たくさんの白い花にうずめられて、ユーベリウスは眠っていた。鐘楼から落ちたというのに頭がつぶれることもなく、手足があらぬ向きにひん曲がっているということもなかった。なのに、その鼓動はすでに止まっている。静かな胸の上で祈りの形に指を組み合わされ、彼は穏やかにまぶたを閉じていた。 アゼルはそっと彼の頬に触れた。手のひらで包み込んでみた。睫毛に口付けてみた。しかし何も応えはない。喉もとに熱く大きなかたまりがせり上がり、それが涙腺を圧迫して、アゼルに涙を流させた。 「我々は、たまたまその瞬間を見ていなかったのです」 ユーベリウスの上官であるジーニス部隊長のかすれかかった声が、柩に寄り添ったアゼルの耳に虚ろに響いた。 「彼が落下を始める瞬間を、誰も見ていなかった。私も村人の悲鳴に顔を上げるまで気づかなかったのです。アゼル嬢――言葉もありません。何と申し上げたらよいか」 アゼルの頬を涙がするするとつたってゆく。ひとしずくつたう、などという生やさしいものではない。次から次へと、壊れた蛇口からひっきりなしに流れ続けるかのように。 「……落下してゆく様子を目撃した者は多いのです。だが、高い鐘楼の頂から地面までのあいだ見続けていた者がいるかどうかは、私にはわからない。ただ、こんな噂が聞こえてきました。――落ちゆくホウストン卿の背に、翼が生えていたと。ホウストン卿は翼を得て、その魂は月の楽園に帰って行ったのだと」 翼が生えたというその言葉を裏付けるかのように、塔の下で発見されたユーベリウスの背中には大きな二つの裂け目ができていたのだそうだ。まるで一対の翼が、皮膚を破り出たかのような。それがほとんど唯一の傷であり、また、それが転落によって生じたとはどうしても考えにくいために、亡骸はほぼ無傷であり奇跡だと、エルンストは言ったのだろう。機関員の軽装ではなく、美しい騎士の正装に着替えさせられて柩におさめられている今となっては、翼の痕とやらをたしかめようもないが。 「わかりました、ジーニス部隊長」 アゼルは振り返らずに、言った。 「お話を、ありがとうございました。私はもうしばらくこうしています。どうぞ、お帰りください」 アゼルは自分の声に抑揚がないことを発見した。ああ、自分はこんなにも無機質に喋ることができたのだ。 機関員たちが好んで履く固いブーツの底がためらいがちに、ひかえめに床をたたいて遠ざかるのを聞き届けて、アゼルは改めてまじまじとユーベリウスの顔を見た。こうしていても、まわりの花が引き立て役にしか思えぬほどの美貌。肩にかかるほどの長さの黒髪に指をすべり込ませ、梳いてみる。くすぐったいと、くつくつ笑って今にも起き出しそうであるのに。赤褐色の目をあけて、微笑んでくれそうなものなのに。 ――なぜ、心臓が止まってしまったの？ たいした怪我を負わなかったなら、転落したって死なないはずでしょう？ それとも、落ちゆく恐怖で鼓動を止めてしまうほど、ユーベルの心臓はかよわかったとでも言うの？ そうだとしたら、これまでたくさんの女性の心臓を痛めつけてきたという色好みが、聞いてあきれるわ！―― アゼルは声を殺して泣いた。いくら泣いても、気がすむことはなかった。 そびえたつ鐘楼。 鐘打ちの紐をつかもうと、高くへ伸ばされる腕。 響きわたる晴れやかな鐘の音。 落ちゆく影。なびく黒髪。 そして、叫ぶ声。 「我が姫君、お聞きください！ あなたの騎士が鳴らす、イルヴェラントの鐘の音を！」 突如現れた空を切り裂く翼。 ……天使？ いいえ。あれは、鳥？ 鳥の翼と垂直に落下する人影とが重なり、 まさに翼の生えた天使のようなシルエットとなった。 それはわずかに速度をゆるめたかに見え、そして――――…… ゆりかごで眠っているような妙な感覚を覚えて、アゼルはうっすらとまぶたを持ち上げた。