こんなにも衝撃を受けようとは、思ってもみなかった。つい何秒か前まで、平気な顔をして身を引き、ヘーデンに帰ることができると思っていたのに。 　鼻にかかった甘え声で、ジュリエーネ姫がライナスに「どなたですの？」と問うている。即座に何なりと答えればよいものを、ライナスは石像のように微動だにせず、こちらを見てただ突っ立ったままだ。アーレインは瞬間的に頬にカッと血が差したのを感じた。同時に、脳天が叩き割られたかのように思考がばらばらに崩れ、何も考えられなくなると、たちまち身をひるがえして駆け出した。ライナスの腕に絡められた細やかな手や、燦然と輝き波うつ金の髪や、露をたたえたすみれのような瞳に背を向けて逃げ出すのはあまりにもくやしかったが、冷静に不自然なくやり過ごせる自信などなかったのだ。 　アーレインは屋敷に帰るなり、びっくりするばかりのマリサの前を突っ切り、自分の部屋に駆け入って勢いよく扉を閉めると、四重に鍵をかけた。作りつけの鍵と、壁と扉にまたがったかんぬき型の鍵と、そして、さらにまじないを二重に。 　ベッドに体を投げ出し、枕を抱え込んだ。震えだす唇を噛み締めて、顔をただただ枕に押し付ける。そして胸から喉へとせりあがってくる感情の熱いかたまりを何とか堰き止めながら、必死に思考のかけらをかき集めようとした。けれどもそれは失敗に終わり、なすすべもなくあふれ出ようとする涙に負けた彼女は枕を抱きしめたまま泣き疲れ、眠りに落ちた。眠りに沈もうとしている意識の端でライナスのものに違いないノックと、鍵を開けようと試みている物音を聞いたような気がしたのだが、それは夢だと思い込むことにして無視をした。 　けれども今夜は、眠りさえアーレインをなぐさめてはくれなかった。嫌な夢をいくつも見た。夜会でライナスがジュリエーネ姫の手をとり、ダンスを踊っている夢。バラの庭園を親しげに探索している二人の夢。木陰でジュリエーネ姫がライナスの肩にもたれかかり、ライナスが嫌がりもせずにそのままにさせているという夢。 　悪夢に耐えきれなくなり、アーレインが目を覚ましたのは真夜中だった。しばらくベッドの上で枕に頬を寄せ思案していたが、思い描いていた計画を実行に移すべく、むっくり起き上がる。まずは洗面台にあった水差しで涙のあとを洗うと、オーガンジーの黒いワンピースに着替えた。動きやすく身に添うつくりになっている。本当はディッセルベーンにいた頃のように長衣とズボンのほうが何倍も動きやすくてよいのだが、今はトランクの底にしまってあるので取り出すのが面倒だった。身支度がととのうと麻製の簡素なかばんをベッドの下から引きずり出して、その中に何枚かの着替えと気に入りの本、そして例の――真珠色のドレスと銀の靴を詰め込んだ。 　自分の部屋の出窓を開けて身を乗り出し、夜の香気をかぐ。群青のしなやかな夜風の手のひらが、優しくアーレインの頬をなでて通り過ぎていった。 ――大丈夫、私に味方してくれる夜の匂いだわ―― 　アーレインは麻のかばんを小脇にかかえ、術に月の力の助けを借り、窓から飛んではなれると、音も衝撃もなく庭へと降り立った。姿を見られないように術の衣をまとい、シェルパーダの屋敷にどこまでも忠実な門衛らに申しわけなく思いながらも塀を乗り越えて、屋敷を出た。 　つまるところ、家出である。今はとても、ライナスとまともに顔を合わせて平然とはふるまえはしまい。自分でも、この感情をもてあましているのだ。何の責任も咎もないマリサにさえつらくあたってしまいそうなので、アーレインは、しばらく公爵邸からはなれることに決めたのだった。 　首都の社交界に入ったとはいえ、辺境領の小さな町の出身でしかないアーレインに、田舎の町娘を見下げきっているような多くの貴族令嬢とよくよくつきあえというのは無理な注文であった。イリューシオンには、アーレインが心許せる友人など、皇王夫妻くらいしかしかない。彼らにかくまってもらうべく、彼女は宮殿を目指すつもりだった。馬は厩舎に行けば見張りの馬丁に怪しまれるうえに、ひづめの音が響くので使えない。アルソレイムまでの道のりを、姿を消したまま、アーレインはただ黙々と歩いた。 　