ハティの予感は、やはり当たってしまっていた。彼は台所の入り口に立ちつくして、やがて大仰なため息をついた。 「これは……悲惨だね……」 祭日の朝だというのに。ハーティスが白い小麦粉の海に見つけ出したオレンジを帯びた金髪の少女は、指先をどろりとした緑色に染めて、至極不機嫌そうに両頬をふくらませていた。 ことは、朝一番から始まっていた。まず、毎日たっぷりと朝寝を楽しむはずのレオギンが今日ばかりは早起きをしたらしく、ハティが目覚めたときにはすでに彼女のベッドはもぬけの空だったのだ。ハティはいぶかしく思いながらも寝巻きを脱ぎ捨て、洗いざらしのチュニックに着替えた。色落ちしたズボンの腰紐を前で結び、くしゃくしゃのくせ毛をおおざっぱに整えると、顔を洗おうとして水場に向かった。彼らの家は、モルタルで塗り固めた白い壁に、いぶした茅葺き屋根がのっただけの小さなもので、寝室と仕事部屋のある母屋と、台所と水場の離れとに分かれている。顔を洗うためには一度外に出て離れまで行かなくてはならない。 十二祝いの祭日は、暦の上では春まっただなかである。空気もだいぶぬるんできたのだが、朝方はまだ少し涼しい。首をすくめて身ぶるいしてからハティは一歩を踏み出した。歩くうちにサンダルで踏んだ山ハッカ草は朝露と溶けあって、レモンに似たさわやかな匂いをふりまきながら春風にさらわれてゆく。途中で軒先にかわかしてあった綿織布を手に取り、タイムとローズマリーの低い繁みをかきわけて、彼はレオギンの姿が見当たらないものかと周囲を見まわした。しかし草や木々の陰のどこにも、獅子のたてがみに似た金の頭は見当たらなかった。 水場でハティは桶いっぱいにくみ上げた冷たく新鮮な水で顔を洗った。水浴びをした仔犬のように頭をふって水を飛ばし、やわらかな綿織布に顔をうずめる。首筋や手の水気も拭き終えると今は使われていない古い井戸のへりに腰を下ろして、大きく伸びをした。相変わらずレオギンは見当たらないが、ひょっとすると薬草園の奥地まで行っているのかもしれない。 幼い頃からこれまで五年間彼女とともに暮らし、薬草園のほとんどを自由に歩きまわることのできるハティでも、いまだ奥地まで入ったことはなかった。レオギンに秘密で奥地をのぞいてみようと試みたときも、いばらが柵のようにはりめぐらされていて、近づくことさえかなわなかった。ハティには、どうやら奥地には特別大切なものがあるらしく、たびたびレオギンが訪れるということしかわからない。 「奥地に行ったのだったら、まだしばらく帰ってこないかな」 そう考えて、彼女が留守のあいだに朝食の用意をしてしまおうとハティが井戸から立ちあがったのと同時に、何やら派手な金属音とガラスが割れる音が朝の澄んだ空気をふるわせた。彼がこれから向かおうとしていた台所のほうからだ。カラスのスルスミがつまみ食いをしようとして棚にでも突っこんだのだろうかと思っていると、はたしてそのスルスミ本人が力なく羽ばたいてやってきた。 「つまみ食いは禁止だって、僕もレオギンもさんざん言ってるのに」 けれども、肩にとまったスルスミは否定の意味をこめてガァと鳴いた。せわしく首を動かしてくちばしを鳴らす。ハティは嫌な予感がした。 「……もしかして、レオギンが？」 スルスミは「そのとおり」と言わんばかりに両方の翼を広げた。真黒い瞳をくるくると動かして、くちばしで台所を指し示した。 ハティはスルスミを肩にのせたまま台所のドアの前に立ち、ノブに手をかけた。何やらこげくさい臭いが鼻孔をつく。ますます最悪の事態の想像に拍車がかかる。ハティはノックをすると返事も待たずにドアを開けた。途端、白い粉がいきおいよく舞って彼の視界をけぶらせた。小麦粉である。咳きこみながら粉けむりを手ではらうと、そこには呆然と立ちつくすより仕方がないひどいありさまが広がっていた。 かまどの火は消えているものの鍋とその中身が床にひっくり返っており、べとべとの油があちこちを侵食している。焜炉の上には炭にしか見えない黒いもの（もともとは食べ物だったのかもしれない）が散乱し、ボウルや木べらがあらぬところであらぬものと一緒に転がり、麻袋から小麦粉がこぼれ出て一面は白い粉の海。肩から舞い降りたスルスミはこわごわ歩き出したが、数歩歩いてすぐに生卵の白身にすべってしまい、小麦粉にまみれて白カラスになりはてた。 ハティはドアのそばに立ったまま動くこともできずにいたが、やがて大仰なため息をついた。 「これは……悲惨だね……」 ハーティスは、白い海のまんなかに、指先をどろりと緑色に染めて至極不機嫌そうに両頬をふくらませた、オレンジの髪の少女を見つけ出した。 「怪我してるじゃないか。ガラスで切ったの？」 「切ったのではなく、気づいたら切れていたんだ。私のせいじゃない」 「そういう問題じゃないよ」 ハティは彼女を無理やり立たせて"つんと臭う緑色の血液"を洗い流し、ガラスのかけらが傷口に残っていないことを丹念にたしかめてから清潔な布巾を巻いた。 