不機嫌な顔とはまったくもって不似合いなことに、彼のたてたコーヒーはとびきりおいしいのである。そのコーヒーの香りの半分でも繊細さと優しさを本人が持ち合わせていたのならどんなに扱いやすいだろうかと、アーレインは常々考えているのだが、現実にはおそらくなりえないことだった。
　ベルガモットの芳香が立ち昇るティーカップを受け取り、彼女はひとすすりその香気を楽しんだ。そして、目の前に座り同じようにカップを口元へと運んでいる老教授をまっすぐに見た。
「……お話とは、いったいなんでしょうか」
「ああ、そうそう。先日は世話をかけたね。アーレン君のおかげで、カラスから黒馬へ変成する際の再構築過程をうまく理論化できそうじゃよ」
「お礼を賜るにはおよびません。……それに、先生だって、今日それだけをおっしゃるために私を呼んだわけではないでしょう？」
　ハルクメニア教授はゆたかなひげを揺らし、おかしそうに笑った。
「さすがはアーレン君じゃ。するどいのう」
「先生がただ礼をおっしゃるためだけに学生を呼び出すようなことはなさらない方だと、わかっていますから」
　教授はゆっくりとベルガモット・ティーを飲み干し、からになったカップをマホガニーのテーブルに置いた。アーレインはなおも、こちらをうかがうことなどできるはずもないのに、扉の向こうからの視線の気配を感じていた。
「……アーレン君は、ミラスティアの七不思議を知っているかね？」
　ふしくれだった老木の枝のような指を組み、ハルクメニア教授は言った。どんな話だろうかと構えていたアーレインは、少し拍子抜けした。
「七不思議？　ご婦人の霊がバラ園を歩くだとか、そういうやつですか？」
「そうじゃ。その七不思議のうちのひとつに、〝塔に眠る皇子〟という話がある」
　塔に眠る皇子。――たしかに、そんな逸話も七不思議に含まれていたような気がする。閉ざされた塔に、どこかの国の皇子が永き眠りについているだとか、そんな話だ。
「ミラスティアのいずれかの塔に、異国の皇子が眠っている。しかし普段使われていない尖塔のどれもがぐるりと石組みレンガの壁で囲われていて、入り口がない。入り口がないから調べようもない。どこに皇子が眠っているのかもわからんのだが……ひょんなことから、ちょっとした噂を耳にしてね」
　天文図が貼られた天井を仰ぎ、教授は口をへの字に曲げた。
「どの塔かまではわしにもわからん。だがね、その噂によればあるとき、入り口がないはずの尖塔のひとつに、扉の幻影が浮かび上がったそうじゃ。それはすぐに霞んで消えたらしいが、これは幻影物質具象化論的観点から言わせてもらえば、その扉を具現化することで塔の中に入ることができるのではないか――と、そう思うわけじゃよ」
　アーレインは腕組みをし、扉の幻影を構成している魔術について考えた。実在しているものをないように見せかけたり、存在しないものをあるように見せかける術は、たいして難しいものではない。けれども実際そこにあるべきものの存在を無にし、かつ一定の条件下で無から有へと復元させるのは至難のわざだ。しかも、そのごく近くに術者の姿がないというのならば、なおさら。
「つまり、塔に入って眠っている皇子の目を覚まさせることができるかもしれないと？」
「そのとおり」
　ハルクメニア教授は重々しくうなずき、腰を上げた。だが、「そのとおり」と言われたところで、アーレインは今ひとつ腑に落ちなかった。
「皇子の目を覚まさせてどうするんです？　何か良いことでもあるんですか？」
「そこが問題なんじゃよ」
　こつこつと靴音を響かせて研究室を歩きまわる教授の背中を、アーレインは目で追った。
「皇子の素姓も名前もわかってはおらん。ただ、異国の皇子とささやかれるのみじゃ。しかしこの皇子を目覚めさせることによって利を得ようとする輩が少なからず存在することも、また事実なのだよ」
「利？　素姓さえわからないというのに、いったいどんな利が見込めるんです？」
「素姓を知らぬのは、その利とやらに関心を持たぬわしらだけかも知れぬということじゃ」
　歩みを止め、彼は今一度天井の天文図を見上げた。
「ミラスティアは、ただ純粋に知識を求めるだけの者たちが集まる場所だとは言いきれまい。高い成績を修めれば宮廷から賢者として招かれることもある。貴族に上手く取り入れば、お抱えになり贅を極めることもできる。地位も権威も財も、学院を足がかりにして得ることができるとくれば、なおさらじゃ」
