鐘の音が聞こえる。近くで結婚式でもあるのだろうか？ 葬送の鐘にしては、よく響いて華やかだ。皮膚に浸透して、心臓を震わせる晴れやかな音。 「我が姫君、お聞きください！」 とても遠くで、叫び声が聞こえる。鐘と同じく、晴れやかな声。 「あなたの騎士が鳴らす、イルヴェラントの鐘の音を！」 達成感に満ちた、すべてから解き放たれるような声。しかし一抹の悲鳴と一すじの未練のようなものが不協和音となり、晴れがましい叫び声から弾き出されてアゼルの胸を突き刺した。 優しい手のひらがアゼルの額から離れ、影はゆっくりと立ち去った。立ち去り際に唇にやわらかなぬくもりが降りたが、アゼルは目覚めることができなかった。そしてそのまま夜は明けて、無常に流れる時間が現実を連れてきた。 アゼルは自分がとても恵まれた人間であることを、よくよく自覚していた。幼い頃から飢えた覚えもなければ、着る服に困った覚えもない。寒さに凍え死にそうだと思ったこともなければ、立ち退きを要求する家主におびえたこともなかった。なんといっても、父は侯爵ファビウス・ティーロ・ロンディール――勤厳卿と呼び称される宮廷の要人だ。母はコウトレル伯爵家の令嬢で、四人の子どもを生み、齢(よわい)三十代半ばでありながら、その美しさは未だに巷で賞賛されている。そんな侯爵夫妻の長子として生まれたアゼルが、恵まれていないわけがなかった。自分が持ち合わせていないものといえば、社交界の華、神がつくりたもうた美の結晶、ロンディール侯爵の首飾りの玉といったいくつもの仰々しい二つ名を持つ妹ムーンレーナのような美貌と、吟遊詩人が謳歌する掛け値なしの自由くらいのものだ。 さらに、ムーンレーナでさえ持ち得ないものを――国中の名だたる貴族令嬢、若いご婦人方がどんなに大金宝石を積んで望んでも手に入れられなかったものを、アゼルは何の努力もなしに従えていた。それがユーベリウス・ホウストンだ。立ち姿は凛々しく横顔は端整、剣をとればその動きは流麗、微笑みは花の蜜よりも甘やかで、声は鼓膜をとろかすほどに心地よい。そう謳われ、ささやかれる美しき騎士を、アゼルは十二歳のときから独り占めしてきたのだった。 ――そのユーベルが、死んだ―― 十五歳にしてアゼルは、生まれてはじめて、とんでもない喪失感に打ちのめされた。今まで恵まれていることに感謝し、それらを諸手さしのべて享受してきただけに、もっとも失いたくないもののひとつを容赦なく剥ぎ取られた今、彼女はただただ震えることしかできなかった。 ――ユーベリウス・ホウストンが死んだ―― あのまぶしげに細められた目も、ざくろ石を思わせる艶やかな赤褐色の瞳も、すっきりと通った鼻梁も、さらさらと風にそよぐ黒髪も、もう二度と、見ることはかなわない。大好きなしなやかでたくましい腕に抱きしめられることも、温かな胸に耳を押し当てて心臓の音を聞くことも、もう、ない。 「ユーベル……」 声に出して、呼んでみた。声も震えていたけれども。 「ユーベル？」 ねえ、お願いだから返事して。そんなの嘘だよと笑い飛ばして、お願いだから！ アゼルは壁を殴り飛ばしたい衝動を懸命にこらえ、壁にあたる代わりにベッドのクッションにこぶしを振り下ろした。それでも震えはとまらない。そのままクッションを抱え込み、床に座り込んだ。――もう、立ち上がれなかった。 「……アゼル」 幼い時分から聞き慣れた低い声が、完全にすべての感覚をシャットアウトしようとしていたアゼルの耳にかろうじてすべりこんできた。 「アゼル、生きているか？」 不器用だか、気遣わしげな本心がにじむ低い声。顔を上げなくともわかる。彼とは、生まれたときからの付き合いだ。赤ん坊だったアゼルを彼は危なっかしく抱っこしたのだと、母から聞いたことがある。 「エルンスト」 うつむき、クッションを抱き込んだままで、アゼルは彼の名をつぶやいた。彼女は眼前に銀の留め具がついたブーツのつま先が現れたのを見た。 エルンスト・ロシェ・コンラッド。ロンディール家と肩を並べる名家コンラッド家の次男坊であるエルンストは、ロンディール家との交流も深く、長い。