第二章、　復讐の印

十五年前のこと。 「うそでしょう！」 　幼いライナスは叫んだ。まだほんの六歳だったが、ものごとが正しいか間違っているか程度はわかるつもりでいた。実際、ライナスは賢い子どもだった。 「だって、父上がそんなことなさるはずないもの。なさるはずがないんだもの。そのお話は、うそじゃなければきっと何かのまちがいです！」 「ええ、わたくしもだんな様はそんなことをなさる方ではないと信じております。けれども、お城の人たちはだんな様を犯人と決めつけているのです。だんな様はご自身の潔白を証明なさるためにお城にお行きなさったのに、裁判もなく牢に入れられてしまって……」 　ライナスは乳母の胸に飛びこんだ。乳母がやさしく背をさすると思わず泣きそうになったが、ぼくは父上の息子なんだからと自分自身に言い聞かせて涙をこらえた。 「ねえ、兄上は？」 「巡察先の領地から急いで駆けつけてくださるそうですよ。けれど、本当に、どうしてこんなことに……。だんな様が、ずっと皇王様に誠実におつかえしていたのは誰の目にもあきらかでしょうに」 　今、首都イリューシオンは大きな混乱の渦に陥っていた。現第七十六代皇王が、建国祭の宴のさなかに暗殺されたのだ。 　水晶ガラスの杯を掲げ持ち、祝詞を朗々と詠いあげてワインを口にした途端、皇王は血を吐いて倒れた。毒殺だった。すべての料理、飲み物は毒見役によって調べられているはずであるのに。黒い血を吐き続けながら痙攣を起こす夫のもとへ駆け寄ろうとする皇王妃を、一人の近衛兵が押しとどめた。皇王妃は彼の無礼を責めたが、次の瞬間、白鳥のように優美なその身体は近衛兵が放った一閃を受けて鮮血を噴きつつ崩れ落ちていった。場はさらに騒然となり、貴婦人たちの絹を裂く悲鳴、色を失った男たちのあわてた足音が交錯した。皇王妃の胴がぱっくりと裂けたのを一瞥し、兵士は近衛隊の槍を投げ捨てて人の群れの向こうへと逃げてゆく。誉れ高い近衛兵といつわり大罪を犯した罪人を逃がしてなるものかと、本物の近衛隊が死力をつくして追いかけ捜索したが、その日のうちには捕まらなかった。 　皇王と妃殺しの大罪人が捕らえられたのは、それから数日後だった。しかも、新たな罪をいくつも背負って。 　幾重もの厳重な警備をくぐりぬけてアルソレイム宮殿に侵入した犯人は、年端もいかない三人の王子たちを次々と手にかけた。王太子は弟たちを守ろうとして勇敢にも戦ったらしく、全身に切り傷を受けて血を失った末に聖母のかいなに導かれ、楽園へと旅立った。二番目の王子は喉をかき切られ、即死だった。生まれて間もない第三王子アイランリットは女官に抱かれて逃げ出したと聞いたが、その女官がじきに地下水路で変わりはてた姿となって発見されたため、小さな王子はおそらく流されてしまいなきがらは見つかるまいという結論にいたった。結局、犯人の男は第三王子を地下水路まで追いつめて水路から脱出しようとしたところを王弟バイスンの武兵に待ち伏せされ、御用となった。即座に拷問台送りとなり、ぼろきれのようになるまで王族殺しの動機を問いつめられたという。 　この男が、「シェルパーダ公爵の依頼で皇王と王子たちを手にかけた」「シェルパーダ公は皇王位に就くために王籍に戻りたがっていた」と告げたのが今朝のこと。その報せを聞いた公爵は正装に着替え、バイスンの召喚に応じて宮殿に参上した。しかし公爵の言い分は一切聞き入れられず、王族出身の父から爵位を継いだ高貴な身の上でありながら、牢獄に入れられるという屈辱を味わうこととなったのである。 「ぼく、お城へ行きたい。お城へ行って、父上は皇王様にひどいことなんかしていないって証明してくる。だって、父上が正しいのはぼくが一番知っているもの」 　乳母は無言のまま純粋なライナスを抱きよせた。乳母にはわかっていたのだ。誰が法廷に出向いて公爵の潔白を声のかぎりに説こうとも、どうにもならないことを。公爵は、よからぬ企みを持つ者によって、その者が手を染めた恐ろしい罪をすべて着せられようとしているということを。 「馬丁頭に言って馬車を用意させて。ぼくがお城へ行く。父上を助けたい」 　油断すればうるんだ金茶の瞳からしずくがこぼれそうになるのを懸命にこらえて、ライナスは乳母の腕にすがった。