頭が痛い。内側からも、外側からも。
　意識を回復してアーレインが真っ先に思い出したのは、頭の痛みだった。内側は悪酔いしたように渦を巻く鈍痛で、外側は殴られたせいでギチギチと硬質に痛んだ。アーレインは頭に触れようとして、腕が動かないことに気がついた。指を握ったり、開いたりしてみる。腰のあたりで両手首が縄で縛り合わされているのだった。
――今、何時だろう――
　確実に五時は過ぎているだろう。明かりとりの小さな窓を見つめながら、アーレインは思った。静かな宵の藍色がほんのり室内ににじんでいる。ダンスの稽古の時間に帰ってこなかったアーレインに、ライナスはたいそう腹をたてているに違いない。
　アーレインは自身が囚われているこの場所がどこであるかを知っていた。木と紙のにおい、少しくぐもった空気。学院の蔵書室に接した倉庫だ。古文献の修復に必要な道具や修復された絵の試し刷りの版画、黄ばんだ紙束が棚の中でひしめき合っている。
――場所がわかったからには、帰るのは簡単だわ。夕食に間に合うといいんだけど――
　アーレインは手首を縛めている縄に手を自由にするように命じた。ティーポットを浮かべたり、椅子を暴れさせたりするのと同じ類の術――意思なき道具を術者の意のままに動かす術だ。ところが、縄はアーレインの命令を受け入れるどころか、ますます彼女の腕をきつく縛り上げた。彼女は奥歯で悲鳴を噛み殺した。
――ただの縄じゃない！――
「魔女殿、お目覚めかな？」
　ドアが軋みながら開いて、銀灰色の目の男が入ってきた。群青の薄闇の中に、銀色の細い髪と白い素顔が浮かび上がる。その顔に浮かんだ笑顔は、アーレインにとって吐き気がするほど憎らしかった。クーレウスに、ほかならない。
「その縄は、たとえ君であっても簡単にはほどけないようにしてあるからね。解呪には相当手間取るはずだ」
　たいそう楽しげな彼の声にアーレインは首すじの産毛が逆立つのを感じた。
「塔に眠る皇子を目覚めさせたいんでしょう？　だったら勝手に起こせばいいじゃないの。私が知ったことじゃないわ。なのにどうしてこんなふうに縛られなくちゃならないの」
「それは君の力が必要だからに決まっているじゃないか。ねえ、黒の魔女殿」
　クーレウスの腕が伸びてきてアーレインの顎に触れようとしたので、彼女はひと睨みでクーレウスの袖を燃やしてやった。あんな汚い手で触られてたまるか！　クーレウスは一瞬目を見開き、やれやれといったふうに袖をはたいて火を消した。
「幻影を作り出すだけでなく、君はこうやって本物の炎を呼び起こすことができる。たかだかまじない師でありながら本質と知恵による術をすでに体得したその力が、塔に眠る皇子を目覚めさせるためには、どうしたって必要なのさ」
「誰もあんたに力を貸すつもりなんてないわ。他をあたればいいじゃないの」
　アーレインは縄にからめられたしつこい術の解呪にとりかかった。クーレウスによく似て粘着質で狡猾、始末に終えないタイプの術だ。複雑緻密に編みこまれた術をほどくには、たしかに極度の集中とある程度の時間が要される。虫唾が走る男と会話をしながら解呪をこなすのは、さすがに骨が折れた。
「君という魅力的な魔女がいるのに、他をあたる気にはなれなくてね」
「そういう中身のない口説き文句は、勧遊街のお店に行ったときにでも吐かせばいいでしょう」
「勧遊街で金を使って遊ぶ低俗な趣味はないのだよ、僕にはね」
「私をこうやって縛ってること自体、充分すぎるほど低俗な趣味じゃないの」
　そうアーレインが吐き捨てた瞬間、彼女の喉を冷たい手のひらが締め上げた。すぐ鼻先にまで近づいたクーレウスの口端が、にいと笑みをえがく。一瞬呼吸の仕方を忘れたかのようにアーレインの気管は麻痺し、背中に冷えた汗がどっと噴き出す。もう少しで解呪が完了するところであったというのに、酸素が遮断されると同時に頭の中が真っ白になり、脳裏から何もかもが吹っ飛んでしまった。
「高尚な目的を完遂するためにはこういった手段もやむをえないのだよ」
　唇を耳元にまで寄せられて低い声で囁かれ、締め上げられた喉元はやっとのことで解放されたが、ぐったりと力を失ったアーレインの体は床にくずおれてしまった。そのまま麻袋のように担ぎ上げられる。倉庫の扉が蹴飛ばされ、開かれた。酸素の足りない脳はアーレインの思うように働かず、手足も動こうとはしなかった。喉がただ、酸素を求めてひょうひょうと鳴る。
　蔵書室のある建物から外に出た途端、夜風の冷たさに鳥肌が立った。否、皮膚を粟立たせたのは夜風ではなく、嫌な予感がもたらす恐怖だ。これから起こるだろう恐ろしい出来事に、本能が警鐘を鳴らしている。後ろ手に縛られたままの指が震え始めた。