アゼルにしてみれば、年の離れた喧嘩友達もしくはユーベリウスを取り合うライバルでしかなかったが、宮廷貴婦人たちからエルンストは、「明星(あかぼし)の君」と称されるユーベリウスと共に「月光(つきひかり)の君」と呼ばれている。ご婦人たちがもっとも好んで口に上らせる話題は、この両君に関することがらなのだ。美しい望月色の髪を持ち、容貌も家名も実力も申し分ないとされるエルンストの名が、ユーベリウスとそろって宮廷のサロンに華をそえなかった日など一度たりともない。女性の扱いに長けていたユーベリウスとは反対に、エルンストは生真面目で無愛想、華やかなサロンにはまったくもって興味を示さなかったのだが、それでも熱狂的で物好きなご婦人や令嬢は少なくないことをアゼルは知っていた。 「まだ、狂ってはいないようだな。一安心だ」 いつものような喧嘩の前哨戦のような、相変わらずの憎まれ口だ。 「……狂ってもいいって言ってくれるのなら、いつだって狂ってやるわよ」 アゼルも憎まれ口で返したが、これは半分以上本音だった。彼女はクッションをつかむ手にさらに力をこめた。 「私、まだ信じてない」 「ユーベリウスは塔から落ちた」 ひどく端的に、エルンストは言った。 「バランスを崩すほど風が強かったわけでも、足をすべらせたというふうでもない。だが、事実としてイルヴェラントの鐘楼から転落した。鐘を鳴らした直後に、まっさかさまにな」 アゼルはクッションに顔をうずめた。何も聞きたくなかった。何かを聞きたいとすれば、それはユーベリウスの声だけだ。 「あんなとんでもない高さから転落したというのに、損傷はまったくといっていいほどなかった。奇跡だな。柩(ひつぎ)で何でもない顔して眠っているから、会いに行ってやったらどうだ？ よろこぶぞ、あいつ」 アゼルは答えなかった。答えることなど、できなかった。 眉間に皺を刻みつつもエルンストは手近な一人がけソファにもたれかかり、腕組みをして、床に座り込んだままのアゼルを見下ろした。その視線を痛いほどに感じながら、アゼルはなおもクッションに顔面をめり込ませた。 「……アゼル」 「…………」 「アゼル」 「…………」 「……いったい、俺はどうしたらいいんだ」 憎まれ口から一転。エルンストは、本気で、ほとほと困りきった声を出した。 「おいアゼル。俺は、死んだあいつから、アゼルをよろしく頼むとよくよく言いつかっているんだ。あいつの気持ちと俺の立場も考えて、いい加減にしてくれ」 アゼルははたとして、思わず顔を上げていた。――よくよく頼むと、言いつかっている？ アゼルのとび色の瞳とエルンストの視線がようやくぶつかり、エルンストは少しだけほっとしたようだった。 「――夢かもしれない。俺のただの思い込みかもしれないし、あいつが生きていたときに、いつだったか俺にそんなことを言ったことがあって、それを俺が思い出しただけなのかもしれない。……まあ、なんだっていい。とにかく、俺たちがイルヴェラントから首都に引き上げるという朝、アゼルを頼むとあいつに言われた気がした、それだけなんだが」 アゼルは震える足で踏ん張って、立ち上がった。久しぶりに立ち上がった気がした。エルンストが「ほう」と小さく息を吐き出したのが聞こえた。 エルンストも、ユーベリウスの死後に彼に会ったのだろうか。アゼルが夜明け前、突然の訪問に驚いたのは、やはり夢でなかったと思ってよいのだろうか。抱きすくめられた感触は今でも思い出せる。アゼルは奇妙に波打つ鼓動とまだ震えのやまない体のためにぎくしゃくした動きながらも、エルンストのそばへと歩み寄った。エルンストはソファから立ち上がり、腕を伸ばしてアゼルを支えてくれた。アゼルはかすれ声で訊いた。 「ユーベルは、どこ？」 エルンストは聞き分けのない子どもがやっと従ったのを見るようなまなざしで、うなずいた。 「王城の、大教堂祭殿に」 |
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