| Nachtmusik 幼な恋 其三 |
お願いだから 俺に黙ってどこかへ行ったりしないで。 お願いだから 俺が待っているところに帰ってきて。 寂しくて、不安で。 おきざりにされた子犬みたいに、 悲しくてたまらなくなるから。 ちとせの帰りが、遅い。いつになく。 部活とかやっているわけじゃないから、とっくに帰っていてもいい時間なのに。もうすぐ、夕食の時間。 ――遅すぎるよ、ちとせ。どうしたの？ 何かあったの？ 「母さん。俺、ちとせを迎えに行ってくる」 心配で、心配で。俺はいてもたってもいられなくなって、玄関に下りた。 「ちとせ、遅すぎるよ。心配だから、まずは駅まで行ってみる」 「そうね……普段ならもっとはやく帰ってきているものね。じゃあ、お迎えお願いするわ」 「入れ違いになるかもしれないけど、駅のあたりでしばらく待ってもちとせが来なかったら、一旦俺帰ってくるから」 いってきます。家を出て、半分小走りに駅へと向かう。 母さんも心配そうだった。だって、何の連絡もないのに昨日や一昨日よりも一時間以上遅いんだ。心配にならないほうが、おかしい。ちゃんとした理由があって遅くなるんだったら、ちとせは絶対に家に電話を入れるのだから、なおさら。 ちとせ、 ちとせ、 ちとせ。 ちとせが心配。 だんだんに足を速めて、駅へと急ぐ。急いだからといってどうにかなるわけでもないけれど、気持ちが急いでる。ちとせに何かあったんじゃないかって。いつも通りに帰ってこられないような何かが、ちとせにあったんじゃないかって。 突然の事故とか、病気とか。そういうものも、たしかに恐い。ものすごく。ちとせが危険な目にあうことなんて考えたくもない。 でも、もっと確率が高くて怖いのは、ちとせの傷つきやすい心のこと。ただでさえ兄貴が遺した傷が深いちとせの心が、ちょっとしたことがきっかけでどうにかなっちゃうんじゃないかって。心が痛すぎて、動けなくてうずくまってるんじゃないかって。それが、今は一番怖い。 ちとせ、どうしてこんなに帰りが遅いの？ 誰かに傷つけられた？ それとも、兄貴の傷が痛むの？ 本当に傷を抱えたまま、どこかでひとりで泣いてるの？ だったら、俺のそばにいてくれたなら、俺がぎゅって抱きしめるのに。 ――ちとせ。 学校帰りの高校生や、大学生。スーツ姿の人、これから塾へ向かう小学生。たくさんの人が行き交う時間帯の駅前に、ちとせの姿は見つからない。そわそわしながら、淡いオレンジに染まりかけたはじめた空を見上げて、そして腕時計を見る。駅についてから三十分が経った。三十分待ったけれど、ちとせは来なかった。 母さんにはしばらく待っても来ないようだったら一度帰ると言ったけれど、とても帰る気にはなれなかった。入れ違いなんて、めったなことがない限り起こらない。駅から家までは大きな道が一本通っているだけなのだから、途中の細い脇道に入り込んでわざわざ面倒くさい道をたどらない限り、入れ違いなんてありえない。すれ違うはずなんだから。 すれ違うちとせを、俺が見落とすことなんてそれこそありえない。 俺は駅からはなれて、また走り出した。 ――ちとせ、どこ？ 高架下の公園、近所のコンビニ、ちとせがかつて通っていて、今は俺が通っている中学への通学路。あちこち探しまわったけれど、あのきれいな長い黒い髪はなかなか見つからない。市立図書館の付近、小さな雑貨店、ちょこっとだけ寂れて静かな商店街。ちとせが行きそうな場所を考えて当たってみたけど、どこにも見つからない。こんなことなら、財布を持ってくればよかった。そうすればちとせの高校まで行くことができたのに。 これだけ走り回っていると、栄介みたいな体力無しの運動音痴ではない俺でも、さすがに息が上がってきた。 ――どうしよう。 ぽつりぽつりと街灯にも明かりがともる。空が山吹色からミカン色になって、もうすぐ日が暮れる。 疲れた肺と心臓をせきたてて、また足を動かす。初詣に行く神社、ちとせと兄貴と俺とでよく遊んだ空き地で今は駐車場になってしまっているところ、俺たちが通っていた小学校が見える坂の上。なのに、どこにもいない。ちとせが、見つからない。 ――ねえ、ちとせ。どこにいるの？ 胸が痛い。心が痛い。俺がもっとしっかりしていたなら、悲しくなって心の傷が痛んだときちとせは俺を頼ってくれたかもしれないのに。俺がちとせを守るって、決めたのに。まだ、見つけることさえできないだなんて。 濃いオレンジ色に燃えてきた西の空を恨めしく思いながら、小学校のそばの坂をのぼりきってぐるりとあたりを見まわした。つい一年ぐらいまでやっていたのに、もうしばらくシャッターが下りたままになっている文房具店とか、ちょっと古い感じの木造の家だとか。夕陽に映えて、余計に寂しい気持ちになる。 一度、家に戻ってみようか。こうして探し回っているうちに、ちとせが帰ってきたかもしれない。だけれどそう考える一方で、ちとせを探さなくちゃと思う使命のようなものが、俺が家に戻るのを許さない。 歩いているうちに、自然公園の近くに出た。 そういえば、小学生のころは写生大会とか理科の授業なんかでよくここの公園に来たんだっけ。おんなじ学校だったんだから、ちとせもここで写生や植物観察をしたはずだよね。