「僕はてっきり、奥地にでも行ったんじゃないかって思ってたのに」 「今日は十二祝いの日だろう」 レオギンは無事なほうの手で焜炉の上の炭を指差し、ひっくり返った油鍋をあごで示した。みるかげもなく黒と白のまだらになってしまった長衣をはたいて彼女は腰を上げ、唇をとがらせた。 「祝い菓子を作ろうとしたんだよ。そうしたら、勝手に鍋がかまどから落ちて油がこんなふうになってしまったんだ。揚げないと祝い菓子は食べられないから、かまどがだめなら焜炉でやろうと思って準備をしていると、知らないあいだに生地が炭みたいに燃えつきてしまっていたし。慌てて火を消そうとしたら天袋からボウルや木べらや瓶が降ってくるし、本当に散々だった」 勝手にかまどから鍋が落ちるはずはないし何もしないのに天袋から調理器具が降ってくるはずもないのだが、ハティは追求せずに濡らしたおしぼりをさしだした。レオギンは少しだけばつが悪そうにちらと彼の顔を見遣り、すぐに視線を戻しておしぼりを受けとった。このようなときのレオギンは"実際はハティの数倍も長く生きているはず"なのに、しぐさも表情も彼と同じ年頃の少女としか思えない。 「……私は、ハティの十二歳の春祭日を祝ってやりたかったんだ。別に台所を汚そうと思ったわけじゃない。だから、今日は私が全部自分で片づけるから……そんなあきれたみたいな顔で年長者を見るな。いたたまれなくなる」 彼女は顔についていた小麦粉をぬぐい落とすと、普段の覇気はどこへやら、肩を落としていそいそと片づけをはじめた。その姿が、本人には失礼ながらとてもおかしかったので、ハティは笑いをこらえながら、散らばった器具類を彼女の背中側で拾うことにした。顔を上げると、竹ぼうきとちりとりがレオギンに命じられて小麦粉を掃きにドアをくぐってやってくるところだった。 「レオギンは――僕がここに来る前も、誰かの十二祝いを祝ってあげたの？」 ハティは指先を怪我しないように気をつけて割れた陶器を拾い、口をつぐんだまま手を動かしているレオギンを振り返った。レオギンはなおもしばらく黙ったままであったが、炭になった祝い菓子をごみ箱に捨てるときになってようやく口を開いた。 「私は六十年くらい生きてきたが……祝い菓子を食べたことはあっても、十二祝いをしようと思って自分で祝い菓子を作ろうとしたのははじめてだ。はじめてでなかったら、もっと手際よく作れたさ」 重たげに言い、真っ黒な祝い菓子をごみ箱に放りこむ。その手もとを見つめながら、ハティはその黒いものが自分のためだけに作られたといううれしさと、炭になりはててしまって捨てられてしまう悲しさに胸が痛んだ。 レオギンはごにょごにょと続けた。 「弟子をとらなくなってから、この薬草園を訪れる者は誰もいなくなった。昔は弟子の洗礼を授けてやった皇王が獅子の車に乗ってやってきたものなんだが。でも、洗礼をやめたのは正解だったと思っている。薬草園の魔術をめぐっていさかいが起きるのはもうたくさんだから。昔から薬草園を手に入れようとする不届きなやからがたえなかった。でも――それでも」 一瞬言いよどんで、逡巡してから彼女はもう一度口を開いた。 「それでも、やっぱり一人はさびしくてな……。ただ一緒にいてくれる人間がほしくて、あの日ハティを呼んでしまった。だからハティは弟子ではなくて家族だ。家族を祝ってやりたいと思うのは当然だろう？」 ハティはたしかにレオギンの弟子ではなかった。それどころか、彼女が天地開闢神話に登場する墓守の役割を負った魔女であることすら半分以上忘れてしまっている。彼女は魔術をあやつるが、それはあまりにも身近な生活の一部であって、絵描きが絵を描いたり音楽家が楽器を奏でたり雑貨屋が店先で商品の並びかえをしたりするのと、何ら変わりがなかった。ハティは薬草園の魔女のそばにいたのではなくて、レオギンという人間とともに暮らしてきたのだ。 「まあ、今回は、祝い菓子はなくなってしまったが。だけれど祝い菓子がなくたって祝うことはできるからな。……おめでとう、ハーティス」 「ありがとう」 ハティは少し泣きたい気持ちでほお笑んだ。 「――そうだ。来年、一緒に祝い菓子を作ろう？ そして今度はレオギンの十二祝いをしようよ。今年じゃなかったら、レオギンは来年くらいに十二歳でしょう？」 「ああ……そうだな」 ハティから目をそらし、床の油をふきながらうなずいた。レオギンも泣きたい気持ちだった。"一年時がたつごとに年がひとつ若くなる身体で生を受けてしまった"彼女にしてみれば、十二歳の少女の身体になるということは、あと十二年しか生きられないという宣告に等しい。反対に、まだ十二年間しか生きていないハティは、そこまで考えがおよばずに、純粋にレオギンを祝いたいと思っているのだった。 |
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