静かな貴族街を抜けて煌々と輝く宮殿にたどり着くと、アーレインは厨房の勝手口から忍び込んだ。アーレインのすすめで、二年ほど前からアルソレイムの敷地を覆うようにして防犯用の結界が張ってあるのだが、その結界の考案者である彼女がその結界に穴を開けて内側に滑り込むのは造作もないことであった。 　今夜も昨晩と同じくジュリエーネ姫のための夜会が催されているはずなので、アルソレイムの厨房は夜が更けても未だ明るく、熱とおいしそうな香りにあふれており、廊下も階段も明かりが残らず灯されて、誰一人眠っているどころではなかった。いそがしそうになべをかきまぜたり皿を運んだりする料理人たちのあいだを縫い、皆ホールに集まっているために人気（ひとけ）のない廊下を悠々と通って、姿を消している彼女は皇家の私室の前までやってきた。 　あとは簡単だった。夜会がすんでもどってきたルバートとエリオノーラの前に姿を現せばよい。私室に帰ってきた夫妻にかいつまんで事情を話し、しばらくかくまってほしいとの旨を告げると、アーレインを熱烈に気に入っているエリオノーラは、夜会のあとの疲れた表情も吹っ飛んで二つ返事でそれを引き受け、夫も納得させてしまった。 「あなたがアルソレイムに泊まってくださるだなんて、何だか夢のようですわ、アーレイン」 　本当に夢見るように胸の前で手を組み合わせ、皇妃は言った。 「そんな、私が無理をお願いしただけです」 「無理だなんておっしゃらないで。だってわたくし、とっても嬉しいんですもの。グノーで生まれ育ったわたくしはアルソレイムではよそ者ですし、うちとけて話せる人は本当に少ないんですのよ。ルバートはもちろん別でしょうけれども、男ですもの。こういう心情は、おんなじ女でなくてはわからないと思いますわ。わたくしもね、この人と結婚したばかりの頃は、何度グノーの実家に帰ってやろうと思ったか数え切れなくってよ」 　まさかそんなことはないだろうとルバートを見遣ると、はたして皇王は面目なさそうに苦笑していた。 「……喧嘩なさったんですか？　こんなにも仲がよいのに？」 「仲がよすぎると、喧嘩もひとしお激しいのですわ」 　力を込めてエリイ妃が言った。どこか作為的に聞こえたのは、気のせいではなかったに違いない。 　アーレインは最上等の客間をあてがわれそうになったが、とても落ち着いて眠れなさそうであったので、遠慮してこぢんまりとした隅の部屋を借りた。公爵邸のアーレインの部屋よりもふたまわりほど狭く、ベッドの天蓋も家具も色味が落ち着いていて、とても趣味のよい部屋だった。 「お好きなように、何でもお使いになってくださいましね」 　エリオノーラは別の部屋で休まなければならないのを、実に惜しく思う心情を前面に押し出しながらアーレインの手をとった。 「パーヴェルが生まれていない時分でしたら、あなたと枕を並べて、女同士、心ゆくまでおしゃべりをして夜を明かせたでしょうけれど、今はそうはいきませんもの。全部乳母にまかせっきりにしてしまえばいいとも言われますけれど、それは、わたくしが嫌なの。あの子の母はわたくしですものね、寝るときくらい一緒にいなくてはかわいそうですわ。わたくし、アーレインのことが大好きよ。でも、あの子はたまらなくいとおしいんですもの。お分かりになっていただけて？」 　パーヴェルというのはルバートとエリオノーラの間に生まれたばかりの皇子である。子どもを生んだことがないアーレインには母親の気持ちというものは想像するよりほかに仕方なかったが、パーヴェル皇子がたまらなくかわいらしくいとおしいという点においては、もろ手を挙げて賛成したい気分だった。それよりもまず、常識的に考えて、ただ転がり込んできただけの自分よりも皇子のほうが断然優先されるべきである。 「そりゃあ、私よりも殿下と一緒にいなさるべきよ。……ほら、ルバート様がいつまで喋っているのかとこっちを見てらっしゃるわ。エリイ様、今晩は本当にありがとうございました。ライナスにはくれぐれも内緒にしてくださいますね？」 「ええ、もちろんですわ」 　エリオノーラは力強くうけあった。公爵のフィアンセの家出騒動という面白い事件を、そうそう簡単に終わらせてなるものかと、実のところ皇妃は大いに楽しんでいた。 