番外編、バーティスラルの姫君


　アーレインは、ともすれば視線だけで焼き殺さんばかりの怒りをもって皇王を睨みつけていた。ルバートは背すじに冷や汗が伝い落ちるのを感じながら、何とかおびえだけは顔に出すまいと骨を折った。この、魔女とおそれられるアーレインの視線であれば、人間ひとり焼き殺すなど造作もないに違いないのである。しかしいかに若くとも、ルバートは皇王だった。おびえなど見せてはならない。
「どうしてライナスなんです？」
「それはあの姫君に直接聞いてみないことにはわからないだろう」
「そんなこと、私だって承知しています。けれど、彼女をたきつけたのはルバート様でしょう？」
「たきつけただなんて、人聞きの悪い。私は単に歓待パーティを主催しただけだ」
　ルバートは肩をすくめた。彼は目の前の公爵夫人――もとい、じきじき公爵夫人になる予定の年若い娘――をとても気に入っていたので、彼女にとって喜ばしくない事態を引き起こそうなどと夢の中だって思ってみたことはなかった。となりで、生まれたばかりの皇子を機嫌よくあやしていた皇妃のエリオノーラが、見るに見かねて夫に助け舟を出した。
「バーティスラルの姫君は、少し思い込みの激しいところがあるのですわ。陛下はただシェルパーダ公を姫君に紹介しただけですのに、姫君は勝手に一目惚れなさってしまったのですもの」
「ライナスよりも立派な殿方はあのパーティにいくらでもいたはずです。クライフトン子爵しかり、ヒューゼット卿しかり、ヴィスターク男爵しかり！　ライナスはお世辞のひとつだって下手だし、微笑うのだって苦手だし、何より素直じゃないわ。そんな人に、どうしてバーティスラルの姫君が一目惚れしなくちゃならないんですか」
「見目がいいからだと思うが？」
　ルバートは婚約者からこうもこき下ろされるライナスを憐れと思ったのだが、アーレインがこき下ろすひとつひとつはまさしく本当のことなので、否定することはできなかった。なので、こちらも真実の美点を挙げてみた。ライナスの見目がよいのは誰の目にも明らかな事実であり、バーティスラルの姫君も「一目惚れ」というからには、ライナスの端正な容姿に惹かれたに違いないからである。
「……ライナスの見た目がいいというのは、私も認めるわ」
　しぶしぶといった感じで、アーレインがうなずいた。
「でもだからといって、それは、姫君がライナスに求婚する理由にはならないはずです」
　彼女は力をこめて断言した。ルバートとエリオノーラ妃は顔を見合わせ、苦笑をこぼさざるを得なかった。
　ことの起こりは次の通りである。
　遠方の国バーティスラルから花婿探しのために、世継ぎの姫君がわざわざヘイリアスまでやってきていた。皇王ルバート夫妻はこの姫君を歓迎し、パーティを開いてもてなした。バーティスラルはヘイリアスと国を三つも隔て離れているとはいえ、もっとも親しい友好国のひとつなのである。そのうえ、この姫君がまたとなく美しかった。名をジュリエーネといい、年は十八。ゆるやかに波打つ金髪を黄金の滝のように背に流しており、金鎖とアメジストで額まわりを飾っている。北国の生まれにふさわしく首すじや胸もとは透けるかと思われるほどに明るい乳色で、瞳は灰みがかった紫だった。
　ヘイリアスの社交界で名をとどろかす若い紳士たちがこぞってジュリエーネ姫にダンスを申し込み、美しく詩的な文句で褒めちぎり、贅をつくした贈り物をした。そのようすを、ルバートをはじめ既婚の男たちは微笑ましく眺め、姫君の美貌を遠目に楽しんだ。ジュリエーネ姫はヘイリアスの歓待を喜び、たくさんの若者とのダンスやおしゃべりを満喫したかに見えた。しかし、彼女は自分の花婿にふさわしいと思われる男性をダンスやおしゃべりの輪の中には見出してはいなかった。
　こっそり、姫君はため息をついた。疲れてしまったし、そろそろお開きにしていただこうかしらと考えて彼女が皇王夫妻の姿を探していたとき、ジュリエーネ姫の目は、壁際にひとりたたずみシャンパンを味わうほか何もしていない紳士の姿をとらえたのである。背がすらりと高く、シャンデリアの光に照り映える輝かしくあざやかなる金髪（アーレインはそれを麦藁色と表現するが、ジュリエーネ姫には少なくとも〝輝かしくあざやかなる金髪〟に見えたらしい）をいただいている。これまで言い寄ってきた男たちとは違って、ジュリエーネの機嫌とりをすることなく孤高の世界に留まっている姿がたまらなく高潔であり、姫君は一目見て「このかたこそわたくしの運命のかた」と信じ込んでしまったのだった。
