| Nachtmusik 穏やかな朝 |
平和で穏やかないつもの朝。 あたしはいつだって、面倒事には無関係。 誰だってこんなに穏やかに過ごせるのに、 どうしてみんなは 何かを失くしたとかって泣くんだろう？ 何も求めなければ、失くしたりなんかしないのに。 「すずーっ！ 朝ーっ！ 起きろ遅刻するよーっ！」 眠い。 「今すぐ布団から出なさいじゃないとまた二度寝するでしょうがほら起きて！」 眠い。非常に眠い。 「もう六時半！ 起ーきーろーっ！！！」 眠いんだから、あと、もうちょっと…… 「いつまで寝てるの！？ いい加減にしないとこのままほっとくよ？」 この声は、お姉ちゃんだ。お姉ちゃんはどうして一回目の目覚まし時計で確実に起きられるのか不思議でたまらない。朝生まれだから？ いや、それを言ったらあたしも朝生まれだったはずだ。……ああ眠い。 「ふぁあい」 「ふぁあいじゃないの！ とっとと起きろ！！！」 半眼でのろのろとベッドに起き上がる。それを見届けたお姉ちゃんは、ばたばたと階段を下りて行った。 「あさ……？」 まだ開けきらない目で時計を見てみると、たしかに六時半を過ぎていた。ほんと……おきなきゃなあ……。 ――ぼて。 ………………………………。 ジリリリリリリリリリリリリ！！！！！ 「ひゃあ！」 無意識に意識を手放して枕に突っ伏してたら、目覚ましがスヌーズ機能ですさまじい音を鳴らした。あたしは反射的に飛び起きて、やっとのことでベッドから転がり落ちた。ベッドから下りても眠すぎると床に突っ伏して寝ちゃうんだけど、そうしないように努力はしよう。うん。 パジャマをぽいぽい脱ぎ捨てて、制服のブラウスに袖を通した。この時期だから本来は夏服で半袖を着るはずなんだけど、日焼けが嫌なのとあんまり肌を出すのが好きじゃないという理由で、あたしは年中長袖ブラウスを着用している。 でも、そう考えてるのはあたしだけじゃないみたいで、中高一貫の善哉学園で半袖を着てるのはほとんどが若さ溢れてる中学生なんだよね。 だけどそういえば……お姉ちゃんは高校生のときでも、半袖着てたかな。日焼けとか美容に良くないとか、あんまりそういうのを考えない人だから。大学生になった今でも、日焼け止めを「めんどくさい」という単純な理由で塗っていかないし。最近やっとお母さんの説得が実って、お風呂の後にローションとかの基礎化粧品をやるようになったくらいだもんね。お姉ちゃんのファッションはいつもジーンズにTシャツにポニーテールという、実にそっけない格好。いや、善哉女子の制服もじゅうぶんにそっけないけど。 着替え終わってリビングに下りていくと、テーブルではすでにお姉ちゃんが朝食の最中だった。 「あ、おはよ。やっと起きたわね」 「うん。おはよ」 お母さんが用意してくれた冷たいココアで口のなかをうるおしてから、半分に切られたトーストにバターを塗る。そしてハチミツ。本当はメープルシロップの方が好きだけど、お父さんが使い切っちゃったみたい。 「お姉ちゃんの今日の予定は？」 キッチンから、お母さんがお姉ちゃんに訊いている。 「授業は午前中で終わるよ。だけどそれから図書館に行ってレポート練ってくるから」 「締め切り近いの？」 「月末」 「じゃあまだ充分あるじゃないの」 お姉ちゃんはいろいろと前倒しでこなして、締切よりもずいぶん前に提出をすませてしまうタイプの人だ。夏休みの宿題とか、最初の一週間でかたづけちゃうとか。 「でも、レポート終わったら龍の勉強見てあげる約束だから」 「ああ、今日は龍君の家庭教師の日なのね」 「うん。英子にも手伝ってもらう予定。理系教えるのは、断然英子のほう上手だから」 「あらあ、英子ちゃんいそがしいんじゃないの？」 「彼女はバイトやってないもの。時間が夕方なら大丈夫なんじゃないかな」 龍さんは、お姉ちゃんの大事な友人……みたい。はじめて会ったときに、お姉ちゃんに「彼氏なの？」って訊いたら無表情に「違う」って即答されたから、彼氏じゃないんだろうけど。 たしかにね、あの二人が一緒にいるところ見ても、全然いちゃいちゃした雰囲気ないし。まあ……お姉ちゃんが誰かといちゃいちゃするなんて、絶対想像できないけどね。言っちゃ悪いけど、きっとそんなの想像したら鳥肌が立っちゃう。だからお姉ちゃんにとって龍さんは仲がいい男友達、っていうのが一番いい表現なのかな？ 龍さんはお姉ちゃんと同い年だけど、色素が薄くって細くって、なんだかもっと幼く見える（年下のあたしが言うのも微妙だけどね）。お姉ちゃんも全然女子大生になんて見えないから（お化粧もしないし、ブランド品にも興味がないし、「動きやすいのが一番」って言って男の子みたいな格好だし）、二人が図書館で勉強してると私服高校生の勉強会に見えるんじゃないかな。 七歳のときから十年ものあいだ、龍さんは病気か事故かわかんないけど病院でずっと意識不明だったんだって。その病院にお姉ちゃんもたまたま二年前に入院して。十年ぶりに目覚めた龍さんが入院してたお姉ちゃんと出会ったのがはじまり。……ううん。あの時会ったのが初めてとは思えないくらいに、二人はすぐにうちとけてたのが不思議だけど、お姉ちゃんは深くは話してくれなかったから、よくわかんないまま。 「――じゃあ、鈴の予定は？」 ひととおりお姉ちゃんの話を聞き終えたお母さんが、今度はあたしにたずねる。 「今日も美術部の日だっけ」 「うん。だからちょっと遅くなるよ？」 あたしは美術部の副部長。お姉ちゃんが部活引退するときに無理矢理副部長職をあたしに継がせて、今にいたる。あたしはお姉ちゃんほど要領よくないから大変なんだけど、結構やりがいあるし、現部のメンバーだったら、あたし意外にやりそうな人いないしね。 それに、今は六月。そろそろ本格的に文化祭の準備に手をつけなくちゃいけない頃。美術部は文化部のなかでもかなり伝統のある部活だし、英子先輩とお姉ちゃんが部長・副部長だったゴールデンコンビ時代（顧問の先生曰く）にグンと派手になったし。お姉ちゃんも英子先輩も絶対に文化祭を見にくるから、手を抜いたりしたらあとが怖い……。 今日も部長と、部企画の相談しなくっちゃ。 お姉ちゃんは毎朝、あたしより一足はやく家を出る。お姉ちゃんに一分二分くらい遅れてあたしも、 「いってきまぁす」 何の変哲もない、いつもどおりの朝。 あたしはお姉ちゃんとちがって面倒事には首をつっこまないし、男友達なんてものもいないし。女子校だから恋愛だとか彼氏だとかで盛り上がってる同級生も少ないし、大学も学内推薦でそのまま上がるつもりだし、まだ何年かは平穏で平和でアップダウンのない毎日を送るつもり。 あたしの世界はいつだってせまくて、おだやかで。 だからこのときはまだ、あたしが、あんなに複雑な恋愛沙汰に悩む子に出会うことになるとは、思ってもみなかった。 |
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