| Nachtmusik 君の一番 |
ねえ。兄貴じゃなくて俺を見てよ？ 俺なら、兄貴ができなかったこともしてあげられるよ？ ずっと一緒にいるよ？ ずっとちとせのそばにいるよ？ だから俺を見て。 俺だけを見て。 俺だけを好きでいて。 ねえ、ちとせ？ ちとせは俺の自慢の姉貴で。 でもって、自慢の恋人で。 あ。戸籍上は姉貴だけど、血縁的には大丈夫。 戸籍の上は姉弟ってことになってるけど、俺は養子で、実際のところは従弟だから。ちゃんと三親等。問題なし。 「ちとせって、最近様子おかしくない？」 うしろからぎゅっと抱きしめながら、訊いてみる。ちとせは今風呂から出たばっかりで、髪も濡れたままで、首筋のあたりがそこはかとなく色っぽい。 「おかしい？ 私が？」 俺の腕をほどいて向き合いながら、ちとせはため息をついている。 「別に普通どおりよ。どこか変なところある？」 「うーん……はっきりとは言いにくいんだけどね。ちょっと、悩んでる感じ？」 向き合った姿勢になって、俺はちとせの長い横髪を指に絡める。俺の髪だって、ちとせの真似してずいぶん昔から伸ばしてたから、結構長い。そのせいで女と間違えられることも多々あるけど、長い髪はちとせとおんなじがいいから、気にしない。でもやっぱり、おんなじように長く伸ばしてても違うんだよね、触りごこちが。女の子の髪の毛は細くって、柔らかくって、シャンプーが染み込みやすいのか、いい匂い。 「悩んでる感じ……ねえ」 ちとせは俺の台詞を口のなかでつぶやいて、ちょっと視線をさまよわせる。 ……やっぱり、何か悩んでる？ ちとせは思ってることとかあんまり表に出すほうじゃないから、俺みたいに付き合いが長くないと、きっとわからない。 「悩みだったら俺に話してよ。楽になるよ？」 「あのことかなぁ……。悩みってほどのものじゃ、ないと思うけれど」 「あのこと？」 俺がちとせの髪の毛をもてあそんでいた指先を止めると、ちとせは面白そうに微笑んだ。 「ううん、本当にたいしたことじゃないのよ。ただ、好きって言われて、キスされただけ」 「だけ！？」 俺は飛び上がってた。それ、「だけ」ですませられる話じゃないよ。 「そいつ誰？ 何者！？ 俺のちとせとキスするだなんて！！！」 「はいはいはいはい、静かにして」 ちとせに両肩を抑えられて、しかたなく座りなおす。だけどやっぱり、許せない。 「どこのどいつ？ ちとせの唇奪った奴」 「言わないでおくわ。……教えたら万世、絶対そいつのこと刺しに行くと思うから」 「あたりまえじゃん！」 そいつがどこの誰だかわかったら、地獄の果てまででも追っかけてやる。ちとせはそんな俺の性格を、ちゃんとわかってる。 「でも別にいいのよ。もうすんだことなんだし」 俺がよくない。言って、少し子どもっぽく両頬を膨らまして見せる。 「よくないんだよ。ちとせは俺のだから」 「私は万世の所有物じゃありません」 でも所有していると思いたいお年頃なのです。わかんないかなあ？ 「私は私のものなの。わかる？」 「でも、ちとせに俺以外の奴がキスするのは許せない」 「まったく独占欲が強いわね。駄々っ子じゃないの。あんまりお子様のまんまだと、女の子に嫌われるわよ？」 また。そうやってすぐに子ども扱いする。俺はたしかにちとせよりも三つ年下で、まだ中学生なのは認めるけど。俺以外の奴がちとせの隣で笑ってて、ちとせの微笑みに浸ってて、ちとせの唇奪うっていうのは、やっぱり許せない。 「……ほかの女にどう思われたってかまわない。ちとせにだけ、嫌われなければ俺はいい」 言いながら、俺はちとせの身体をくるりと回して再び抱き寄せる。膝と膝のあいだにちとせを後ろ向きにすわらせて、俺のお腹とちとせの背中がくっつく格好。そして俺は自分の左右の手の指をちとせのお腹の前でそっと組み合わせる。 シャンプーの匂い。髪の匂い。ちとせの匂い。髪や後首筋にやさしくキスをして、彼女の肩にそっと頭をかたむける。 「ちとせー」 「何？」 「だから、ずっと俺だけ好きでいて。ずっと俺だけ見ていてね」 「…………」 ちとせは答えずに俺のほうを振り向いた。俺の上に注がれる赤褐色の瞳。寂しい色と切ない色を、強気とプライドで覆い隠した、そんなまなざし。 ちとせの深い瞳に、いったいどれだけの人間が気づいているだろう？ きっと世間じゃ、ただ「しっかりしてる子」とか「よくできる子」とか言われてるに違いないんだ。ちとせの弱い部分を知っているのが俺だけってのも、なんだか優越感にひたれていい気もするけど。それだけ理解してくれる人間が少ないのは、ちとせにとってみれば悲しいことなんじゃないのかなーって思う。 無言のまま、俺を見ている赤褐色の瞳。だけど本当は、その瞳に映っているのは俺なんかじゃないって、わかってる。 