| Nachtmusik 幼な恋 其二 |
言葉のひとひらで喜んだり、悲しんだり。 君にそうさせるのはたった一人だけだって、ずっと思ってた。 そのたった一人がいない今 願わくば自分が次のたった一人になりたいと。 はかりしれないくらい願いつづけて、想いつづけて そして 不安と戦いつづけてきた。 ちとせが兄貴以外の男を好きになるはずがないって。 心のどこかで強くそう信じてて、そして安心してた。 ちとせが兄貴以外の男を好きにならない限り、ちとせはずっと俺と一緒にいるから。ちとせのそばに、ずっと俺がいられるから。昔の一番は兄貴でも今の一番はこの俺なんだって、俺とちとせは恋人なんだって思っていられるから。 だけどそんなの、どこにも保障なんてなくて。信じたがっている俺が勝手に信じていただけで。だから同時に、ひどく不安だった。ちとせが俺だけのことを本気で好きになってくれたなら、そんな不安、塵になって吹き飛んでいくのに。 だからただ、不安が本当の恐怖にならないように俺はちとせを守って、ちとせを抱きしめて、ちとせに優しいキスを贈りつづけた。 それは一種のおまじないのようなものでもあって。俺は、自分が不安に押しつぶされてしまわないように、この腕でちとせを抱きしめて、ちとせはここにいるんだって、一番近くにいるのは俺なんだって、自分に言い聞かせていた気がする。 「ちとせ！ ただいま！」 だからその日。 ちとせの部屋のドアを開いたときには、心臓が止まってしまうかと思った。 ちとせが兄貴を見るような瞳をして、指先で何かきれいな紙を折りたたんでいたから。それがラブレターなんだろうって、一瞬のうちに理解して。 「……ちとせ？」 俺と目があった瞬間に、ちとせはものすごく驚いた表情になって。そうやって固まったまま、何の言葉も出てこないみたいだった。 「どうしたの？」 一応、訊いてみる。訊かなくたって、手元の紙とその顔でわかってしまっていたのだけど。 ちとせはロボットみたいに不自然な動作で自分の手元を見て、それから俺を見た。しばらくすると今度は茹でダコみたいに真っ赤になって。手にしていたきれいな紙を大慌てで後ろに隠してあとずさった。 「万世こそどうしたの。私の部屋に入るときはノックぐらいしなさいって、いつも言っているでしょう！」 たしかに言われているけど、いつも忘れてしまう。ちとせはちゃんと、俺の部屋に来るときノックしてくれるのにね。 俺がノックを忘れてしまうのは、一瞬でもはやくちとせに会いたいと、いつでも思っているから。ちとせも俺がちとせを想っているのと同じくらいに俺を想っていてくれたなら、はやる気持ちもわかってくれるのかもしれないだなんて、意味のないことを考える。 喉までせりあがってくるやるせなさを必死で押し込めながら、俺は何でもないふうをよそおって、軽い口調で言った。 「あ、ごめん。だけどはやくちとせに会いたくて。……で、何隠してるの？」 「か、隠してなんかないわよ」 隠してないだなんて、嘘。いつからそんなに嘘が下手になったの？ 赤い顔して、両手を後ろにまわして後退りながら言ったって、説得力ないってことくらいわかってるはずなのに。 「嘘、何かうしろに隠してるでしょ」 指摘するとちとせは見るからに一生懸命にかぶりをふった。 「何でもないわ。万世は自分の部屋に行って、はやく着替えてらっしゃい」 なんでもないはずがないよ。着替えてらっしゃいって言って、俺が簡単に出て行くと思う？ あからさまに、いつもと様子がおかしいんだから。ちとせだって、きっと頭の片隅ではこんな嘘は俺にバレバレなこと、わかってるくせに。 「気になってそれどころじゃないよ。……俺にも言えないことなの？」 「だから、なんでもないってば」 それなのに。 あくまで「なんでもない」をつらぬくつもり？ 「どうしたのちとせ。なんだかおかしいよ」 「おかしくなんかないわよ！」 否定している言葉が、にらむ視線が、胸に突き刺さるようで痛い。思いっきり否定しているはずなのに、それはとんでもない力を持った肯定と同じことだ。 心なしか、目が潤んでいるように見える。叫ぶように否定する声も、ほてった両頬もつりあがった眉も、なんだか、喧嘩している子どもみたいだ。俺たちは喧嘩らしい喧嘩なんてしたことがなかったから、そんなちとせがとても新鮮だった。新鮮なちとせを見られてうれしい反面、やっぱり無性に悲しかった。 だってそういう顔をするのは、俺のためではなかったのだから。 両腕を伸ばして抱きしめたい。反抗もできないくらい、声も出せないほどに、強く強く抱きしめて、俺からはなれていってしまわないように閉じ込めておきたい。 俺だけを見て。ほかの誰のことも見ないで。 俺だけを好きでいて。俺のことだけを好きになって。 俺はいつだってそばにいるから。 俺がいつだってちとせを守るから。 だからちとせもそばにいて。 俺からはなれていかないで。 