たぶん……きっと、兄貴も。 この公園の繁みの奥は小高い丘になっていて、そこからは模型みたいに小さく見える建物が、街が、遠くの方までパノラマで一望できる。そこからの眺めが好きで、絵とかに疎い俺は写生の画板と画用紙をほっぽり出して、丘のほうへ遊びに行ってたりした。 街が一望できる丘に立ったって、そこから見える人間なんて小さすぎるから、ちとせが見つかるわけじゃないけど。それでも、あまり普通は人が行かない繁みの向こう側――その場所に向かって引き寄せられるみたいに俺は歩いた。 ――そこでオレンジの街を見たら、もう一度、駅から家までの道をたどってみよう。 赤く燃えているみたいな空の下。 朱色に染まった街の風景。 緑の草も赤い光を帯びて黄色っぽく見える、その芝生の上に。 「ちとせ……？」 ――いた。 あんなに待っても、探しても、見つからなかったのに。ここにいた。 ――ちとせ……やっと、見つけた。 「ちとせ」 そっと近づいて、そっと呼びかける。 「……うん」 小さな小さな、ちとせの返事。後ろ姿では表情はわからない。それでも声を聞けただけで、とても安心する。 そろそろと両腕を伸ばして、ちとせの肩を包み込む。そのまま指先で頬に触れたら、爪が涙で濡れた。本当に傷を抱えたまま、ここでひとりで泣いてたの？ 「何か、あった？」 たずねるとちとせが心もちうつむいた。それにつられてさらりと動いた髪が、俺の腕に流れかかる。 「俺にも言えないこと？」 無理に言ってほしいとは思わないけど。やっぱり、言ってくれるのならできれば言ってほしいというのが本音。ちとせの前にまわりこんで髪で半分隠れた顔をのぞき込むと、少し開きかけた唇が細かく震えてた。 ちとせが言おうとする気持ちと、ためらう気持ち。迷ったまま止まっているちとせに申し訳なくなって、俺は震えるちとせの唇にキスした。言うのがつらいのなら、言わなくてもいいよ――そんなつもりで。 「……ありがとう」 ほんの少しだけ、ちとせが微笑んだ。ほんの少しだけ。痛々しい笑顔だったけど。 「万世は、優しいね」 「ちとせにだけだけど」 今度は、涙のあとにキス。 「ちとせじゃない奴には、俺、優しくないと思うよ？」 「……私、まだ幾世兄が好きなの」 ちとせは言った。 「万世のことも大事。だけど、幾世兄のことが忘れられないの」 「忘れる必要なんて、ないじゃん」 ないよ。そんな必要。 「ずっと、好きなだけ想ってればいいじゃん。だけどそれだけじゃ、兄貴も悲しむ気がするけど」 「悲しむ？」 「だって、いつまでも兄貴に縛られたままで、いつまでも何度もこういうふうに泣くんだったら、兄貴はきっと自分のせいだって悲しむよ」 「…………」 あ。ちょっと、言いすぎたかもしれない。 「で、でも、想われることで兄貴が悲しむとか、そういうわけじゃなくて。ちとせが兄貴のせいで今が幸せじゃないんだったら、兄貴も悲しむってことで」 言い訳みたいかな。それでも、そう思っているのは本当。ちとせが幸せじゃないのなら、俺だってすごく悲しいし。 「……ねえ。だからこれからはずっと俺だけ好きでいて？ ずっと俺だけ見ていて。俺はちとせを幸せにするから。ちとせのためなら、なんだってできるから」 「……万世には」 顔を上げて、ちとせが首をかしげた。 「万世には、好きな人はいないの？」 「ちとせが一番好き」 「私が一番好きなのは、幾世兄なのに？」 「うん」 即答すると、ちとせがため息をついて空を仰いだ。 「人って、自分に無関心な相手を、どうして好きになれるのかな」 「ちとせは俺に無関心なんかじゃないでしょ？」 「万世のことじゃないの」 ゆるゆると首を振って、また空を見上げる。 「有明の つれなく見えし あかつきに 涙川にて 身さへ流るる」 「……は？」 「そう言われたの。誰なのかもわからない人に」 一瞬何語だろうかと思って、そのあとで古文なんだと気がついて。だけど意味はわからなくて戸惑っていたら、ちとせが公園の出口の方へと歩き出した。 「万世は、奇跡って信じる？」 「奇跡？」 「そう。一パーセントの奇跡、信じられる？」 「どういうこと？」 「私が、幾世兄じゃない人のことを幾世兄を好きになったのと同じくらいに好きになれる奇跡が、起こるかどうかってこと」 ――それってつまり、どういうこと？ 好きな人が、できたっていうこと？ たとえばこの前の、ラブレターの差出人？ 「私はね、そんな奇跡は起こらないと思ってる」 そのちとせの答えを聞いて、ものすごくほっとしたような、ちょっとがっかりしたような。 「その起こらない奇跡を夢見て言い送ってくる人って、なんだか、私みたい」 え？ 「空に逝ってしまった幾世兄を想いつづけてる、私みたい。期待してた、私みたい」 期待、してた？ 何を？――とは、訊けなかった。 俺は、一パーセントの奇跡を信じているかもしれない。というよりも信じていたい。 いつか、ちとせが俺だけを好きになってくれるという、奇跡。ちとせの一番になれる奇跡。 空はいつのまにか藍色に暮れて、星が少し光っていた。 |
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