アーレインはいぶかしげに眼前の青年を見つめた。アイルもリンコレッタも、間違いなく南塔の住人のことをヒュルストーと呼んでいた。けれども、当の本人はまったく別の名を口にしたのだから、無理もないというものだ。
『あんたがヒュルストーなのね？』
『ライナスだ』
　部屋の中に招き入れられてソファに腰かけたアーレインは、ライナスがポットを沸かしているあいだ、周囲をひととおり見わたした。東の塔に比べて部屋はひとまわり小さい。彼が自分で湯を沸かしているので専属の小間使いなどは雇っていないのだろう。貴族の城館に住みながら、一人で生活しているのだ。コーヒーをたてるための水をたたえた甕（かめ）と焜炉（こんろ）、そして浴室、厠所（プリヴィー）など生活に必要な最低限の設備は整っている。壁には小ぶりな窓、無地の茶色のカーテン、簡素な板タイルの床。床の上に放置されている遊戯盤は見るからに安価で古ぼけた品で、黒っぽい材木とサルスベリの板に簡単な彫り物をしただけの絵札が並べられている。アイルの部屋にあった銀製ものとは大違いだ。家具は保存状態の良いアンティークでそれなりに見ばえがするが、余計なものは一切なく、書き物をするときのための机と書棚、食事用の背の低いテーブル、そしてベッドと椅子類だけ。赤ビロードの安楽椅子の脚部分にはツタと花の模様が彫り出されているものの、アーレインが目を覚ました客室にすえられていた数々の豪勢な調度品と比べてしまえば、たいそう質素に思われた。
「アーレンといったか？」
　つい先ほど名乗ったばかりなのに、早速ライナスはアーレインの名前を間違えた。
「アーレイン」
　彼女はゆっくりと発音してみせながら、自分の名前はそんなにも覚えにくいのだろうかと首をひねった。親しいマレイユでさえいまだ正しく言えないのだ。アーレインにしてみれば、この館の令嬢リンコレッタよりも自分は数倍言いやすい名前のように思われるのだが。
「では、アーレイン」
　言いなおして、彼は淹れたてのコーヒーを彼女にすすめた。差し出された銀のカップの中、なめらかな黒曜石のような黒褐色の水面には、不満げなアーレインの表情がくっきりと映し出されている。アーレインは睨め上げるようにライナスを見据えて、カップを手にとり口をつけた。えもいわれぬかんばしさが身体中に広がった。疑いようもなく、最高級の札がつく代物だ。
「おまえは先ほど、自分はまじない師だと言ったな？」
「言ったわ」
　彼女はうなずいた。
「私がまじない師だと、何か不都合でも？」
「いいや。その逆だな」
　むしろ、都合がいい。
　予想と正反対の彼の言葉にあっけにとられて、アーレインはぽかんと口をあけた。手にしていたカップを不覚にも取り落としてしまい、派手にコーヒーが膝にかかる。我に返ってすぐに水分を蒸発させる術をつむいだので床の板タイルや毛足の長いラグを傷めるにはいたらなかったが、それでもやはり、スカートにはたっぷりとコーヒー色の染みができていた。
「だが、それは優秀なまじない師であれば、だ。おまえの魔術がこそ泥のまねごとや染みをこしらえる程度のものだとすれば、話にもならない」
「馬鹿にしないで」
　ドレスに褐色の染みが広がったのを面白そうに眺め、ライナスが挑発するように笑ったのでアーレインは真っ赤になっていきまいた。はじめて見た彼の笑みが皮肉をともなっているとはいえ、実はとても魅力的だと頭のすみでみとめながら。
「魔術師や導師には力およばないけれど、私にだってまじない師としての自負があるわ」
　彼女が立ち上がった途端に、スカートのベージュ色の生地が枯れ野に春の花が次々と咲くかのように薄桃色に染まった。まっすぐな黒い髪も見る間に金色の巻き毛へと変わりゆく。気の強そうな緑褐色の双眸は湖面を思わせる丸い碧眼に、日ごろ野山を歩きまわるせいで日に焼けていた肌はなめらかな真珠色に変化した。
　ライナスは言葉も忘れて目を見張った。彼の目の前でいきりたっているのは、どこからどう見てもまじない師の少女ではなく、彼の年近い姪であったのだ。
「リンコレッタ？」
　ライナスは姪の名前をつぶやいた。金髪の少女は勝ちほこったようにほお笑んだ。スカートからコーヒーの染みが消えるどころかそれ自体が上質の薄紅のドレスに変わった今、今度は彼女が笑う番だった。
「どう？　そっくりでしょう。ここのお嬢さんは、もうちょっと目つきが悪かったような気がしないでもないけれど」
