――なんだか、ギーヤさんとフェンリカの声が聞こえた気がする―― 「どうしたの？」 　我に返ったシャオツィはゆるくかぶりを振った。 「ううん、なんでもない」 　紺碧の水面をのぞきこんで、手のひらで軽くすくいとる。晴れわたった明るい空を映した空鏡はとても美しくて、その奥底に忌むべきわだつみの座所があるとはとうてい信じられなかった。 「どうやってわだつみのところまで行くの？　まさか泳いでいくわけじゃないでしょう」 「階段で下りていくんだよ」 「階段？　階段なんかがあるの？」 「あるらしいよ。……こっちだ」 　ルカウはシャオツィの腕を引いてほとりの木立の方へと向かった。うっすらと霧がかった幻想的な木立。そのなかでも抜きんでた大木の前でルカウは足を止め、根元のところにかがみこんだ。よくよく見てみれば、その木は拗ねたシャオツィが歓遊街に迷う前に膝をかかえ背をあずけていた木であった。 「階段なんて、見あたらないけど」 「ここ。蔦で隠れているけど、ちゃんと人がひとり通れるくらいにはなっているよ」 　しばらく手さぐりで様子を調べていたルカウがまず後ろ向きに入った。ルカウの頭がすとんと見えなくなったことから、横に伸びた洞穴というよりも天井に出入り口用の穴があいた地下道のようなものだと推測できた。 「おいで。大丈夫だから」 　穴のなかに下りると、そこは意外と明るかった。地面に生えたコケが青白い光を放って足もとを照らしているのだ。つついてみたところ指先に燐のように光る粉がついた。 　青い天然の照明に照らされながら歩く道はルカウが言っていたようにゆるい階段状になっていたが、階段だと感じられるそれは巨大な生物の亡骸であるらしかった。クジラかサメか、それとも未知の生物なのかはわからない。図鑑で見たことがある恐竜の化石に見えないこともなく、背骨とあばらがななめに傾いで階段のようになっている。下るにつれて空気がねっとりと湿り気を帯び、シャオツィの長い銀髪は頬にはりついた。泉の水が流れこむことはないが、周囲の土壌が含んでいる水分量が徐々に増えているのだろう。 「どこまで下りていけばいいんだろう？」 「わからない。まだ、底には着いていないだろうから」 　そう言って、ルカウはうしろからついてくるシャオツィに手をさしのべた。シャオツィも応えて強くにぎり返し、二人は手をつないで骨の階段を進んでいった。 　月の息子と妻わせば 　都に栄華と永久の幸 　日の息子と妻わせば 　神女の望みが手に入らむ 「月の息子(セルファス)と神女殿が結ばれれば、それはたしかに現状の維持を示します。わだつみの宮の大祭司長を頂点にいただく、構造の維持。シャオツィ殿のように型破りな神女はなかなか現れませんからね、一旦そうなればその後もこれまでどおりの栄華が都には続くのでしょう」 　わだつみの宮にて、ギーヤは誰に言うともなしにつぶやいた。 「けれど神女の望みは――シャオツィ殿だけではなく、歴代も含めた神女の望みは、そんなさだめから逃れることでしたから」 　言霊を知らずとも彼女は今、わだつみへと続く道を歩いている。大祭司長をはじめ、灰色の髪の祭司や神官は呆けたようにすわりこんでいた。そんな老人たちには目もくれず、セルファスは鞍にまたがった。それに追いすがるようにアザレアもあぶみに足をかけた。 　フェンリカを前に乗せて馬の手綱をとったギーヤが、準備を終えた神兵たちに向けて叫んだ。 「出発する！　討ちとるはわだつみの首のみ！　ルカウとシャオツィ殿の助太刀に、いざ、私に続け！」 　深く進むにつれて酔ったような気分になり、目の裏側がくらくらしたが、それは突然になくなった。肺が軽くなったようで呼吸が楽になり、彼女は冷えた手のひらを額にあてて、緩慢になった意識を奮い立たせた。見上げてみれば、そこには地下めいたほの暗い天井ではなく、ゆるやかに波打ち揺らめく天蓋がある。ちょうど水族館の水槽を下からのぞいているような雰囲気だ。 「着いたんだ」 　湿ったせいで顔に重たげにかかった長い前髪をかきあげて、ルカウもシャオツィと同じように頭上を見上げた。 　