| Nachtmusik オフェーリア |
雨が降る雨が降る。 ぽたぽたぽたり しずくが落ちる。 涙が落ちる。 ダンボールに捨てられた子犬が 雨にぬれて泣いているみたい。 藤色の花ふぶきを前にして、涙を流すあなたはだあれ？ 漢文の授業は眠くなる。ぜったいあれは催眠術だ。 数学も眠い。シグマだとかルートだとかサインコサインとか宇宙語だ。だからアンドロメダ星雲あたりから催眠波が出てるんだ、きっと。 中学から大学まで、授業で一度も居眠りしたことがないっていうお姉ちゃんは奇跡だと思う。奇跡じゃなかったら、居眠りしてることに自分で気づいてないだけだ、うん。 だけど授業が終われば、あたしはすぐにはっきり目がさめる。四時間目のチャイムが鳴って、お昼の時間となればなおさらだ。 美術部のミーティングでも入らないかぎり、お弁当はいつも水穂ちゃんといっしょに食べる。あたしのクラスで食べたり、水穂ちゃんのところにおじゃましたり、日によっていろいろだ。 お弁当の包みと水筒代わりのペットボトルをかばんからひっぱりだしていると、後ろの席の子達の会話が聞くとはなしに聞こえてきた。 「うちの弟さ、長並西中なんだけどね。クラス写真できたっていうから、からかってやろうと思って写真見たの」 ――長並西中？ 別に親しいわけでもないクラスメイトの、なんでもない世間話。あたしなんかには関係なくてどうでもいい話のはずなのに、なんだかその学校名がひっかかる。あたしは会話の続きに耳を澄ました。 「なんで？ クラス写真なんて面白くないでしょ？」 「弟ったら花粉症で、フラッシュ光るたんびにくしゃみしたくてたまんなかったっていってたのよ。なんか想像できるでしょ？ 可っ笑しい顔してるんじゃないかって。でね、実際すっごく微妙な顔で写ってるのよ！ 頑張って耐えてるってわかるの。その顔見たらからかうのもかわいそうになっちゃって」 「うわあ、なんだかわかる気がする」 「クラス写真はさあ、花粉の季節終わってから撮ってあげるべきだよね、絶対」 「でも花粉ってさ、スギとかヒノキだけじゃなくて年中何だかんだ飛んでるって聞いたことあるよ」 「弟が反応するのは春の花粉だけなのよ。あー、あんな表情で写ったんじゃあ哀れだわ。特にね、となりに写ってる男の子がめちゃくちゃかわいい子だったから余計にかわいそうなのよ」 「え？ めちゃくちゃかわいいの？」 声がはずむ。この手の会話はいつもなら右から左へ聞き流すあたしだけど、何かが気になってすっきりしなかったから、注意して聞き続けていた。 「そうそう。女の子みたいにかわいい顔で、おまけに髪長いんだから！ 一瞬本当に女子かと思ったんだけど、学ラン着てるでしょ。だから男の子なのよ。弟の中学は校則ものすごくゆるいんだけど、もし厳しい学校だったって、あれだけ長髪似合ってたら許してあげなくちゃ反対に罪だよ。それぐらいかわいいの」 長並西中学校。 髪の長い男の子。 どっちも、意外と最近見聞きしたような気がするキーワードだ。思い出せなくてもやもやしてしばらく悩んでいると、いくら待ってもやってこないあたしを不思議に思ったのか、水穂ちゃんのほうから訪ねてきてくれた。 「鈴ちゃん、どうしたの？ はやく食べよう？」 水穂ちゃんがかわいいチェック柄のバンダナで包んだお弁当を示してみせる。 「あ、うん」 「考えごと？ 何か用事でもあった？」 「ううん、用事じゃなくてね……あー……思い出せない」 「何を？」 長並西中学校、そして、髪の長いかわいい男の子。たしかにそのふたつをセットで見たり聞いたりしたはずなのに、頭の中の引き出しのどこにその記憶を入れたのかがわからない。 まずあたしは男の子に興味ないし、もちろん芸能人にきゃあきゃあいったりもしない。だから、仲のいい友だちや先生みたいな自分の日常に関係ある人を除けば、あまり人間の顔を覚えられない。流行の歌手とか、テレビに映ってても全部おんなじ顔に見える。