　リンコレッタの姿をまとったアーレインは両手を腰に当てて胸を反り、安楽椅子に座ったままのライナスを見下ろした。
「鍵を開けるだけがまじないではないし、これぐらいの術だったら朝飯前なの。ご所望とあらばあんたの格好をまねることだってできるわ」
「……遠慮しておこう」
　間をおいてからようやく言葉を返して、ライナスはクッションに座りなおした。
「鏡の中以外で自分と同じ姿がうろついているというのは、なんとも気色が悪い」
　アーレインもソファに腰を下ろした。リンコレッタと同じ金の巻き毛が彼女の肩で踊る。燭台の光をまぶしくとりこもうとするその金髪に目を細め、
「しかし――本当にこのようなことができるとはな」
　ライナスは独り言のようにつぶやき、実際のリンコレッタにふれるときのように手を伸ばした。彼にとってリンコレッタは、彼女が赤ん坊の頃から見てきたためか、姪というよりも実の妹に近い存在だ。彼女がまだ両腕で抱けるほどに小さかったときには離れがたくてかかえたまま南の塔まで連れて戻ってしまい、リンコレッタの今は亡き乳母にこっぴどく説教された記憶がある。その説教の嵐の中、幼いリンコレッタは、すやすやと安らいだ寝息を立てていたものだ。
　彼にとって数少ないおだやかな記憶を思い出しつつ腕を伸ばすと、短く息をのむ音が聞こえた。指先が金の頭に触れてすぐに金色が空気に溶け出すように消えてゆく。絵の具が流れ落ちるように全身から術が解けた。花の芳香が匂いそうな春の野原さながらのドレスはコーヒーの染みついたベージュ地のものに、碧の瞳はオリーブ色にもどった。ライナスは再び驚きのあまりに動きを止めて、現れた黒髪の少女を眺めた。彼女は憤慨をこめて目の光を閃かせていた。
「貴族男性というのは、たやすく女性の髪に触れるものなの？」
「減るものではないだろう。それに」
　ばつの悪さを感じながら、彼は手を引っこめた。
「それに、おまえはリンコレッタに化けていただろう。だからだ」
　我ながら品格を欠いた出来の悪い言い訳だ。けれども、「あまりにリンコレッタにそっくりだったので思わず手を伸ばしてしまった」と素直に彼女の魔術を賛美できるほど、彼はできた人間ではなかった。
「そんなことよりも」
　ライナスはいかめしくせきばらいをしてみせた。アーレインは彼がそのふるまいを「そんなこと」の一言で片づけてしまうのは腹立たしかったが、彼女もコーヒーをこぼした前科があったので、ここはおあいこにしておくことにした。
「おまえは、姿を変えるほかに消すこともできるんだろう？」
　とりつくろったせきばらいに続いて何を言い出すかと思えば、まじない師にとっては何でもない常識をたずねられたので、アーレインは拍子ぬけしてしまった。
「当たり前でしょう。姿を変えて見せることができるのと同じで、姿を見えないようにすることだってもちろんできるわ。でも、どちらも本体を変化させたり消したりしているわけではないの。あくまで見せかけだけ。だから、さっきみたいにふれようとすると見せかけの幻を破ってしまうこともある」
　魔術には大きくわけてふたつの系統がある。まじない師が用いる「見せかけ」と「知識」を基本にした術、そしてもうひとつは、魔術師や導師たちが有している「本質」と「知恵」に関する偉大な力である。アーレインは、宮廷に仕える魔術師や教会をすべる大導師にはまだ遠く力およばない。独学のみでやってきたまじない師がほどこせるのは「知識」による術と「見せかけ」がほとんどであって、彼女の場合も例外ではない。
「化けているわけではないのか？」
「やっぱりそのものが別の何かに変質しているわけではないわ。変わっているように見えたり感じたりするだけ。さっきだって、私がリンコレッタになったわけではなくて、リンコレッタに見えるようになっただけだもの」
　それだけじゃご不満？　アーレインが威嚇するように目に険をふくんで腕を組むと、ライナスはかぶりを振った。そして薄く埃を積もらせている遊戯盤ごとクッションの上にのせて、おもむろに黒の絵札を手にとり、
「充分だ。〝魔術師〟の札が増えて都合が良くなることに変わりはない」
　軽く放り投げてアーレインによこした。アーレインが宙をつかんで手のひらを広げてみると、そこには少し不格好な黒の魔術師が刻まれていた。さほど厚さのない材木をのみで大まかに彫っただけのはずのそれは存外重たく、鉛でも埋めこまれているのではないかと半ば本気で疑い、裏返してみた。するとたしかに、絵札の裏の底辺には不思議な文様が刻まれた金属が貼りつけられていた。しばらく黒材の魔術師を眺めていたが彼女はライナスの真意をはかりかねて、やがて彼の金茶の目と手の中の絵札を見比べた。
