序編　―地の果ての伝承―

イルヴェラントの鐘を鳴らす ……「星を望む」「雲をつかむ」といったような、到底不可能なことを表す慣用句。 　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　『リュトラウス皇国百科事典』による。 　遠い昔。地の果てイルヴェラントの土地にひとりの娘が住んでいた。娘は翼を持った神に捧げられた娘で、彼女は村の教堂の鐘楼にもうけられた最上階の小さな部屋で生涯を過ごさなくてはならなかった。 　娘は村人たちに愛され、敬われた。娘はこんな生き方も幸せだと思っていた。けれどもある日、鐘楼の窓から外を眺めていたとき。彼女は旅の宿を探して村に入った騎士を見つけてしまった。美しい容貌の騎士から、娘は目を離すことができなかった。やがて騎士は視線に気づいて鐘楼を見上げた。二人のまなざしは出会い、彼らは恋に落ちた。 　鐘楼には巻きついた蛇のような螺旋階段があるだけで、娘の部屋までたどり着くのは容易ではない。強風に吹かれれば手すりのない階段から地面へとまっさかさま――助かる見こみのない高さだ。娘を鐘楼の部屋まで運んだのは翼を持った神の腕であった。翼を持たぬ人間には、天へと続く螺旋階段はまさに死の道だ。 　けれども騎士は、娘への恋心をおしとどめることができなかった。彼女に会いたい一心で、騎士は鐘楼の螺旋階段に足をかけた。村人たちは引き止める努力を惜しまなかった。しかし彼の思いは揺るがなかった。 　騎士は石積みレンガの壁に爪を立て、強風に耐えながら一歩一歩階段を踏みしめた。捧げられた娘の待つ窓まであと一歩というところで、ひときわ強い風が吹いた。騎士は身を低くし、心配そうにこちらを見下ろす娘に言った。 「大丈夫、きっとあなたのところへ行きますから。……ほら、日が落ちて、風が冷たくなってまいりました。あなたが風邪を引いてしまいます。窓を閉めて待っておいでなさい。窓枠までたどり着けたなら、私は手を伸ばして鐘を鳴らしますから。そうしたら窓を開けて、私を招き入れてください」 　翼を持つ神のものである娘はかぶりをふった。だが騎士は優しく何度も言い聞かせた。娘は後ろ髪を引かれる思いながら騎士の言葉にしたがい、窓を閉めて部屋の奥へと消えた。騎士はしんぼう強く風をやり過ごした。けれども風は、なかなか弱まってはくれなかった。 　真夜中になった。体が冷え、このまま吹きさらしの階段上では耐え切れぬとさとった騎士は、最後の力をふりしぼり、窓へと近づいた。そして鐘打ちの紐をつかもうと、腕を高くへと伸ばした。 　そのとき、神の翼から生み出された一陣の旋風が、鐘楼から騎士を叩き落した。伸ばされた騎士の手は宙をかき、イルヴェラントの鐘が鳴らされることはついぞなかった。

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