日常、そして物語が始まる前章


　ぼんやりとおぼろげではあるがたしかにかたちある意識の尻尾をつかまえて、アゼルは薄く目を開けた。バラをかたどったガラス細工シャンデリアの光がまぶしくちらついている。背中の下はやわらかなマットレス。自分の部屋で、仰向いて眠っていたらしい。
　視界につややかな黒髪と赤褐色の双眸が現れて、アゼルはゆっくりとまばたきした。完璧といってもいい美しさを誇るその面立ちが、二重写しになったり、ぼやけたり、揺らいだりして見える。もったいないと、アゼルは思った。
「ユーベル……？」
「アゼル！　やっと気がついた！」
　がばりと抱きつかれて、アゼルの体はマットレスに沈んだ。ユーベリウスは涙声で何やらつぶやいているが、何を言っているのかはくぐもって聞こえない。アゼルはいったい何がどうなって自分がこのような状況に陥っているのかを考えようとしたが、気だるさと思考を拒否する頭痛とによって、断念せざるを得なかった。
「ひどい風邪を引いたんだよ、アゼル」
　アゼルの思考能力が役割を果たす代わりに、ユーベリウスが告げた。
「昨日から、熱っぽいって言っていたよね？　僕が言ったとおりに薬を飲んで、早く寝るべきだったんだ！　それなのにアゼルは湯冷めするのをわかってて十二時過ぎまで図書堂にこもるんだから、始末におえないよ」
　言い返したい言葉は次から次へと湧いてきたのだが、今のアゼルには、反論するだけの気力も体力もなかった。彼女はゆっくりと視線をめぐらせて、時計を視界にとらえようとした。
「……いま、何時？」
「午後三時半を過ぎたところだよアゼル」
「そんなに、寝てたの？」
「そんなに寝てたんだよ。僕がどれほど心配したことか！」
　頭の芯がずきずきと痛む。関節が固まってしまったかのように、体が言うことをきかない。起き上がろうとして失敗し、アゼルは深く息をついた。
「汗かいただろう？　脱水症状が出るといけないからね、何か飲むものをもってくるよ。何なら飲めるかい？　白湯？　紅茶？　レモネード？」
「……レモネードがいい」
「よし。待っておいで」
　大きな手のひらがアゼルの額に降り、いとおしげに撫でるようにしてはなれていった。
　毛布に包まって天井を眺めていると、少しずつ頭痛と関節の痛みにも慣れてきた。おぼろげだった意識がいやいやではあるが正常な姿を見せ、まともな思考能力がよみがえってくる。額に残るユーベリウスの温みについて考えられるようになると、ただでさえ熱を持ったまぶたが重く、せり上がる涙でさらに熱くなってきた。
　ユーベリウスの忠告を聞かず夜更かしをして、風邪を引いた自分。そして風邪っぴきの自分を介抱してくれるユーベリウス。……これではまるで、子どもと保護者だ。十五歳にもなったというのに。涙がじんわりとにじみ出てくる。
　アゼルが十五歳、ユーベリウスは二十歳。――五歳というのは、思いのほか大きな差だった。早くユーベリウスに追いつきたいと思うのに、彼も同じ時間を歩んでゆく。あと何年経てば、その差を感じずにすむようになるのだろう？　どう努力をすれば、対等になれるだろう？　例えば六十五歳と七十歳であれば、どちらが子どもということなどなく対等だ。だが五十年も待つなど、冗談ではない。ユーベリウスは、アゼルがもう少し大人になったら、〝一緒にイルヴェラントの鐘を鳴らしに行く〟と約束したのだ。五十年も待たせるなど、冗談ではない。
「ねえ、ユーベル」
「ん？　苦しいかい？」
　トレイにレモネードの入ったポットとカップを載せて戻ってきたユーベリウスに、アゼルはもぞもぞとたずねた。
「ユーベルは、一緒にイルヴェラントの鐘を鳴らしに行こうって、約束してくれたわよね？　覚えてる？」
「覚えてるよ。忘れるわけないじゃないか」
「あのとき、私がもう少し大人になったらって、ユーベルは言ったわ。私、十五歳になったけど、まだ駄目なの？　何歳になったらイルヴェラントまで連れて行ってくれる？」
　そんなにしゃべったら、喉がつらいだろう？　苦笑しながら、ユーベリウスはアゼルの炎色の髪を撫でる。長く伸ばした、燃えるような赤い髪。そしてマットレスと彼女の背中のあいだに手を差し込むと、ゆっくりと上体を持ち上げ、アゼルがベッドに座れるよう手伝った。クッションにもたれた彼女の前には、温かなレモネードが満たされたカップがすぐに差し出された。
「おいしい？」
　アゼルはうなずいた。魚の小骨が引っかかったかのようにいがいがとしていた喉に、甘いレモネードがやさしくしみてゆく。
「……そろそろ一度、侯爵閣下にお願いしてみようか」
　そんな言葉がぽつりとユーベリウスの口からこぼれたのを、アゼルは聞き逃さなかった。
「お父様に？」
「そう、アゼルのお父上に」
　ユーベリウスはアゼルの肩が冷えないようにストールをかけ、ベッドサイドに腰掛けた。
「閣下のお許しなしに、姫君を遠出させるわけにはいかないからね」
「でもお父様は、絶対に駄目だって言うに決まってるわ」
　アゼルはレモネードを飲みながら器用にむくれた。
「お父様は頭が固いんだから！　若い娘の遠出など許さーん、って言いそう」
「うん、おっしゃいそう」
　二人は顔を見合わせて笑った。
「――私、早く大人になりたい」
「そうだね。アゼルが大人になったら、きっと閣下もイルヴェラントへ行くことをお許しくださるよ」
　そのためにはまず、この風邪を治さなくてはね。レモネードがからになったカップを片づけると、ユーベリウスはアゼルをベッドに寝かしつけた。しかしアゼルは、おとなしく眠ることのできる気分ではなかった。
「ねえユーベル、いったい大人って何歳から？　カーリスは、もう大人よね？　私と同い年だけど」
「カーリス殿下は、皇女様だからね。特別だよ」
「私は特別じゃないんだ」
　アゼルがへそを曲げたふりをすると、ユーベリウスは声を立てて笑った。そして彼女の額に軽く口付け、ウインクをした。
「僕にとってあなたは特別だよ、我が姫君」
　だから早く風邪を治しなさい。僕は、心配でたまらないんだから。
　何だか煙に巻かれたような気がしていまひとつ面白くなかったが、アゼルは彼の口付けに免じて、今日のところは眠ってやることにした。目を閉じると、ユーベリウスが部屋を出て行く音が聞こえた。ユーベリウスは本当に、父侯爵にイルヴェラント行きの許可を請うてくれるのだろうか。却下されるのがわかりきっているのだから、請いはしないだろうか。
――お母様がお父様のもとに嫁いだのは、たしか十八歳のときだったと聞いたわ――
　ならば十八歳になれば、この自分も大人と見なされるのだろうか。アゼルは枕に顔をうずめ、大きく息をついた。あと三年……イルヴェラントへの道は、まだまだ遠い。
　そして彼女の風邪が治ってから半年も経たないうちに、ユーベリウスと共にイルヴェラントへ行くという約束は永遠にたどりつけぬ場所へと遠ざかってしまったのだと、打ちのめされる日が来るのだった。
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