――何とかして、逃げないと――
　星のよく見える夜だった。大気がいやに澄んでいる。澄んだ大気は生き物の気配を敏感にとらえ、それをアーレインに伝えてきた。葉の下で動く虫、フクロウの鳴き声、アナネズミが走り抜ける足音。そして、不穏な人間の息づかい。
　時間の経過とともに徐々に酸欠状態から回復しつつあるアーレインの脳は、エンゲルバードの本屋で感じ取った数人のならず者の気配を思い出していた。同じような人数、同じような空気。クーレウスが裏庭にさしかかると、その空気はますます濃くなり、アーレインの予想は現実の姿をともなって現れた。六、七人の男の影が宵闇に浮かび上がったのだ。彼らの背後にはひとつの尖塔。アーレインは目を凝らした。塔の外壁に、黒く陣形がえがかれているような気がしたのだ。
「召喚陣は間違いなく描いたんだろうね？」
　クーレウスにたずねられると男たちはそろってうなずいた。やはり外壁には黒炭の粉で、魔術に用いる陣形が描き出されている。文字の配列や記号の種類を見ると、悪魔や精霊を呼ぶための陣ではなく、何かもっと別のもの――無機質な物質を召喚し固定する役割の陣に思われる。アーレインは尖塔の手前で放り出された。星明かりの下、クーレウスは満足げに目を細めて、草の中にうつぶせに横たわっているアーレインを見下ろしながら言った。
「皇子が眠る塔に入るには、時折現れるという幻影の扉を開かなくてはいけない。この陣はお察しのとおり、扉を召喚して塔に固定するためのものだよ。けれどこの塔にかけられているのは、古くて強い術だ。強力な〝くさび〟を使わないことには、長時間扉を固定できない。だから、僕が召喚・固定の術をつむぐあいだ、魔女殿には扉を留め置くための〝くさび〟になっていただくよ」
「……くさび？　冗談じゃないわ！」
　かすれる喉で、アーレインは吐き捨てた。
「非合意で人をくさびにしたて上げることは傷害罪に値する行為よ。あんた、何やってるかわかってるの？」
　クーレウスは余裕の笑みすら見せて、
「多少法に抵触することくらい承知のうえさ。けれど、このくさびの役割は君でなくては務まらない。そこいらの魔術師では扉を固定できても維持時間が危ういんだ。並みの術者なら、僕らが塔を探索している途中に力尽きてしまうかもしれない。姫ならともかく、皇子なんぞと狭苦しい塔に閉じ込められるなんてのはごめんだからね」
「答えになってないわよ！」
「君だって、ハルクメニア教授から聞いて、気になっているんだろう？　塔に眠る皇子について、知りたいだろう？　協力してくれれば、今晩のうちに答えは出るんだ」
「いい加減にして！　誰があんたに協力してやるだなんて言ったのよ？　とっととこの縄をといて放して頂戴。私は早く帰りたいの！」
「公爵様が恋しい？」
「ええ恋しいわよ恋いしいからとっとと解放しなさいって言ってるのよどこに耳つけてるのよ聞こえないの！」
　アーレインは半ば自棄になって叫んだ。叫んだところで、石壁に囲まれた裏庭から声が外に届くはずもなく、助けが来る望みもないのだが。何とかして、自力で逃げ出さなくてはならない。手首の縄を解き、クーレウスと男たちを蹴散らして、それから――――……
「アーレイン！」
　耳に心地よい声で名を呼ばれて、アーレインは顔を上げた。空耳かと思った。空耳でもなければ、こんなところで彼の声が聞こえるわけがない。なのに。
　頭上には、苦虫を噛み潰したかのようなクーレウスの表情があった。その視線の先に、長身痩躯の人影。星明かりに映える麦藁色の髪。
「アーレインを、返していただこう」
　ライナスに間違いなかった。彼は、怒りをあますところなく全身から発しながら言った。ライナスと対峙したならず者の男たちは得物をかまえ、一方でクーレウスは眉をしかめて、腕組みをしていた。
「これはこれはめずらしいところへおいでになったものですね。……しかし閣下。あなた様のような魔術に関してはずぶの素人の人間がお一人でいらしても、この場は収まらないとは思われませんか？」
「あいにく、そうは思わないな」
　いらいらと彼は言い捨てて、腰に佩いていた長剣を抜いた。と、同時に、いっせいにならず者がライナスに飛びかかる。しかしライナスは男たちには目もくれずその鉈やら半月刀やらナイフやらの刃をかいくぐって、クーレウスの足元をなぎ払い（それをとっさに避けたクーレウスはバランスをくずして尻餅をついた）、アーレインの傍らに駆けつけた。そして無言のまま、彼女の手首を縛（いまし）めている縄に刃を立てる。複雑でいやらしいほどに綿密な術のためにアーレインをなかなか解放しなかった縄は、ライナスの長剣の前にあっさり敗れ、やすやすと切り裂かれた。