ちとせが俺を通して見ているのは、俺の五つ年上の実の兄貴。ちとせから見れば従兄。ちとせは昔から、ガキのときからずっと兄貴だけを好きでいて、ずっと兄貴だけを見ている。兄貴とちとせが最後に会ったのは七年も前のことなのに、もう過去のことのはずなのに、ちとせは兄貴を追い続けているんだ。 ねえ。兄貴じゃなくて俺を見てよ？ 俺なら、兄貴ができなかったこともしてあげられるよ？ ずっと一緒にいるよ？ ずっとちとせのそばにいるよ？ だから俺を見て。 俺だけを見て。 俺だけを好きでいて。 ねえ、ちとせ？ 「……ちとせは、まだ兄貴のことが好き？」 びくん。 素直に動揺が出て、ちとせの体が跳ね上がる。 「俺よりも、もうずっと会えない兄貴のことが好き？」 「だって、幾世兄は……！」 向き直って何かを言おうとしたちとせの口を、俺は自分の唇で塞ぐ。やわらかい。 「わかってて訊いてるの、俺は。ちとせが俺をきちんと見てくれないから」 そしてもう一度キス。 「俺じゃダメ？ 俺じゃ兄貴の代わりにはなれない？」 それは七年間、俺が思い続けてきたこと。ほんのガキだったころから、俺が思い続けてきたこと。だけどちとせはうつむいて、俺の期待にそわない返事をした。 「幾世兄は、幾世兄だから。いくら万世でも幾世兄の代わりにはなれないの」 「じゃあ、代わりじゃなくてもいい。ちとせの昔の一番が兄貴だったらそれでかまわない。でも今は、ちとせの今の一番は俺でいさせて」 そんなのは、ほんとは嘘。俺は今だけなんかじゃ満足しない。今もこれからも、それこそ死んでからもちとせの一番でいたいんだ。 ――なのに。 ずるいよ。兄貴。 そばにいてやれないくせに。 ちとせを思い出に縛り付けてるだけのくせに。 ずるい。ずるい。 俺はこうしてちとせのそばにいるのに。 兄貴のせいでちとせが全然俺のこと、見てくれないじゃないか。 ちとせのきれいな目には、物理的には俺が映ってて。 だけど本当は、俺の向こうに兄貴を見てる。 ねえ兄貴。俺、あのときの兄貴の年を越したよ？ 身長だってあのときの兄貴よりもずっと高いよ？ 声も少し低くなった。力だって強くなった。俺はまだ中二だけど。中二だけど、だからこそ、まだまだ成長するよ。そしてもっといっぱい、ちとせを守ってやれるようになるよ。 「ちとせ」 俺に甘えてよ。ちゃんと守るから。その瞳の深いところの寂しいのも切ないのも、全部包み込めるようになってみせるから。こうやって体だけじゃなくて、心も抱きしめられるようになりたいよ。心のまわりの柵を、俺にだけは開いてよ。ねえ？ 「……幾世兄と私は」 俺が柔らかい髪を手で梳いていると、ちとせがぽつりと言った。 「ちっちゃいときだったけど、結婚の約束までしたのよ。小学校に上がってからも、幾世兄は照れながら私のことを好きだって、約束は忘れてないって言ってくれたの。私、すごく嬉しかった」 「初恋は実らないって言葉、ちとせは、聞いたことある？」 「あるわ。ある、けど」 ちとせが目を瞑って、その頭の重みが俺の胸にかかる。 「聞いたことあったけど、でも、あの恋が実らないってことの解り方が、すごく嫌だった」 解ったのは、約二年前。たしかにあれは、ひどい解り方だった。 「知らなかったら、今でも幾世兄のことをただ純粋に待っていられたのに」 けどちとせが知らないままだったら、俺の気持ちはどうなってたんだろう？ 伝えられずに、伝えられないままに、パンクしてしまっていたかもしれない。兄貴には悪いけど、俺はそれが知れたせいでちとせをなぐさめて、抱きしめることができたから……「兄貴のこと」がばれて、ちょっとほっとしていたりした。 「でも待っていたって、兄貴にはもう会えないんだ。……俺だったら、兄貴ができなかった分、いやそれ以上にちとせを幸せにするよ？」 「気持ちは……嬉しいんだけどね」 気持ち「は」、嬉しいん「だけど」。 だけど……何？ 「……ごめん、もう寝るわ。おやすみ」 ちとせは髪のなかから俺の手をとって、指先に優しくキスしてくれた。これ以上追求させないための、有無を言わせないための、牽制のキス。それでも、指先にでも口付けてもらえたことに喜んで、俺は惜しかったけれどちとせを放した。 ばたん、とドアが閉じる音がして。ちとせが自分の部屋に戻る足音が聞こえる。 「……おやすみ」 口のなかだけでつぶやいて、ちとせの感触が残る指先に自分の唇で触れた。 まだ眠ってしまうには、俺の価値観で言えば早すぎる時間。 ちとせは行ってしまったし退屈になった俺は、いつになくめずらしく、鞄から教科書を取り出して宿題にとりかかった。 |
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