兄貴なら、まだどこか許せるけれど、ほかの奴のところへ行くのなんて許せない。 ちとせの一番近くには、ずっと俺をいさせてほしいんだ。 「……ちとせ」 少しちとせの方に歩み寄って、足を止める。そう広い部屋ではないから、ちとせが壁際ぎりぎりまで下がっても、俺との距離はたいして開かない。もう一歩近づけば、触れられるくらいの距離。 一度目を閉じて、軽く深呼吸をする。今から訊くことは、俺にとってとても怖い質問。 「新しく、好きな人ができたの？」 「違う！」 予想外に、ちとせは即答した。沈黙するかと思ったのに。 けど、その答えは本当なの？ それともさっきムキになって否定したみたいに、嘘？ 本当なら、まだ兄貴を好きでいるってこと？ 俺が一番近くにいてもいいってこと？ ……でも。 「……でも、それ。ラブレター？」 さっきから頑として隠しつづけているきれいな紙。ちとせが後ろにまわした手で持っている、それ。 「隠したやつ、便箋？ もらったの？ それとも……書いてたの？」 ただの紙切れだったらこんなふうに隠したりはしないし、あんなに切ない目をして見つめる必要もなかったのだから、ラブレターに決まってる。 「だって、ラブレターでもなければ、真っ赤になって隠すこともないでしょ？」 俺の知らない誰かから、俺よりはやく生まれてちとせと同じ学校に通っている誰かからもらったの？ それとも、そんな誰かに書いてたの？ そうじゃないなら、ちとせは兄貴からラブレターをもらった、なんて言うの？ 七年も前に交通事故で逝った兄貴から届いたって？ ……まるでおとぎ話だ。 そんな兄貴に向けて書いていたというなら、ちとせは可愛いねって、それだけで終わるのに。そうだったらいいのに。 訊きたいことはいっぱいあった。はっきりさせておきたいことも。 けれど、それ以上ちとせを追求する気にはなれなかった。助けをもとめる仔犬みたいな、泣きそうな顔をされたら、問いただすなんてできない。いつも気高くて強くてしゃんとしたちとせが滅多に見せない姿だから、なおさら。 たくさんのひびや亀裂でおおわれたガラスの器みたいに、これ以上少しでも触れれば、壊れてしまいそう。 「――ごめん。ちょっとからかっただけなんだからさ、そんな顔しないで」 からかっただけだなんて、嘘。 さっきのちとせみたいに、わかりやすい嘘。 でも、嘘も方便。ときには傷つけないで通り抜けるための、優しい手段。 俺は床に鞄を置いてちとせのすぐ前まで進み出ると、ちとせの両頬を静かに手のひらでつつんで、震えているまぶたに軽いキスを落とした。傷つけないように、むしろ癒すように。 左のまぶたの次は、右のまぶた。羽根が降るように、そっと、そっと。唇にちとせの震えがつたわって、うすい皮膚がとてもはかなくて、とけて消えてしまうんじゃないかと怖くなる。 震えているのは、誰のため？ 俺の知らない誰かのため？ ついさっきまで問いつめていた俺のため？ それとも……ずっと前にいなくなってしまった兄貴のため？ 「俺、ちとせのこと信じてるから」 信じてるから。ちとせが俺に黙ってどこかへ行ってしまうなんて、俺以外の、俺の知らない誰かのところへ行ってしまうことなんてないって、信じてるから。 ――ちとせが兄貴以外の男を好きになるはずがないって、まだ信じていてもいいよね？ 俺に黙って、ほかの誰かを好きになったりしないよね？ 俺からはなれたりしないって、まだ、信じていていいよね？ どこにも保障なんかないってわかってる。ちとせが本気で俺をちとせの一番にしてくれない限りどうにもならないんだって、わかりきってる。だからこれは、俺のただの希望的観測。 ――それでもやっぱり、信じてるから。 信じていないと、きっと、俺のほうが壊れちゃうから。 傷つけないように、むしろ癒すようにちとせに降らせるキスは、実は俺を傷つけないように、癒すようにするキスでもあって。 両方のまぶたの次は額に。最後に、かすめるくらいに唇に。 「今度からはちゃんと、ドアをノックするよ」 「……うん」 両手は後ろにまわしたまま。ちとせは首だけでうなずいた。もうその瞳は怒っても壊れそうでもなくなっていたけれど、やっぱりとても切なかった。 「俺、ちとせのこと傷つけた？」 「……ううん」 ちとせは、優しいね。 「……ありがと。じゃ、またあとで」 ――パタン。 鞄を手にして、ドアを閉める。そして壁一枚へだてただけの、自分の部屋へ。 着替えることも忘れて、しばらく学生服のまま壁にもたれてぼうっとしていた。学生服といってもちゃんと着ているのは学校指定の黒いズボンだけで、上は薄手の長袖パーカーだ。 ――あつい。 でもこれは、長袖が暑いんじゃない。目とのどの奥が熱いんだ。 こぶしをにぎりしめたら、涙と嗚咽がこぼれ出た。 |
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