十三、そして目覚める朝

ゆっくりとまぶたを開くと、黒いおさげが目に入った。つづいて、小動物のように愛らしい大きな瞳、白いカラー、紺地の制服。 「鈴音（すずね）……？」 　ほぼ無意識に妹の名を呼び、そして自分自身のその声で目が覚めた。 「お姉ちゃん！」 　がばりと抱きつかれてたじろごうとし、後退ることができないと気がつく。赤石紹子は今度こそ、清潔で質素な白いベッドに横たわっていたのだ。 「す、鈴音？」 「お姉ちゃん！　いったい何があったの？　痛いところとかない？　苦しくない？　ずっと学校で待ってても来なかったから心配して電話かけたんだよ。そうしたらお母さんが、お姉ちゃんが道に倒れてて、救急車で運ばれたって。意識不明で、ずっと目覚めなくって……」 　まくしたてた最後に、心配したんだから、とうるんだ声で言う妹の背中を紹子は優しく撫でてやった。彼女の肩からこぼれた長い髪は、妹と同じ黒髪だった。 「……ごめん。いろいろと、大変だったのよ」 「大変って？」 　たずねる鈴音に、紹子はゆるゆると首をふった。 「ううん、なんでもないの。お父さんたちは？」 「さすがに何日ものあいだ、家族全員でついてるわけには行かないでしょ。みんな仕事や、学校があるし」 「学校？」 「もう、とっくに二学期ははじまったよ。あたしももうそろそろ学校に行かないと」 　時計を見遣り、鈴音は紹子から離れた。 「今すぐに、お父さんたちに連絡しておくね！　お姉ちゃんが気がついたよって。あ、お医者さんにも知らせてこなくっちゃ」 　ナースコールを使えばいいのに。心のうちでそう思いつつも、紹子はぱたぱたと駆け出していく妹の後ろ姿を静かに見送った。姉に似ずに、可憐な容姿を持った鈴音。妹の容姿をうらやんだことがないといえば嘘になる。だが、紹子はこれでよかったのだとしみじみ思う。 　ふと、シャオツィもわだつみも、すべてが夢だったのではないかと思えた。意識不明のあいだに見つづけた、長い夢。紹子は自嘲した。そうだ、夢に違いない。しかし不意に頭をよぎった少年の声に、彼女の自嘲の笑みは凍りついた。 ――ショウコは……優しいよ……―― 　あれが夢であったのなら、ルカウも、彼の存在自体も、夢だったということになる。あの微笑みも、噴き出した血も、彼の言葉も。 「ルカウ……」 　口に出して彼の名を呼ぶと、紹子の目から涙があふれた。最後に握ったルカウの手のひらの感触がよみがえる。死にゆく彼を残してきてしまった罪悪感と後悔が、胸の奥深くからせりあがってくる。胃がよじれるように痛い。涙はシーツに次々と染みをつくり、紹子は両手で顔を覆った。 　そのとき。 「竜太郎君、竜太郎君！」 　年配の女性の声が、廊下から聞こえた。それとほぼ同時に、紹子の病室の扉が開く。何ごとかと反射的に涙の跡だらけの顔を上げると、そこには、紹子とほぼ同年の少年の姿があった。 「竜太郎君！　あなたは……」 　女性の咎めるような声に、少年は笑顔で応じた。 「俺はもう、起きても大丈夫です。それより両親に連絡してください」 　白衣の女性は何がなんだかわからずにパニックに陥っている様子だった。けれども彼の言葉はもっともだと考えたのか、あたふたと言われるままに走り去っていった。 　あとには紹子と、竜太郎と呼ばれていた少年だけが残った。ふと紹子は泣いていたことを思い出し、他人に泣き顔を見られまいとして顔をそらす。しかし少年は、壁づたいのおぼつかない足どりながら、一歩一歩確実に彼女の方へと近づいた。 「……ショウコ」 　そっと、少年がささやいた。紹子のなかに稲妻が走った。 「俺だよ」 　おそるおそる振り返ると、ごく間近にあった少年の姿。途端、彼女のなかで、閃いた記憶があった。 　十年前の、幼い頃の記憶。公園に植えられた低木の陰で、ひっそり丸まった小さな背中。「どうしたの」とたずねるとその小さな背中が震え、淡い髪がさらりと流れたのだった。「どうして泣いてるの」と再度たずねて、幼い男の子は振り向いた。紹子をとらえた、うるんだ大きな瞳。その瞳と今目の前に立つ少年の瞳が、まったく同じだった。 「ルカウだよ」 　彼は微笑んだ。紹子は言葉が出なかった。 「十年前――俺が、消えてしまいそうで恐いと言って泣いていたのを、君がなぐさめてくれたんだ」 　言葉が出ない代わりに、覚えているということを表そうとして、彼女は強くうなずいた。 「すごく、うれしかった。あの優しさに触れたときから、直後にこの体から離れて中身だけ��向こう側�≠ﾖ引き入れられてしまっても、ずっとショウコのことが好きだった」 　喉がしめつけられる。視界が霞む。 「いつ、から……気づいてた？　シャオツィが、私だということに」 「ショウコが宮の寝台の上で目覚めて、すぐに。フェンリカと言い合っているときに君が自分の名前を言ったのを、偶然廊下で聞いていたんだ」 　どうして十年前のことを言ってくれなかったの。声にならない声でうったえて、それを汲んだ彼はすまなさそうにうつむいた。 「だって、もしも君が覚えていてくれなかったらと思うとつらくて。言い出せなかった。……だけど」 　だけど。 「こうして帰って来ることができたから。向こうでルカウとして生きるか、こちらで竜太郎として生きるか、わだつみとの対決の場で決着をつけるつもりで挑んで――結局はあっけなくやられてルカウとして死ぬのかと思ったけれど、君のおかげで、帰って来ることができたから」 　それで良しとしてくれるかい？　言いながらのぞきこんだ彼を、紹子は両腕で抱きしめた。十年間ずっと病室のベッドで眠って過ごしたのだろう彼の身体はあまりに痛々しくて、力をこめれば壊れてしまいそうで。けれども抱きしめずにはいられずに、彼女はガラス細工を包みこむようにそっと、両の腕をまわした。 　九月になり、季節は秋に移ろったとはいえ、まだ早起きの太陽はまぶしい位置にまで昇っていた。真白い陽光はすがすがしく、青く澄みきった空から病室の二人を照らしていた。 　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　―　終　―

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