「私がまじない師だと都合がいいって、どういうこと？」
「昨晩、見ただろう」
　濃いキャラメル色のブレザーの上からライナスは左肩を指し示した。左肩に焼きつけられた、十字を斜めにしたような印章。毒蛇の噛み傷の介抱をする途中で目にしたその刻印をアーレインは思い出した。
「それが何なの？」
　問うとライナスは苦々しく笑った。
「シェルパーダ家の紋章を知らないのか」
――十五年前から地図よりその名を消したシェルパーダ守護領。斜め十字に見えたのは、剣と槍を交差させた図案で、都の守護者たる公爵家だけに許された紋章……？――
　ずいぶん前に読んだ国史書の記述を思い出して、アーレインは目を見張った。どうしてはじめて左肩の刻印を目にしたときに、気づかなかったのだろう？　十五年前、政変を起こそうとしたシェルパーダ公が捕らえられて斬首刑に処せられ、不運が重なって夫人も子どもも使用人もすべて命を落として公爵家が絶え、守護領が抹消されたのは有名な話であるのに。同様に、皇王を守るべき剣と槍の家紋がその意をひるがえして皇王を亡き者にしようとしたために、むくいを受けたのだとも伝えられているのに。
「ライナスは、シェルパーダの家の人間なの？」
　一瞬にしてからからになった口を動かしてたずねると、彼はうなずいた。
「でも、シェルパーダ公の一族はみんな死んでしまったはずなのでしょう？」
「死んでしまったはずなのに、こうして俺が生きていることが問題なんだ」
　低くうめくように言いながら、ライナスはサルスベリでできた赤い魔女の絵札を手の中でもてあそんだ。身体は安楽椅子の背もたれに深々とあずけ、手だけを動かし続けている。
「それに、つけ加えて言うならば」
　思い出したようにごくさりげなくつぶやき、彼は空いている片手で盤上から赤の皇王をめくり上げた。冠の飾りがでこぼこに彫られているその駒をテーブルに置き、もう一方の手にあった赤の魔女も並べて置いた。
「シェルパーダ公は罰せられたわけでも、皇王を亡き者にしようとしたために天のむくいを受けたわけでもない。――殺されたんだ。皇王バイスンにな」
　テーブルの皇王をぱちんと指先ではじくと、硬質な音を立ててサルスベリの絵札は滑り落ちた。傍らに横たわったままの赤い魔女は足元に寝そべったその皇王を横目で見下ろしているかのように見える。そのまなざしが突き放した冷ややかなものであるのか、あわれんでいるのか、判断はつけがたいけれども。
　ライナスはテーブル下に突っ伏した皇王を見つめたまま続けた。
「まじない師なら、〝薬草園の魔女〟が皇王に与えるという弟子の洗礼の話を知っているのだろう？」
　アーレインも、墓守の魔女が国守となるべき皇王と師弟関係を築く話は知っていた。五年前に弟のハティが連れ去られたこともあるので、薬草園の魔女についてアーレインは特に力を入れて調べていた。『墳墓の上には墓石があって　墓石の中にはお庭があって　秘密の庭には薬草繁り、墓守の魔女が住んでいる』――しかし、どれだけ古い書物の記述を追いかけても、ヘーデンに伝わるこの歌以上にくわしくはわからない。薬草園の正確な場所を知るのはじきじきに洗礼を受けた〝薬草園の魔女の弟子〟だけだと思い知らされるばかりだった。
「王弟は薬草園の魔女から弟子の洗礼を受けたかった。だが洗礼を受けるためには皇王にならなくてはならない。皇王になるには実兄の皇王を殺す必要がある」
　ライナスはテーブルを激しくたたいた。絵札が跳ねた。
「そしてバイスンは実際に手を下した。俺は……自分の肩書きを汚さずに皇王になるそれだけのために、犯した皇王殺しの罪を父になすりつけて殺した彼奴を、絶対に許さない」
「じゃあ、シェルパーダ公の罪はかぶせられただけの嘘っぱちで、本当は先王の王弟だったバイスンがくわだてた政変だったということ……？」
　ライナスの口調に物騒な響きを感じ取り、アーレインはおのずと声をひそめた。もっとも、声をひそめる必要がないほどに、彼女は緊張して喉がかすれてしまっていたのだが。
「十五年も待って、ようやく機会がやってきた。一ヶ月後に、王太子ルバートの妃を選ぶ舞踏会が首都で催される。日夜能無したちが金に物を言わせて騒ぐだけの宴とは違う、ほうぼうから貴族が根こそぎ集まるような大きな宴だ。入りこむのはたやすい。そこで俺は、バイスンとこの十五年間の決着をつけるつもりだ」