二人は視線を戻し、そろってあたりを見まわした。地面は黒灰色の粗い砂地、ところどころに隆起しているごつごつとした岩。それが墓標のようにも見えて、気味が悪い。ここが、歴代の神女の父やジルーファがおとずれたわだつみの座所に間違いないのだろうか。 　ルカウは言った。 「泉の底のさらに奥にあるわだつみの座所。古い文献では奥津城（おくつき）とも呼ばれているみたいだけど、本当だったら嫌だな。これまでここに来た神女の伴侶の骸骨がごろごろしているっていうのは、やっぱりいただけない」 　しかし見渡してもどこも同じような景色ばかりで、わだつみらしきものの姿は見えない。平らな砂地の上にいかつい岩のこぶが生えた眺めが延々と続いている。 　いつまでも立ちつくしていてもらちがあかないため、彼らは適当に方向を決めて、並んで歩き出した。靴底がめりこむたびに、ざり、ざりと何ともいえない音がする。 「わだつみに挑むって、具体的にはどういうことをするの？」 　シャオツィははじめて腰に帯びた金属の刀の感触をぎこちなくたしかめ、ルカウにたずねた。彼は気まずそうに微笑み、肩をすくめる。 「一応、自分が次の神女の父としてふさわしい人間であることを証明するのだと、教えられている。真っ向から武器で戦うだけなのか、知力を試されるのか、くわしくは知らされていないんだ」 「生きて帰った人がいないのだから、しかたないわ。でも……わだつみのお目にかなっても生きて帰れないということは、ひょっとしたら、わだつみは最初から誰も生きて帰すつもりがないってことなのかもしれない」 『……そのとおり』 　不意に、聞き覚えのない声がシャオツィの耳を打った。低い、這うような耳ざわりの男の声。かわいた鱗を撫で上げるような感触の声。聞いた途端に寒気が走った。 「どうしたんだい？」 　急に立ち止まったシャオツィにならってルカウも足を止めた。 「何か、いた？」 「声――声が聞こえた。低い、男の」 「男の声？」 『……シャオルウ。千年以上の時を経て、やっと逢いにきてくださいましたか』 　今度はルカウにも聞こえた。胸をえぐるような、愛憎が混濁した声音。 『しかし……貴女はひどい。私以外の数えきれぬほどの男と契りを交わすとは。そして契りを交わした男を私のところへ送りこむのだから、悪趣味としか言いようがありませんよ』 「誰！」 　シャオツィが叫ぶと、男の声は喉で笑った。 『本当に、貴女はひどい。昔と変わらぬ姿をしておいでなのに、私の声を聞きわけられぬふりをなさるとは』 「聞いたことのない声の主を誰ときいて何が悪いの？　それに言ってるあんたの方も悪趣味よ。喋るんだったら堂々と姿を見せなさい」 『ひどい言いようをなさる。長き年月を隔ててまみえることに照れておいでですか』 　再び、声は笑った。突如空間が歪み、宙空にぽつりと黒い人影が浮かぶ。人影は徐々に大きくなり、ほどなくして成人の男があらわれた。 　白陶のおもて、整った鼻梁、聡明そうに目元を引き立てる漆黒の髪、高貴な身分だったのだろうとうかがえる、幾重にも重ねられた絹の衣装。……だが。 「……あんたが、わだつみ？」 『そうも呼ばれているようですが。シャオルウ、あなたにはそう呼んでいただきたくない』 「私はシャオルウじゃないの。単なる人違いよ」 　彼女は言い切った。 「私はあんたと同じ世界から、無理矢理に魂だけ抜かれて連れてこられたの。戻る方法が知りたくて、あんたをたずねてきただけなのよ」 『私は帰しませんよ』 　わだつみは暗い瞳で彼女を見据えたまま、応じなかった。 『私は千年あまりもの時の中、この奥津城（おくつき）から逃れることかなわずに貴女を待ちつづけていたのです。どうして愛しいものをわざわざ手放せましょう』 「だからあんたは勘違いしているのよ」 　シャオツィは口調を荒げた。 「あんたもセルファスも、みんな。銀の髪をした女の子だったら誰だってシャオルウなの？　私の気持ちは関係なしなの？　