　この長剣は、ただの剣ではない。魔術に関して何の免疫もないライナスの助けに少しでもなるようにと、首都に来たばかりの頃、アーレインが三日三晩をかけて複雑なまじないを幾重にもほどこし強化した刃なのだ。つまり、ある程度の魔術までであれば問答無用で切り裂く力を持つ剣。解呪に手間取るアーレイン本人に代わり彼女が鍛えた剣が、一瞬にして縄もクーレウスの魔術も切り崩したのだった。
「おまえがまさか囚われ役にまわるとはな。がらじゃないだろう」
　鼻で笑うライナスに、アーレインは噛み付いた。
「がらだとかがらじゃないとかそういう問題じゃないわ。好きで捕まったわけではないことくらい見ればわかるでしょう！」
「助けてもらっておきながら、よく言う」
「私が鍛えた剣だからこそこの縄は切れたのよ。ただの縄じゃないんだから。普通の剣じゃあ、ライナスが来てくれたって無理だったわ」
「まったく、口が減らないな。いい加減おとなしく口をつぐんでいる術でも身につけたらどうだ」
「私がおとなしくなったら静か過ぎるとかって胃を痛めるのはどこの誰かしらね？」
「まあ、話はつきないが、そろそろ決着をつけないといけないな。夕食を食いっぱぐれる」
「……そうね」
　ライナスが差し出した腕につかまってアーレインは立ち上がり、クーレウスを見据えた。クーレウスの体は小刻みに震えていた。おそらく、侮辱された怒りや妬ましさや、思い通りにことが運ばぬもどかしさによって、震えているのだ。無様だと、アーレインは思った。
「よもや、ご無事に帰れるとお思いではないでしょうね、閣下」
　燃えたぎる目で、わななく声をクーレウスは吐き出した。けれどもライナスは涼しい声で、
「貴様こそ、まさか無事でこのまま終われるなどと、思ってはいないだろうな？」
「――！」
　聞こえてきたのはひづめの音。ひとつではない、それどころか数十騎の。いつの間にか裏庭はぐるりと騎馬たちに囲まれていて、距離が少しずつ、徐々につめられているのだった。クーレウスのただでさえ白い顔面からさらに血の気が引き青白くなったのが、星明かりのみの薄闇の中でも面白いほどによくわかった。
　ライナスはアーレインの手を引いたまま裏庭の外れまで歩き、そこにいた騎士小隊長と二言三言言葉を交わすと一頭馬を借り受けて、後にはクーレウスなどに目もくれず、鞍の上にひらりとまたがった。
「僕はただ、塔に眠る皇子の真実をこの目でたしかめ、証明したかっただけだ！」
　背後で、クーレウスがわめいているのが聞こえる。数騎が裏庭の中に進入して、武器をたずさえていたならず者たちを拘束した。
「メリッシと力を合わせて、真実を見たかっただけだ！　メリッシだって、知りたいだろう？　そして塔に眠る皇子の真実を利用したいだろう？　そう思うほうが当然じゃないか！　だって僕たちは、そのために学院に身を置いているのだから！　それなのになぜ、なぜ騎士どもに縄をかけられなくてはいけない？」
　ライナスの後ろに乗ったアーレインは耳をふさぎ、ライナスの背中に額を寄せた。ライナスは黙々と手綱をさばき、馬の歩を進ませた。
　ようやく大通りに出たとき。アーレインは耳をふさいでいた手を放して、ライナスの鞍につかまった。貴族街の華やかな照明が、もうすぐそばに見えてくる。ひとつ大きく息を吸い、それを吐き出して、アーレインはライナスの背中に頭を垂れた。
「…………ごめんなさい」
「どうして謝る？」
「迷惑、かけたわ」
「それは迷惑でなくて心配だというんだ」
　彼は馬上で振り返り、器用に片手で手綱を繰って、もう一方の手でアーレインの顎を上げさせその首すじをまじまじと見た。
「……ひどい痕だな」
「喉、締め上げられたから」
「喉を？　それだけで騎士にしょっぴかれる充分な理由じゃないか。彼奴はなぜだとか吐かしていたが」
「…………ありがとう」
　突然にしおらしく礼を言われて、ライナスはどぎまぎと彼女を見た。
「どうしたんだ、急に」
「当然のことを言ったまでよ。……助けに、来てくれたんだから」
　二人はそのまま押し黙り、邸宅へと到着した。あまりにおとなしいアーレインに女中頭は毒気を抜かれたようであったが、マリサだけは、若き公爵が今晩にかぎってはひどく機嫌がいいことを、鋭くも見抜いていた。

　黒の魔女の力を借りた白の魔女によって、塔に眠るエルディーニャの皇子が目覚めるのは、もうほんの少し、先のこと。
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