　ライナスの境遇は彼女にとってはあまりにも遠く、世界が違いすぎていた。どんなに書物で学んでいても、人から歴史の一大事件として聞かされて知っていても、それはアーレインにとってあくまで自分とは関係のないできごとであって、身近に感じられるものではなかった。けれども、こうして目の前で金茶の瞳に深く暗い色をたたえてサルスベリの駒を眺めている青年の肩の印章を、彼女はたしかに見ているのだった。ヘビの毒気に冒されていたのを介抱したにもかかわらず、その印章を見たというだけで命すら持ち出して脅迫してきたその張りつめた空気を、肌で痛いほどに感じたのだった。壁を何枚もへだてた知らない世界の問題であるはずなのに、アーレインはその当人と対峙し、そのただなかにとりこまれつつあることを感じとった。まるでアリ地獄に吸いこまれてゆくように。
「――でも、皇王と決着をつけるだなんて、一体どうするの」
「決まってるだろう」
　ゆっくりと、彼は顔を上げた。
「復讐以外に、何をすることがある？」
　アーレインは、頭の後ろを鉛の槌で殴られたようなしびれを噛みしめた。
　復讐。
　闇色の、重く苦い言葉だ。
「復讐を考えていた俺にとって、おまえに肩の刻印を見られたのは下手をすれば致命的になる厄介な問題だった。シェルパーダの家紋を持つ男の話がおまえの口から出て、万が一首都に伝わってしまえばすべてがおしまいになる。だからはじめは、連れかえって目を覚ましたら、役立たずなら舌を切って台所女中にして飼い殺すか、死ぬまで地下房に鎖でつないでおくかしようと思っていたんだ」
「私を？」
　ほかに誰がいる？　無言で肯定の視線を返され、アーレインはさらにしびれのひどくなった頭を抱えてつぶやいた。
「……冗談じゃないわ」
「だから、それは役立たずだったら、と言っているだろう」
　ライナスの組み直した足がテーブルの天板にぶつかると、床に落ちていた皇王の絵札が音を立てて跳ねた。
「役立つならば、自分の札にとりこんだほうがはるかに遊戯盤の戦略が広がる」
　彼は立ち上がり、目を細めてアーレインを見た。
「都に行く際にはおまえを連れていく。舌を切られたくなかったら、そのまじないの腕を存分に発揮して見せることだな」
「でも私は」
　アーレインはテーブルに身を乗り出して、彼の視線に対抗するように睨め上げた。
「私は、ヘーデンを離れたくない。ヘーデンのどこかに、五年前にさらわれて行方不明のままの弟がいるはずなの。見つかるまでは離れたくない。私の魔術は、弟を助けるために覚えたものなのだから」
「さらわれた弟？」
　ライナスは鼻で笑った。
「五年も前に人さらいにあったのだったら、異国に売られているか死んでいるかしていて当然だろう。それでもあきらめられないのなら、俺の協力に精を出すといい。すべてが終わったら、骨がどこに埋められているかくらいは調べてやろう」
　アーレインは唇を強く引き結び、スカートの布を握りしめた。部屋の中にはまだ、香ばしいコーヒーの香りが、場違いなほど優雅にただよっている。
　その重苦しい空気を打ち破るように、突然、薄桃と金色の少女がいきおいよく飛びこんできた。ノックも何もあったものではなかった。アーレインとライナスが目を丸くしているうちに彼女は鼻をひくつかせ、小鳥のように首をかしげた。
「お茶をしていらしたの？　でもわたくしは、コーヒーよりもローズティーのほうが好みだわ」
　彼女の後方には、白っぽい髪と大きな鷲鼻が印象的な老紳士が困った顔をしてたたずんでいた。背の高い紳士の頑健そうな様子と、いたずらの過ぎる愛らしい仔猫をもてあましているようなその表情の差が奇妙だった。
「バートラム。敲き金はそこにあるだろう。ノックぐらいさせろ」
「申し訳ございません」
　老執事は神妙にうなだれた。当のリンコレッタはさっさと茶葉の缶を選んで、自分の分の湯を沸かそうとしているところだった。
「……リンコレッタ、今は勉強の時間ではなかったのか？」
「アイルをだしにして逃げてきたの」
　こともなげに彼女は言ってのけた。ライナスはあきれて言葉も出ないと言って姪のうしろ姿をながめた。けれども、そんな彼のまなざしは先ほどまでとは打って変わって温かい色を帯びていることに、アーレインは気づいていた。
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