あんただって千年待ったって言ったじゃない。千年もすれば千年前の人間が生きているはずがないことくらいわかりきっているでしょう」 『しかし貴女は私が追放されてもなお千年間生きつづけた。だからこそ私は怒りを鎮め、都を守護し、貴女がいつか逢いに来てくれることを待ちつづけたのです』 ――これじゃあどうどうめぐりだわ―― 　嘆息しながら、彼女は助けを求めるようにとなりのルカウを見遣った。けれどもルカウは彼女の視線に応えず、佩いた剣を引き抜いていた。 「わだつみ！　もとの世界に帰る方法を吐かないというのなら、俺がおまえを斃す」 「ちょ、ちよっとルカウ！」 　彼の宣言に、わだつみは薄気味悪く口角を上げた｡ 『……そうそう。この少年も、貴女と契りを結んだひとりですか？　それでは彼を、まずは斃さなくてはなりませんね』 「違う！　ルカウはただ私を――」 『言い訳は見苦しいですよ、シャオルウ』 　途端、シャオツィの眼前を銀の閃光が走った。ルカウが剣を振りかぶり、わだつみに斬りかかる。けれども、それはすぐに現れた巨影に飲みこまれた。 　わだつみはもはや、人の姿をしてはいなかった。ぬばたまの巨躯をうごめかし、長い尾で岩を砕いて威嚇する。 ――龍だ―― 　わだつみ。海つ神（わだつかみ）。 　漆黒の鱗に覆われた身体もなびくたてがみも、歴史の資料や屏風絵で見るそれそのままの姿だった。この黒龍にくらべて、剣を構えるルカウは、なんてちっぽけに見えてしまうのだろう。これでは挑むも何も、勝負にさえならない。鎌をつらねたような鉤爪を振り下ろされれば、それだけで致命傷になるだろう。 「ルカウ！」 　危ないから、戻ってきて。言おうとして喉まででかかった言葉を、彼女はルカウの微笑みに押し戻された。ルカウは臆した様子を微塵も見せなかったが、それでも膝がかすかに震えているのが彼女にはわかった。このまま挑むという言葉に飾られて、彼は死ぬつもりなのだろうか。 ――そんなの、許さない―― 　馬鹿げている。挑みに行くのではない、ただ死に急ぐだけだ。それだけは誰が許そうと、 ――私が許さない―― 　シャオツィは剣術などまったくかじったことがないという現実を忘れて、刃を鞘から引き抜いた。足が、自然と駆け出していた。一方、わだつみは顎を下げて、槍さながらの牙をむき出しルカウをせせら笑っている。 『怖気づきましたか？』 「誰が。それよりもおまえこそいいのか？　はじめに言っただろう？　もとの世界に帰る方法を吐かないというのなら、俺が、おまえを斃すと」 『戯言を』 　ルカウは開かれたわだつみの口のなかに剣戟を入れようとして刃を振りかぶる。わだつみは牙で少年の身体を噛みしだこうと、牙をむく。 　振り下ろした刀の切っ先を牙ではばまれてルカウは飛びのき、わだつみは身を乗り出して彼を追い、すんでのところで避けられて顎は宙を噛んだ。その隙に喉もとの鱗の薄い部分を切り上げようとしてルカウは刀のみねに左手をそえたが、わだつみが首をくねらせたせいでねらいははずれた。アザレアのナイフからシャオツィをかばったときの傷が痛み、じわりと血がにじんだ。 『怪我を負っているようですね』 「こんなもの、たいしたことない」 　出血にしびれてくる手のひらにかまってなどいられなかった。間近にせまった熱い龍の息にむせ返りながらも刀を持ち直し、舌をつらぬこうと逆手にする。それを察したわだつみが頭を突き出して頭部をルカウの背後にまわし、ルカウもそれにともなって身体の向きを変える。さながら檻の柵のように並んだ牙は彼を噛み砕こうとして上顎とともに持ち上がり、ルカウはその柵のあいだに刃を刺しこんで口内を裂こうと再び構えた。 　どちらが速いかの決着の数秒前。ルカウは、目の前に突然純白の鎌が閃くのを見た。 ――牙ではなく、爪！―― 　わだつみの武器は牙にかぎったことではなかったのを失念していた。しかし気づいたものの、完全に避けるにはおそすぎた。肩から腹にかけて斜めに引き裂かれ、血が、しぶきをあげて噴き出した。致命傷だと、痛みすら感じないほどにかすんだ意識のなかでルカウは考えていた。