すぐそばにとがった顎の白いラインと、蜜色の睫毛が見えた。 「起こしたか？」 「……エルンスト？」 「でなければ誰だというんだ。おまえのお守りがつとまるのは、ユーベリウスのほかには俺ぐらいなものだろう」 「…………」 「よく眠ったほうがいい。イギーに温かい紅茶でも入れてもらえ」 「……うん」 アゼルはエルンストに抱えられて、薄暗い廊下を移動していた。いつの間に帰ってきたというのだろう、泣き疲れた目でちらとあたりをうかがってみれば、ロンディール侯爵邸――我が家の回廊だった。まぶたが火照り、腫れているのがわかる。きっとひどい顔をしていることだろう。窓の外には月が出ている。外は相当冷え込んでいるに違いない。月の光が今にも夜空を切り裂きそうに冴えている。ユーベリウスの瞳のような赤い星が、時折思い出したようにまたたいた。 「アゼル。おまえ、もう少し痩せたほうがいいな。こうしていると重い」 ぼそりと、エルンストが言った。アゼルは彼の胸をこぶしで小突いて、 「剣の訓練をしているのよ。筋肉がついて当然でしょう」 しかし言い返した声は、かすれて力なく、自分でもびっくりするほど弱々しかった。エルンストはかまわずに、 「筋肉にしてはやわらかいな。淑女を気取るなら、やわらかいのは許されるのだから、もう少し重さを減らせ。筋肉を無理に着る必要はない」 と、彼は至極真面目な面持ちで進言したので、アゼルはその進言が自分を励ますための軽口であるとも彼の本音とも判断しかねた。 ほどなくアゼルの部屋に到着し、アゼルはベッドの中にもぐりこんだ。このまま深い眠りについて、次に目覚めたときにすべてが夢だと知れたらどんなにいいことか！ なぜそんなに赤い目をしているのかとユーベリウスに訊かれ、それはあなたが死んだ夢を見たからだと白状するアゼルを彼が笑い飛ばしてくれたなら、どんなにいいか。 彼女がタッセルつきの上掛け布団からほんの少しだけ目をのぞかせると、コンラッド家の次男坊はアゼルを運んだ際に乱れた上着をただし、しわを伸ばして、今まさに部屋を出て行こうとしているところだった。 「エルンスト」 呼ぶと、彼は足を止めて振り向いた。アゼルの目には一瞬だけ、オーク色の瞳が、ユーベリウスの赤褐色の双眸の面影を宿したかに見えた。 「イギーを呼んでおいてやる。おまえはおとなしく寝ていろ。おまえが泣き壊れるか、狂うかしたところで、ユーベリウスは喜ばない」 「…………」 今度こそ彼は部屋を出て行ってしまった。アゼルが口の中でつぶやいた「ありがとう」の言葉は、声にはならなかった。 絶対の静寂に包まれて、ベッドのアゼルは窓越しに星空を見上げた。彼女は疲れていた。目の前に突きつけられた現実と、それがあまりに彼女が望む現実とかけはなれているために覚える非現実感とが、アゼルの中で交錯し、火花を散らして、彼女の思考を引っ掻きまわすのだった。そしてさらに、ユーベリウスの死のしらせがもたらされる前にアゼルが体験した不可思議な夜明けの記憶が――イルヴェラントに一緒に行くことはできないと、約束が守れないと詫びるユーベリウスの声が――その非現実感にいっそうの拍車をかけていた。 あの腕はたしかに力強かった。あまりに強く抱き寄せられて鼻っ柱を胸板にぶつけた際の鈍い痛みは、今も軟骨に残っている気がする。 ――でも、ユーベリウスは柩の中にいたのよ―― アゼルはごろりと寝返りを打ち、枕に顔を伏せた。そしてまた、ひとしきり泣いた。ドアの向こうに気配を感じて廊下にイギーがいることは知っていたが、アゼルが泣いている間、イギーは部屋に入っては来なかった。 |
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