炎色の髪の娘、もしくは紳士か淑女か

アゼルは鏡台の前で、縄張りへの侵入者を威嚇する狼のように低くうなり声をあげていた。だが侵入者を威嚇しているわけではない。問題は、この髪だ。 　髪が。普段ならばまっすぐに腰の下まで流れ落ちている燃え立つ炎の色の髪が。今日ばかりは、うねりにうねって跳ね上がり、手に負えないのだった。それもこれも、昨日複雑なかたちに結い上げたからだ。アゼルは歯噛みした。別に舞踏会やレセプションなど、華やかなイベントがあったわけではない。夜会巻きや、デコラティヴな装飾をしたわけでもない。 ――ただ、騎士服を着て、祭司長の後ろでひかえていただけなのに！―― 　ストゥールに腰掛けたまま、彼女は器用に地団駄を踏んだ。 　王城の騎士隊と同じ服装をするからには、長い髪をそのままとき下ろしているわけにはいかないだろうということで、教堂付きの髪結い師が丁寧に、かつ複雑に結い上げてくれたのだ。おかげで二時間にわたるおごそかな儀の間も、その後の剣技の奉納の披露の際にも髪がくずれることはなかった。しかし、だ。シャンプーで二度洗いしたにもかかわらず、念入りに乾かしたにもかかわらず、今朝起きてみれば自慢の赤毛がひどいありさまだった。 「冗談じゃないわ！」 「……何を一人で騒いでいる」 　低い声に驚いて振り向けば、エルンストがドアにもたれかかってこちらを見ていた。つい今しがた間で、気配はなかったのに。いつのまに入ったと言うのか。 「あんたね、淑女の部屋に無断で入ってきて、いったいどういうつもり？　グライスタッド男爵、それが紳士のすることなの？　まったくもってあきれるわ」 「いつからおまえは淑女になったんだ」 「あいにく、生まれてからずっとそう育てられました」 　息巻くアゼルを目を細めて眺め、若きグライスタッド男爵はくつくつと笑んだ。 「淑女は学舎などには入らんぞ」 「私はただの淑女で終わりたくなかったのよ。血筋だけでのうのうと暮らしているだなんて、言われたくなかったの」 　エルンストは鼻で笑い、この活きのいい少女を打ちのめしてやることにした。 「だが結局、学舎を出たところで何も変わらなかったんじゃないのか？　学舎を優秀な成績で出ていながらオールヴィースへ行くことすらできなかったなんぞ、笑い話くらいにしかならん」 「ええ、笑い話よ。どうぞ笑い飛ばせばいいんだわ」 　アゼルは打ちのめされはしなかったが、むくれた。その姿は珍妙で、失敗したフグのようだった。 「…………貸してみろ」 　エルンストは止まらぬ笑いを噛み殺しながらストゥールに歩み寄ると、アゼルの手からブラシを奪い取った。――そう、白状してしまえば、ずっとこの髪に触れてみたかったのだ。三年前に死んだ親友が、手放しで褒めていたこの炎色の髪に。 「え、あ、何？　え、ちょっと何するのエルンスト！」 　アゼルは混乱した。この男爵の行動はときどきわからなくなる。びっくりして彼女の顔がフグではなくなったと同時に、髪にするりとエルンストの指がすべりこんだ。 「派手に跳ねているな。梳かし甲斐がある」 「淑女に何てことするの！」 　だから誰が淑女だ。立ち上がろうとするアゼルをストゥールに押し留め、エルンストは美しくつやのある赤毛にブラシを当てた。 「生前、ユーベリウスがおまえの髪を褒めていた。細くやわらかくて、それでいてつややかで美しいのだと。おまえは昔から手に負えないおてんばではあったが、ユーベリウスはそんなおまえの気性をひどく気に入っていた。その気性と同じくらいに、この髪を気に入っていたようだな。��我が姫君�≠ﾌ髪結いを手伝っただの、櫛ですいただの、子どもっぽく俺に自慢したものだ」 　��我が姫君�＝B聞いた途端に、アゼルは両頬に体中の血液が集まるのを感じた。血管が激しく脈打ち、喉もとをきつく締め上げる。ユーベリウスのなつかしい声が耳によみがえってくるようで、アゼルは、思わずこぼれそうになる涙を飲み込んだ。 　我が姫君。我がいとしい姫君。――そんなユーベリウスのやさしい呼びかけが、アゼルはたまらなく好きだった。そしてそう呼びかけながら、髪を褒めながら梳いてくれたユーベリウスが、彼女は何物にも変えがたく好きだった。 「……ユーベルは紳士だわ。でもあんたはそうじゃない」 「ユーベリウスは爵位を持たぬ騎士だったが、俺は男爵だぞ？　俺のほうが紳士じゃないか」 「爵位の問題じゃないのよ。だからちょっと、そのブラシを返しなさいよ！　自分でやるわよこのくらい！」 「うるさいな。淑女だと言い張るのなら、もうちょっとしおらしくしたらどうだ」 「エルンストの前でしおらしくして見せたって、何も得することないもの」 　アゼルはやっとの思いで邪悪な――少なくとも彼女にはそう思われた――男爵からヘアブラシを奪い返して、反対の壁際まで退散した。エルンストは何がおかしいのか、腹を抱えて笑い出した。 ――あんな奴とユーベルが親友だったなんて、どうしたって信じられない―― 　けれども、エルンストに髪を梳かされていたあいだ、その意外に思いやりのある手にユーベリウスを思い出していたのも事実だった。 　延々とおかしそうに笑い続けているエルンストを一瞥し、アゼルは少しだけ跳ねがましになった髪にブラシを入れた。髪をどんなにきれいにしたとしても、それを一番見せたいユーベリウスはすでにこの世にないが、炎色の髪をつややかに保つことは、アゼルにとってユーベリウスを思い続けることの証明に等しいのだった。

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