「もちろん、ライナスはことわったのだよ。婚約者があると言ってね」
　ルバートは友人を弁護した。しかし友人の、ただものならぬ婚約者の気はおさまらなかった。
「ことわったのなら、どうしてジュリエーネ姫が今日も自分の散歩にライナスをつき合わせているんですか？　しかもライナスが散歩につきあっているんです？」
「一国の姫君、しかも近い将来国を背負う姫君の申し出だ。無下にはことわれなかったんだろう」
「でも、ことわるべきでした。そうでなければ、あとからもっと姫君を傷つけることになるでしょうから」
「その通りですわ」
　エリイ妃も語気を強めて同調した。しかし、もっともな意見をつけ加えるのも忘れなかった。
「けれど、そんなにも心配なさるんでしたら、アーレインが最初からライナス卿と一緒にパーティに出席なさればよかったんですのに」
　たちまち、アーレインの黒髪がすべて逆立ったかに思われた。空気がはらんだあまりの恐ろしさに小さな皇子が泣き出し、若い皇王夫妻は二オクターブは高い声音で赤ん坊をあやしだした。アーレインはどんなに冷静になろうと努めても一向に棘を減らせなかった口調で「ご無礼いたします」とひとことだけ言い置いて、宮殿を飛び出した。みじめな気持ちだった。
　初めは、アーレインもバーティスラルの姫君の歓待パーティに出席するつもりだったのだ。そのためのドレスもマリサが用意してくれたし、靴もそろえてくれた。それは真珠色の、アーレインが着るものにしてはめずらしくひだ飾りをたっぷりとったドレスで、靴は銀色だった。ライナスがあまりにうるさいので試着までして、ライナスに見せたのだった。彼は化かされたような面持ちでぽかんとしばらくアーレインを眺めたあと、たちまちしかつめらしくなって、こう言った。
「やっぱりほかの、もっと深い色のドレスがいい」
「似合わないって言うんでしょう？　わかってたわよ、そんなの」
　どうせ私は白なんて似合わないわよと憎まれ口を利きつつ、アーレインが締め上げてあった編み上げ紐をほどこうとすると、ライナスが至極心外そうな顔をして飛びついてきた。
「似合わないだなんて、俺はひとことも言っていない」
「言ったわよ。もっと深い色のドレスにしろって」
「それはだから、そうではなくて」
「そうじゃなかったらどういうことなのよ？」
「旦那様は、そのドレスがアーレイン様にひどくお似合いなので、そんな美しいおなりでパーティに出られては変な虫がつくのではないかと、心配していらっしゃるんですわ」
　マリサが嬉々としてふたりの会話に割り込んだ。言い当てられてライナスは呆然とし、アーレインは思いもよらない意見にあっけにとられていた。しかしそんな彼らにはかまわず、マリサは難しげに言った。
「でも、こまりましたね。新しいそのドレスが仕上がったものですから、これまでのドレスを全部縫い直しに出してしまったんです。今は真珠色のドレスのほか、何も残っていませんわ」
　――そんなわけで、アーレインは留守番を言い渡された。パーティなど人がうるさく集う場所がそんなに得意ではないアーレインは留守番を苦もなく了承したが、パーティでライナスに「変な虫」がつこうとは、考えてもみなかったからこそ了承したのだった！　
　アーレインは無意識のうちに肩をいからせて、大またで、アルソレイムの庭園を突っ切っていた。衛兵たちはすれ違いざまにアーレインの鬼気迫る表情におびえ、こそこそと退散した。アーレインは今度こそヘーデンに帰ってやろうか、その計画も悪くないと考えつつ、つるバラの茂みの道を横切った。ライナスはたしかにアーレインに求婚し、アーレインもそれを受けたのだが、友好国の姫君、それも世継ぎの姫君が登場したとなれば話は別かもしれなかった。ジュリエーネ姫はリンコレッタとよい勝負か、ともすればリンコレッタをしのぐほどの美貌であり、血筋も身分も申し分ない。そんな姫君の申し出を、ライナスが突っぱねられるものだろうか？　
　風を切ってバラのアーチを抜けようとしたところで、アーレインの息は止まってしまった。彼女は呼吸を忘れて、ただ硬直した。そしてアーレインの視線の先にいるその人物も、同じように固まっていた。
　ライナスが、その腕にジュリエーネ姫の細腕を絡ませて、庭園の小道をやってくるところだったのだ。
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