乳母は彼のやわらかでまっすぐな麦藁色の髪を指で梳きながら考えていた。ひょっとしたら、この父思いの愛らしい小公子の命も危なくなるかもしれない――と。 　彼女は賢かった。たいした家名を持たない中流の出身であるが、シェルパーダ家に奉公する以前は女官見習いとしてアルソレイムに出仕していたこともある。そんな若い娘時代、彼女は作法に厳しい宮殿の仕事を覚えていくと同時に、華やかな宮廷の裏には暗く汚いものが常に渦巻いているということを嫌でも知っていった。貴族の中にはいくつもの派閥があり、その派閥同士がみにくい争いを水面下で繰り広げている。王族の血を引く公子公女と縁組をし、少しでも良い爵位と封土にあずかろうとする者がいつでも目を光らせている。自分の利益のためにたやすく他人を落とし入れる。誰の間者がどこにひそんでいるとも知れない。そのようなみにくい宮廷の中では、いつ命を狙われてもおかしくない。たとえば、シェルパーダ公が無実の罪のために処刑されることになれば、息子たちからの復讐を恐れて、実の罪人はライナスやその兄までを亡き者にしようとするかもしれない。彼女は想像して身ぶるいした。あってはならないことだ。 「奥様、ライナス様！」 　そこへ、息をきらせた急使が駆けこんできた。彼は帽子をとる礼儀も忘れ、愕然と目を見開き、唇をふるわせている。悪い報せをたずさえてきているのはその様子から明白だった。 「どうしたのです」 　シェルパーダ夫人がただならぬ空気に気づき、こもっていた自室から居間へと下りてきた。夫人の琥珀を思わせる瞳は、報せの内容を急使から受け取る以前からとうに見通していたが、揺れずに凛と高貴に澄んでいた。ライナスは金のユリのように背筋をのばした美しい母と、汗だくになりながら真っ青にふるえている急使とを見比べた。言い表せない恐怖が腹の底から胸へ喉へと這い上がってくる気分で、呼吸ができないほどに苦しかった。 「どのようなお話なのです？」 　急使に、夫人はあくまで静かにたずねた。たずねるというよりも、確認の意味あいが強かったのだが。急使は生唾をのみこんで、白くなった唇を懸命に動かした。やはり、最悪の報せだった。 「だんな様の、あのすばらしいだんな様の、斬首刑が決まりました……」 　ライナスは、一瞬世界が凍りついたのだと思った。世界から色がなくなったのだと思った。 　時間も空間もすべてが灰色に凍りついて動かなくなり、感覚も感情も吹き飛んで自身が空っぽになる瞬間。世界はこうして、静寂だけに支配されて凍りつくのだ。しかしその静寂の氷は、彼の乳母の声によって砕かれた。砕けたかけらが心臓に刺さる心地だった。 「なんてことです！　刑を決めるにも裁判はなかったのですか。だんな様が一言でも弁明なさる場はもうけられなかったのですか」 　彼女はライナスを胸に抱きしめた。ライナスの言葉は喉につかえたかのようにつまって、出ることはなかった。 「皇王の弟君は何を考えていらっしゃるのだか。だんな様を斬首刑などに処したら、どんなほどの損失か知れないのに。それでも裁判さえしないで斬首だなんて、よっぽどの事情を抱きこんでいらっしゃるんでしょうよ！」 　夫人は乳母とは対照的に、ただ静かに、神聖な女神の彫像かと見まごうほど微動だにせずにたたずんでいた。やはり、その金茶色の瞳は澄んでいた。けれどもそれは悲しみと静謐な怒りによって澄んでいるのだった。 「一番小さな旅行かばんに、アーモンドパンとひとそろいの着替えだけを入れなさい」 　その日の夕食時、夫人はライナスに言った。 「着物はできるだけ粗末なものを。ディシー、準備を手伝ってあげてちょうだい」 　乳母は夫人の考えをくみとってうなずいた。世の不条理さをうらみ、その表情は微妙にゆがんでいる。夫人はまだ食事の途中であるライナスに近づき、軽くかがんで視線を合わせると、息子の小さい手をそっと包みこんだ。ライナスはスプーンを置いて真剣な面持ちの母と向きあった。 「母上？」 「夜のうちに逃げるのです」 「どうして」 　いくら賢くともまだ六つのライナスには、自分の身に降りかかるかもしれない危険までは予測できないのだ。夫人は情況がのみこめていないライナスが切なくてならなかった。 「よくお聞きなさい、ライナス。母上のお父様の家がエレイズにあります。