閑話 リンコレッタは金色の液体が入ったグラスをアイルめがけて投げつけた。しかしグラスは的をそれて、壁にぶつかると高い音を立てて砕け散った。 アイルは振り返り、まじまじとその令嬢を見た。リンコレッタの頬は紅潮してばら色になり、青い瞳は真冬の星のように燃えている。ただでさえきれいなのに、怒るとさらにきれいに見えるのは反則だとアイルは思った。 「どうしてそんなことしか言えないの」 リンコレッタの声は震えていた。その細い肩も、震えているようだった。 「おやすみって、ただそれだけなんて。あんまりでなくって？ もしかしてあなた、わざとやっているの？」 「わざとって、何を？」 冷静をよそおって、問い返す。リンコレッタはかぶりをふると、力を振り絞るようにしてあごを上げた。 「それをレディに言わせるつもり？ 信じられない。わたくし、今度こそは今度こそはって、ずっと待っているのに。アイルはいっつもおやすみって、ただそれだけ。ヒュルストー様だってきっとあなたほどの鈍ちんじゃなくってよ！」 いやそれはないだろうと内心反論しながらも、アイルは黙っていた。 「それに、それに、今夜は今年最後の夜なのよ。アルソレイム宮殿ではきっと、新年の賀の前夜祭の真っ最中だわ。アーレインはヒュルストー様と踊っているだろうし、陛下ご夫妻だってきっといっそう仲むつまじくおすごしなんだわ。一年で一番盛り上がって、ロマンチックで、ドラマチックな夜なのに。それなのに、わたくしとアイルはいつもと何にも変わらないまま、おやすみ、で終わるのね。そんなことが許されると思って？」 甘い蜜酒の香りがたちこめている。バートラムが、よく眠れるからと二人に毎晩用意してくれる蜜酒だ。いつもなら琥珀のように美しい色をしてグラスの中で輝くのに、いまは壁紙にぶちまけられ、べっとりとした黄色になってクロスをぬらしている。その香りに酔ったわけでもないのに、アイルは顔が熱くなってくるのを感じていた。 「じゃあリンコレッタは、僕に何をしてほしいの？」 「決まってるでしょう！」 リンコレッタは地団太でも踏みそうな勢いで言った。 「プロポーズよ！ 僕と結婚してくださいって、どうしてそれだけのことが言えないの？ わたくし、ずっとずうっと待ってるのに！」 「プロポーズ？」 不覚にも、ぽかんとしてしまった。しばらく呆けたのち、アイルは開きっぱなしになっていた口を手のひらでおさえて閉じると、どっと疲れをおぼえた。 「……そんなこと、わざわざ口にしなくちゃいけないわけ？ だってもう、決まりきっていることじゃないか」 「決まりきっているものですか！」 リンコレッタは泣き出しそうだった。何でもないときの普通の顔よりも、怒っている顔よりも、泣きそうな顔のほうがかわいらしいというのは本当に反則だと、アイルはつくづく思った。 「アイルがちゃんと言ってくれないなら、わたくし、どっかの侯爵か伯爵か金持ちの夫人になってしまうんだから！ 貴族の娘として生まれた時からの宿命よ、愛のない結婚なんてのは。好きな人がわたくしのことを本当に思ってくれないのなら、その宿命から逃れた結婚ができるはずがないでしょう？」 リンコレッタがアイル以外の男と結婚するなんてことは（それがどんな金持ちであれ）、彼女の性格からして天変地異が起こるよりも世界が終わるよりもよほどあり得ないにちがいなかったが、アイルは賢明にもそう指摘はしなかった。 「僕は君のことをこれ以上ないくらいに想ってるよ」 「嘘よそんなの」 とりつく島もなく、リンコレッタはこめかみをこぶしでおさえてしゃがみ込んでしまった。 「わたくしのことを本当に考えてくれているのなら、プロポーズくらいずいぶん前にしてくれたってよかったはずよ！ でもそんなそぶり、ぜんっぜんなかったわ。だからわたくし、この夜をアイルは待っているんだと思ったの。僕と結婚してください、来年こそ結婚式をあげようって、わざわざこの夜を選んで言ってくれるものだと、思っていたのに」 「じゃあ言うよ。リンコレッタ、僕と結婚してください」 「どうしてわたくしが言った通りのことしか言えないのよ！ もう嫌、出て行って頂戴！」 「嫌だよ」 「どうしてよ！ 乙女心がわからないような無粋なやからに、わたくしの心の平安を乱し続けてほしくなんかないわ！」 「僕が君を好きだからだよ」 アイルはかがみこんでリンコレッタのあごを引きあげると、彼女が目を閉じる間も与えずにキスをした。 「僕は乙女心がよく分かってないかもしれないけれど、君も充分、僕のことを分かってないと思うよ」 一瞬あっけにとられていた碧の瞳はすぐに力を取りもどして、挑戦的にひらめいた。 「そんなことないわ」 「いいや、ある」 「では、大いに譲っておあいこということにしてあげるわ。よろしくって？」 「うん、いいよ」 「でも、わたくしがどういうところを分かっていないというの？」 「そういうふうに僕に訊くところが、だよ」 リンコレッタは肩をすくめて、長い睫毛を瞬かせた。 「謎かけみたい。わたくしみたいに、はっきり言ってくれればいいのに」 「よく言うよ。……ねえ、本当に結婚式を挙げてしまおうか？ 冗談じゃなく、近いうちに。ライナスやアーレインよりも先に」 「ほんとうに？ 来年こそは？」 「来年じゃないよ。今年だよ」 時計の針は、とうに十二時を回っていた。 |
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