これでは本当に、お笑いぐさだ。 　しかし一瞬遅れて、彼の鮮血に混ざるように、新たに流れた黒く濁った血があった。 『あな……たは……』 　みずからの眉間に沈められた剣も信じられなかったが、わだつみは、その剣を突き立てた少女の表情のほうにさらに驚きを覚えたらしかった。 『あな……たは……シャオルウでは、ない……？』 「何度もそう言ったでしょう！　聞き入れなかったのはあんた自身よ！」 　少女の声は涙声で、すこぶる聞き取りにくかった。 「どうしてルカウを傷つけなければならないの？　どうして今まで、歴代の神女の夫を殺さなければならなかったの？　聞いた伝説のなかのあんたはかわいそうだったけれど、殺された人のほうが何倍もかわいそうよ！」 　眉間は、鱗が薄い。そして脳も近い。腕力がなく扱い方を知らない少女でも、剣を突き立てるだけならば可能だった。 　わだつみは重たげにため息をつき、その瞳だけで少女を見上げた。銀の髪をした少女はすでに柄から手をはなしており、両の拳をきつくにぎりしめていた。 『シャオルウ、では、ない……。彼女は、そんな瞳を、憎しみに燃えた目を、しなかった。いつも優しい、あたたかい、澄んだ、目でした……』 「どうせ私は優しくなんかないわよ」 　嗚咽を含んだ声で彼女は吐き捨てた。そしてわだつみの巨躯からはなれ、衣を深紅に染めた少年のもとにかがみこんだ。 「ルカウ？」 　唇に手のひらをかざすと、息はかすかだった。切り裂かれた肉に吐き気がしたが、彼女はこらえて彼の頬に触れた。 「ルカウ？　わかる？」 　意識はない。まぶたは閉ざされていて、その下の金色の瞳が二度とは現れないことを物語っている。しかし先ほどの彼女の言葉が聞こえていたのか、まさかそんなわけはなかろうが、彼はうわごとのようにつぶやいた。 「ショウコは……優しいよ……」 　青い双眸から、涙がこぼれ出た。あとからあとから、とめどなく。ルカウの唇はそれ以降、言葉を紡ぐことなく、かぼそくなる一方の呼吸をかろうじて続けていた。 「どうしてよ！」 　涙に消え入りそうになりながら、彼女は叫んだ。 「死んだら何もならないでしょう？　つけたい決着があったんじゃないの？　なのに、どうして無茶に挑んだりしたのよ！」 『少……女…よ……』 「何よ！」 　怒りにまかせて噛みつくように振り向いた。わだつみは瞳を閉じて、周囲にある岩と同じように動かないままで、言った。 『そなたらは……もと…いた世界に、戻りたいと……その方法を…知りたいと……言って、いましたね……』 「だから何？」 『戻して……さしあげ、ましょう……』 「ルカウをこのままにして行けというの！」 　もうひとつ、わだつみは大きな息をついた。 『泉の裏の、世界から……連れ…こまれた…魂を……戻して、さしあげましょう……』 「遅いのよ」 　シャオツィは頭を抱えてかぶりを振った。しかしそんな彼女にはとりあわず、わだつみは言った。 『最期に……訊いて、おきたい…ことがあります……。シャオルウは……亡くなったのでしょうか……』 「当たり前でしょう！　とっくの昔に死んだわよ！」 『死んで……おいででしたか……』 　ふうっと、わだつみは再三のため息をついた。それが事切れるいまわの息であると、彼女はさとった。 　わだつみが事切れると同時に、彼女の視界は揺れた。そしてすべてがおぼつかなくなり――…… 　視界のはしに、見知った顔が駆けつけてくる姿がぼんやりと見てとれた。わだつみの奥津城に自分たち以外の人間が来るだなんて、なんとも冗談じみている。幻なのかもしれないが、先頭にギーヤ、フェンリカ、あとは……もう、わからない。 　意識が吸い取られていくように遠のき、視界がすっと暗くなった。身体が地に崩れ、まぶたが閉じきる瞬間、彼女は倒れた少年の手を握った。 　虚無のとばりをくぐりぬけて、魂は白い朝光にたどりつく。

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