おじい様たちのお屋敷に何度か行ったことがあるでしょう？　そこまで馬車に乗って逃げなさい。馬車はもうすぐ、母上が頼んだ時間にやって来てくれる手はずになっています」 「母上は一緒に来ないの？」 「母上はまだ行けません。父上のことがあるでしょう」 　夫人はきっぱりと言った。彼女の上品な細身は飾りひとつない黒の喪服をまとっていても、それはそれは美しかった。ライナスはこの母の美質をそっくりそのまま受け継いでいた。しかし凛として屈しないまっすぐな母似の精神は、自分が生まれる前にすべて兄に持って行かれてしまったと、ライナスは幼心に感じていた。自分はむしろ母よりも父に似た性格だろう。 「帰ってきてくれる兄上ともお話しなければなりません。すべてがすんだら、母上もエレイズに向かいます。それまでの辛抱だから、良い子でなさい」 　母に背を押されうながされて、ライナスは乳母と子ども部屋に向かった。部屋に着くと昨年に一度だけ使ったことのある旅行かばんをクローゼットから取り出し、洋服ダンスを開く。若草色のブレザーや金ボタンのついたワインレッドのスーツもプレスが行き届いてしまわれていたのだが、彼は細い灰色の格子柄が入ったチャコールグレーの上着とズボンを選んだ。郵便配達手伝いの少年の制服に似たフリルのないブラウスを乳母が差し出した。一度も着たことがないものだ。ライナスははじめから皺ひとつないそれをさらに整えて、かばんの底に入れた。 「ディシー、兄上はいつごろ到着するの？」 「若様なら、明日のお昼にはご到着なさるかと。もうそろそろ道中から使者がよこされるんじゃないでしょうか。……ほら、どなたかいらっしゃったようですよ」 　ちょうど、窓の外から門衛の声が聞こえた。誰かと声高に話している。母が依頼した馬車がむかえに来るにはまだ時間がある。ということは、やはり兄の使者だろうか。 　けれどもやってきたのは別の使者であって、兄がよこすような折り目正しい使者ではなかった。宮殿の使者だ。しかし、アルソレイムの城兵であることを示す鎧をまとっているにもかかわらず、彼らは乱暴で遠慮を知らなかった。門衛は殴り倒され、彼らは槍を振りかざして館に踏みこんだ。仰天した執事がなにごとかと問うても問答無用に突き飛ばされただけであった。 「お逃げください！　今すぐに！」 　言いながら小間使いがライナスの部屋に駆けこんできたのは、門衛の話し声が聞こえてまもなくだった。小間使いのうしろにはシェルパーダ夫人が青ざめつつも、しっかりと気を張って立っている。 「母上？」 「時間がないのです」 「何があったの？　下が騒がしくなったけれど」 「ライナス、ついていらっしゃい」 　夫人は答えずにライナスの手を引いた。乳母は涙ぐみ、祈るように手を握り合わせて言った。 「奥様とライナス様はお早くお逃げになってください。わたくしどもが礼儀知らずの城兵に話をしてきます。そのうちに」 「ありがとう。ディシー、頼みますよ」 　乳母と小間使いは下階へと下りていき、ライナスは母に手を引かれてさらに階段を上った。最上階まで一息に上がり、廊下の一番奥まで小走りに進む。ライナスには母がどこへ向かおうとしているのか何となくわかった。父の部屋だ。 「父上の部屋には、逃げ道が隠されているのですよ」 　母は告げた。 「父上の大きい黒檀の机があるでしょう？　あの机の下の床には目立たないように扉が作ってあるのです。はしごが床から地面にまでつながっていて、はしごを下りて通路をそのままたどって行けば誰にも見つからずにお館を出ることができますよ」 　父の立派な大扉を開けて部屋に入ると、夫人はかんぬきをかけた。これまでは使う必要がまったくなかったので、このかんぬきが使われるのはこれがはじめてであった。 「かばんに用意した服に着替えなさい。いそいで」 　ライナスを暖炉の前に立たせて着替えさせ、夫人は灰をすくって息子の髪になすりつけた。ライナスのまぶしい麦藁色の髪はみるみる白っぽくなり光を失って、何日も髪を洗っていないように見えるようになった。ライナスはどうして母がこうも必死に髪を汚しているのか理解できなかった。しかし、そのようにあせるだけの理由がこの館に乗りこんできたのだろうということは肌で感じとっていた。空気が騒いでいる。