「…………」
「……ああ、すまぬな。アーレン君のことを言っているわけではないのだよ。君は貴族に寄生しようとする輩とは違う、お抱えなんぞであるはずがない――何と言っても、いずれは公爵夫人になるんだからの」
　アーレインは思わず苦笑した。
「いいえ、お気になさらないでください。それにシェルパーダ公に寄生したところで、なんにもしぼりとれやしませんから。何しろ彼は、富にも権力にもまるで無関心で、執着がないんです」
　今度は教授も苦笑いした。
「そこまで言ってしまっては、公爵様もかわいそうじゃろう」
「何とでも言ってやってください。ライナスは、爵位を捨ててヘーデンに帰れと言われたら喜んで帰るような人ですよ」
「――アーレン君。わしが今日、こうして君を呼んで話したのは、〝塔に眠る皇子〟には後ろ暗い噂がついてまわるということを知っておいてほしかったからなのだよ」
　真顔に戻った彼は、張り出し窓からアルソレイム宮殿を見遣った。
「君ほどの力を持つ者を、利を求むる輩は放ってはおくまい。まだ今は良い。眠り続ける皇子も単なる噂に過ぎないからの。だが、噂を真実に変えようとするとき、薬草園の魔女の隠された住み処すら探し当てたアーレン君を利用しようとする者たちが、きっと出てくる。……気をつけるんじゃぞ。わしは、それだけを伝えておきたかったのだよ」

　ハルクメニア教授の研究室を退出したアーレインの目の前に立ちはだかったのは、灰色がかった暗い紫の長衣を隙なく着こなした、ひとりの青年だった。アーレインは遠慮なくあからさまに嫌な顔をしてみせた。彼は切れ長の目をおかしそうに細め、小さく笑った。
「やあ、黒の魔女殿。偶然だね」
「私は帰るところなの、失礼」
「つれないなあ」
　彼は足を速めたアーレインの隣にぴたりとついてきた。
「研究室から出てきたってことは、ハルクメニア教授から面白い話を聞いてきたんだろう？　メリッシ、どんな話だったんだい？　休講日の今日出会ったのも何かの縁じゃないか、僕にも教えておくれよ」
「……白々しい。私が学院についたときから尾行していたくせに、よくもそんなことが言えるわね。最初から教授の話が目的だったなら、私をつけまわすのではなくて直接ハルクメニア教授に訊けばいいじゃないの」
「なんだ、ばれてたんだ」
「当然でしょう」
　彼の言い方はいちいち癇に障る。アーレインは彼の追尾をふりきろうとさらに足を急がせたが、いかんせんもともとの歩幅が違うので無意味だった。
「ねえ、ハルクメニアは君に何て言ってたんだい？」
「…………」
「もしかして〝塔に眠る皇子〟のことかい？」
「…………」
「学院首席の僕なら、きっとメリッシの力になることができる」
「…………」
「だだっ広いだけの公爵邸にハルクメニアの話を持ちかえったところで、誰と議論するつもりだい？　血筋だけで公爵になったような男じゃあ、きっと話にならないよ」
「クーレウスいい加減にして！」
　玄関ホールまで着たところで、アーレインは我慢ならずに叫んだ。
「この厚顔無恥の自信過剰男が何を偉そうにしゃあしゃあと吐かしてるのよ。自分のわいた脳みそすら認識できないあんたには、ライナスのことをどうこう言う権利なんてないわ。とっとと寮に帰って、鏡を見ることね。その顔の分厚い皮を恥じて剥ぎとるべきよ」
　鼻息も荒く門を飛び出すなり、アーレインは辻馬車を拾って飛び乗った。
「シェルパーダ公爵邸まで、急いで。一刻も早くここを離れたいの」
　御者は彼女の剣幕におそれいってあわてて鞭を当てた。門の内側ではクーレウスが薄ら笑いを浮かべたまま、アーレインの物言いがこたえた様子などみじんもなく、気分よさそうにこちらを眺めているのだった。
　アーレインは、帰ったらすぐに図書室にこもって〝塔に眠る皇子〟について調べてやろうと決心した。そして辻馬車が公爵邸の外門に馬を止めたときにはすでに、塔に眠る皇子にまつわる噂で頭の中はいっぱいになり、「遠乗りに行きたい」と言ってライナスに約束を取りつけてあったことを、すっかり失念してしまっていた。
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