美人だなとか、美形だなって思っても、「きれい」「鑑賞にたえうる顔」っていう印象は残るけど、どんな顔の造形をしているかって記憶はほとんどかすんでしまう。「最重要事項」ではない引き出しにポンと放り込まれた記憶は、探し出すだけで一苦労だ。 隣の椅子があいていたから勝手に拝借して。それを水穂ちゃんにすすめて、やっとお弁当の包みをほどく。 「ねえ、水穂ちゃん」 「ん？」 お弁当に入ってるから揚げをつつきながら、水穂ちゃんに訊いてみた。 「長並西中って、なんだっけ？ 結構最近に聞いた名前のような気がするんだけど、どこで聞いたのかぜんぜん思い出せなくって」 水穂ちゃんはああとうなずくと、 「学生展だね」 ――早っ！ 即答してくれた。あたしがうんうんうなって記憶の引き出しをひっかきまわしてた時間はなんだったんだろう……。 「学生展で見たあの、ほら、鈴ちゃんが一番気に入ってた絵。藤棚の絵。あれを描いた子が、たしか長並西中の子だったよ。名前プレートに書いてあったじゃない」 思い出した。茶色い髪の毛の、あたしよりずっと白くてきれいなお肌をした美少年が、友達のお姉さんを描いたとかって言っていたっけ。ぼんやりとしか思い出せなかった美少年の顔が、だんだんまともな輪郭を持ってくる。 ――そうだ。それでその絵を描いた子の友達が、「髪の長い男の子」だったんだ。 名前は……なんだっけ？ 覚えてないけれど、とにかく男の子なのに髪を伸ばしてても不自然じゃなかった、世にもめずらしい天然記念物みたいな子。だけど、個人的好みで言わせてもらえば男の子の場合、髪は短いほうがいいと思うんだけど。 「また、学生展見に行こうかなぁ」 ぼそっとつぶやいたら、水穂ちゃんが笑った。 「鈴ちゃん、どうせ搬出のときに行くじゃないの」 「でも、あたしたちが搬出に行くときにはもう藤棚の絵が片付けられちゃってるかもしれないでしょ？」 「本当に、あの絵が気に入ったんだね」 ビスクドールのように整った美人さんの水穂ちゃんが、花がさいたみたいにふわりと微笑んだ。うーん……気に入ったというよりも、気になってしかたがない、と言った方が正しいかもしれないのだけど。 ――あの絵のタイトルは、「藤壺」。 優しくて、きれいで。でもどこか、少し悲しい絵。そして、描かれたお姉さんのことをほんとうに好きだという目で見つめていた、髪の長い男の子。 ――気になるんだなあ、あたし。 「今日、行ってみようかなあ。また、あの絵を見に」 放課後、水穂ちゃんは部活があった。 美術部がない日はたいてい水穂ちゃんの部活にお邪魔するところだけど、今日だけはめずらしく廊下のところでバイバイをして。あたしはひとり、いつもとは違う駅で降りて、芸術ホールに向かって歩いていた。 ――あれ？ 気のせいかと思って、空を見上げる。目薬みたいに冷たいものが飛び込んできて、あわててまばたきした。 ――雨？ 降ってきたんだ。空はいつの間にか灰色で重たくなっているけれど、でも、かばんの底から折り畳み傘をひっぱり出すほどの雨じゃない。 あたしはちょっとだけ小走りになって、芸術ホールの屋根の下に入った。ハンカチでかばんと髪についた湿気をはらう。そうしているうちに雨粒は少しずつ大きくなって、しとしとぱらぱらと屋根を打つ雨音がきこえるくらいになった。 ――危機いっぱつ。 二重の自動ドアをくぐって、お手洗いに寄って。いざ、催事場へ。 白い大理石みたいな床と臙脂色のじゅうたんを踏みしめて、「藤壺」を探す。平日で人が少ないホールでは、方向音痴のあたしでもちょっとうろうろしただけで、目的の絵を見つけることができた。 目に飛び込んでくる、薄紫の花ふぶき。優しい色彩。 思いきり独りじめしてながめようと思ったら、そこには先客がいた。先客は例の絵の前にぽつりと立ちすくんで。長い髪が頬にはりついて。 その頬で、何かがきらりと光った。 ――雨？ 涙？ 前髪からぽたり。まつげからぽたり。 ……泣いているみたいだった。 |
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