息苦しい。 　母に手伝ってもらいすべての上着のボタンを留め終えたとき、にわかに廊下で激しい物音がした。次いで、乳母の割れるような叫びが響いた。 「お逃げください！」 　お逃げください、お逃げください！　彼女の叫びは何度も繰り返されたが、やがて鈍い音がしてぴたりとやんだ。槍の柄で頭を殴られたのかもしれない。 　夫人は唇を噛み、一瞬考えるように天井を見遣ったあと、白魚にもたとえられる美しく細い指を何のつもりなのか暖炉の炎に突き入れた。思わず発しそうになる悲鳴を、ライナスはすんでのところでのみこんだ。 「熱くて痛いでしょうけれど、良い子だから我慢してちょうだいね」 　熱くて痛いのは母上のほうでしょうと言いかけて、扉が激しくたたかれる音を聞いたライナスの身体は硬直した。シェルパーダ夫人は扉のほうを見向きもせずに、せっかく留めたブラウスと上着のボタンを手早くはずし、ライナスに左の肩を出させた。 「我慢してちょうだいね……」 　彼女はもう一度言い、こげかけたその指を息子の肩に近づけた。ライナスは、母の手にはまっている家紋の指輪のメダルが見たことのない恐ろしいもののように思えた。その指輪が白い肩に押しつけられ、歯を食いしばっているあいだに、剣と槍が交差した印章が黒く焼きついた。シェルパーダ家の印章。剣と槍の交差はフォルール真の墓標十字を斜めに傾けたようにも見える。メダルのふちもきれぎれにまるく痕をつけたので、家紋が円に囲まれているようで、公爵が封蝋に押す印そっくりである。こらえた息子を笑顔でほめると夫人はみずから隠し通路の入り口を開け、ライナスをはしごにつかまらせた。扉は相変わらず乱暴にたたき続けられていた。 「この通路をたどって外に出て、どこかに隠れて馬車を待ちなさい。御者にはエレイズに行くようにすでに言ってあります。だからただ乗っているだけで良いのですよ。馬車から降ろしてもらったら、おじい様のお屋敷の門衛に肩の印章を見せなさい。メダルや手紙を持たせてあげられたならあんな痛い思いをさせずにすんだのでしょうけど、もしも落としてしまったりしたら、おまえの命が危なくなるから……。良いですか、おじい様のお家に行ってこの印章を見せなさい。絶対に、良いようにしてもらえますよ」 「あぶないのでしょう？　母上もディシーも、今から一緒に逃げようよ」 　夫人はかぶりを振り、ライナスのポケットにアーモンドパンをねじこんだ。 「おまえは先に行きなさい」 「どうして？　一緒に――」 「……あのね、ライナス」 　突然、扉を鋭い矛先が貫いたのをライナスの大きな瞳がとらえた。途端にすくんだ彼の身体を夫人は力の限りに抱きしめた。 「ライナス。おまえの父上は、何の罪もないのに殺されようとしているのです。母上はそれがどうしても許せないの。王弟という地位だけで、元老院や皇王国会議にすらなかなか顔を出さなかった人間に、あの方を裁く権利なんてないのに。だから、わたくしは、最後までここで戦いたいの。父上が斬頭台に上るのをただ見ているだけでは嫌なのです。わたくしは父上のことがあるから、すべてがすんだあとでおじい様のところに向かいます。おまえは先に行っていらっしゃい」 「だったら、母上と一緒にぼくも戦う！」 　ライナスははしごから這い上がろうとしたが、母におしとどめられた。髪をくしゃりとなでられ、頬にキスをされた。 「おまえは、いきなさい」 　母のまなざしを受けて喉も目も熱くなり、ライナスは言葉が出なかった。 「いきなさい」 　机の下――ライナスにとっては頭上の床板が、母の手によって閉められた。ライナスは開けてみようと腕を伸ばしてみたものの鍵をかけられたのか入り口はびくとも動かない。母の遠ざかる靴音が聞こえた。かんぬきを開けに行ったのだろう。扉をあんなにむちゃくちゃに叩くような人間が、まともに話を聞いてくれるはずなんてないのに。兵士たちに殺されて死んでしまうかもしれないのに。 　母が言った「いきなさい」は、行けということなのか生きろということなのか。どちらの意味だったのだろう？　ライナスにとっては肩の焼き痕よりも、胸の疼きのほうが比べ物にならぬほど痛かった。

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