「では、お休みなさい、アーレイン」 「お休みなさいませ、エリイ様」 「……あ、そうそう。ライナス卿に思い知らせるために、わたくしにひとつ考えがありましてよ」 　ルバートと腕を組んで去っていく途中、エリイ妃は振り向いてアーレインに言った。 「明日お話いたしますわ。楽しみにしていらして、アーレイン。それではゆっくり、休んでくださいましね」 　アーレインの目がやっと覚めたのは、昼もすぎてからだった。身づくろいをして呼び出されていた居間に入ってゆくと、エリイ妃が目をきらきらさせながら、皇王ではない男性と共に座っていた。 「よく眠れまして？」 「おかげさまで。ご厚意に深く感謝いたします、エリイ様」 「あらあ、わたくしがしたかったからしただけですのよ。そんなに改まらないで頂戴ましな。よく眠れたのはきっと、ラヴェンダーのサシェがよかったんですのね」 「あのう……ルバート様は？」 「城下の視察に行きました。あの方ね、心配そうにわたくしを振り返り振り返りして出かけられたのです。嫉妬していらっしゃるんですわ。自分は出かけなければならないのに、わたくしと共に過ごすことができる��この人�≠ﾉ」 　アーレインはぶしつけにならないように気をつけつつ、エリイ妃が「この人」と示した青年を観察した。年齢は、ライナスと同じか、少し上くらいだろうか。黒い髪をこざっぱりと清潔に短く刈っている。瞳の色は深い灰色で、身の丈は中背よりはやや高い。顔立ちは特別ハンサムというわけではないが、やわらかな笑みを浮かべた唇の端は好もしく感じられた。 「メーゼスですわ。わたくしの従兄（いとこ）にあたります。ジュリエーネ姫の夜会のために、イリューシオンへ出てきているのです」 　エリイ妃に紹介され、メーゼス卿は紳士の礼をした。アーレインもあわてて淑女の礼をとった。黒のワンピースから、宮殿の装いとしておかしくないようエリオノーラから借りたドレスに着替えておいてよかったと心底思いながら、裾を軽く持ち上げて膝を折り、深々とこうべを垂れた。すると、メーゼス卿のあわてたような声が降ってきた。 「わたしには貴族の血が流れておりますし家格もそれなりですが、所詮、爵位も持たぬ片田舎の傍家の次男坊です。レイディに、そんなにかしこまられては困ってしまいます。お顔を上げてください」 「いいえ……エリイ様から何もかもお聞きでしょう？　私こそ本当の田舎娘です。貴族の血なんて一滴だって流れていませんし、ディッセルベーンの雑貨屋で生まれ育ったただの町娘です。メーゼス様がご謙遜なさる必要なんて、何ひとつないのです」 ――レイディ、だなんて―― 　初対面の青年からまっとうな淑女としてあつかわれたことにアーレインは驚いた。驚いているアーレインの傍らで、エリオノーラがはしゃいでいた。 「ねえアーレイン、わたくしのたくらみがおわかりになって？」 「たくらみ、ですか？」 「ええ！　わたくし、どうしてもアーレインとライナス卿には幸せになっていただきたいんですの。そのためにはちよっとした荒療治も必要ですわ」 　荒療治。皇妃のかたちよい小さな口元からこぼれるにはなんとも不似合いでぶっそうな言葉を、アーレインは聞き違いであればよいのにと思った。しかしそれは聞き違いなどではなかった。エリイ妃は続けた。 「愛を勝ち得るには、相手が一国の姫君であろうとも、散歩でもダンスでもうまいことお断りする必要もあるのだと思い知らせるよい機会ですもの。そうでなければ、アーレインの愛はどこかの誰かさんに掠め取られてしまう、と脅しつけて見せるのです」 　呆然としつつアーレインが皇妃とメーゼス卿をかわるがわるに見ると、メーゼス卿は意味ありげな微笑みで返してきた。 「大丈夫、メーゼスは冗談のわかるお人よ。たくらみのお相手――��誰かさん�≠�きっと完璧にこなしてくれますわ」 　エリオノーラの双眸が、いたずらっ子のそれのように輝いた。 　ただ数日のあいだ、自分の頭を冷やすために宿を借りるだけのつもりだったものが、何か大変なおおごとになりはしないかと、アーレインは危ぶみ、うめいた。

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