辺境伯に呼び出されたのはたいそう久しぶりだった。ライナスは、バートラムにともなわれて北の塔にある伯爵の私室を訪れていた。ヘーデンにやってきたばかりの頃は女中頭と一緒に南の塔と伯爵の部屋とをたびたび行き来したものだが、成長するにつれて疎遠になっていった。それはおしゃべりな使用人たちの口に「都からやってきた少年」の話がのぼらないようにするためであり、ライナスと辺境伯の両方の命を守るためでもあった。その甲斐あって、数年もすると、ライナスの存在を知る者は伯爵に近しいごく一握りだけとなった。彼の遊び相手といえば弟妹のようなリンコレッタとアイルしかおらず、あとは、ヘーデン領館の執事でありながら剣のたしなみのあるバートラムが武術の稽古をつけるために部屋を訪れるのみだった。
　そのうえ辺境伯は数年前から体調を崩し、病がちになっていた。以降は私室からできるだけ人を遠ざけ、夫人とともに、ときには一人でひっそりと部屋で時間を過ごすことが多かった。リンコレッタが庭園で花を摘んで見舞いに行くこともあるが、やつれていくさまを孫娘には見せたくないらしくやんわりと断るので、彼女も頻繁には通えなかった。
　それゆえに、ライナスが辺境伯の部屋に足を踏み入れるのは、ひょっとしたら一年ぶり以上になるのかもしれなかった。
「ヒュルストー」
　しわがれた声が、彼のもうひとつの名を呼んだ。
「よくきてくれた。……いや。私の私室では、ライナス、と呼んでもかまわないだろうな」
　ヘーデン辺境伯は夏も近いというのにゆったりとしたガウンを着て、紫のビロードが張られた安楽椅子にもたれていた。その姿はライナスのもっとも新しい記憶のものよりもはるかに痩せて、高い鼻と白いひげ・白い眉毛ばかりが目立ち、木の皮色の頬はこけている。枝のような手は鹿の角飾りがついたＴ字杖をにぎっているのだが、その先は頼りなく小刻みにふるえていた。
　ライナスはその様子を見つめてたまらない気持ちになった。幼かったライナスがヒュルストーと名乗って城館の門をくぐった時。ヒュルストーという名の少年の肩に愛娘シャルロッテの嫁ぎ先の家紋を見つけ、彼が婿の弟だと知れた際に、ライナスを抱きしめてくれた辺境伯の力強い腕の名残はどこにも見当たらなくなっていた。伯爵がリンコレッタを遠ざけるようになった気持ちが、少しだけわかるような気がした。
「お具合はいかがですか」
　ライナスは問いかけたが、うまく声が出なかった。辺境伯が力なく笑った。
「見てのとおりだ。悪くはないが、あまりよろしくない」
「医者には見せたのですか？」
「リンデルからわざわざ呼び寄せるほどのことでもあるまい」
「まじない師であれば、今俺が一人抱えています。お貸しいたしましょうか？」
「まじない師、か」
　辺境伯は遠くを見るようにして目を細めた。
「また面白いものを。わざわざ危険を冒して拾いに行ったのか？」
「いいえ。あちらから関わってきたんです。クロナガヘビに噛まれて毒気にやられていた俺を介抱したのが、彼女でした」
「ほう……そのまじない師は女か」
「少女です、十七の。怖いもの知らずでなかなか良い腕前をしています」
「ふむ。会うのも一興かもしれないが、まじないや彼女の薬を頼みにすることはなさそうだ。――ライナス。私は、妻と一緒に、療養のためにここを離れることに決めたのだよ」
　今日呼んだのはこれを告げるためだったのだと、辺境伯は言った。
「ヘーデンは良いところだが、冬は厳しく春もやや遅足だ。穏やかなフォンティーナ南部に小さな城を先代が遺してくれていたのでな、そこで残された時間をゆっくり過ごそうと思うのだ。この屋敷の管理はバートラムにまかせるとして、名義はリンコレッタに譲るかたちにしたい。私は気候の良いところで暮らせるし、リンコレッタやおまえたちが生活に困ることもない。だから、おまえは私の身体を気遣うよりも自分を大切にしなさい。おまえはどこか、自分の命をどうでもいいように考えるところがあるからな」
「今はまだ死にませんよ」
　皇王に借りをかえすまでは。つぶやくようにそう言ったライナスの言葉を、伯爵は聞き逃さなかった。薄くなった唇を苦々しくゆがめて、しなやかに育った青年の肩を見つめた。誇り高き守護領の、シェルパーダ公爵の印章が焼きつけられた左肩を。
「……やはり、イリューシオンへ行くのか」
「ええ。俺の人生の八割は、そのために生きてきたようなものですから」
　そこが問題なのだと、辺境伯は言ってやりたくて仕方がなかった。けれども言ったところで聞く耳を持たないこともわかりきっていた。
　十五年前の「シェルパーダ公の政変」。当時王弟であったバイスンにより皇王殺害の濡れ衣を着せられ、斬首刑に処せられたシェルパーダ守護領公爵。慕っていた父を殺され家族も家も一度に失ったライナスは、遠い道のりを経てヘーデンにやってきたときすでに、幼心に暗い憎しみの炎をくすぶらせていた。静謐な南の塔の中で暮らしながらも、その熾き火が消えることはなかったのだ。
「それに、王太子の妃を選ぶための宴です。全国からありとあらゆる貴族が訪れるために門戸は広く開かれ、警備もおおざっぱになりがちだ。これほどの機会はめったにありません」
　ライナスは振り向いて扉のそばに控えていたバートラムに「アーレインに南塔に来るよう言ってきてくれ」と命じ、再び視線を辺境伯に戻した。辺境伯は不味い薬をのみこんだ表情でその視線を受け止めた。老執事が遠ざかってゆく足音が静かに響いた。
　辺境伯は苦い息を吐き出した。
「リンコレッタを、イリューシオンにつれていくのか」
　一瞬、ライナスは黙った。
「あの子を、危ない目にはあわせんでくれ」
「……承知しております」
　唇を噛んで彼はうつむいた。
「リンコレッタは俺にとっても妹のようなものです。危険な目になど、あわせるつもりは毛頭ありません。むしろ彼女が、よき出会いをして幸せになってくれればと思っています」
「よき出会いとは……首都でか？」
　都貴族と一緒になって、幸せになれるとは限るまい――。伯爵はライナスの兄と結婚した愛娘のことを噛みしめるように言った。
「けれど、出席するのは都貴族だけではないでしょう」
　ライナスは目を閉じた。
「たとえばフォンティーナ侯のご子息なら、あなたも安心できるのでは？　男爵位を授かってフォンティーナ領内にいらっしゃるそうですから」
「あの子はおまえを慕っている。そして、アイルを好いている」
　うつむいたままのライナスを、辺境伯はガウンの襟元を直しつつ見た。
「リンコレッタは、今までどおりに暮らすのが一番良い。それもわかってやってくれ」
「ええ……」
　まぶたを開け、返事とともに天井を仰いだ。リンコレッタの青い瞳が思い浮かんだのと同時に、なぜか、強い光をたたえたまじない師の目見が思い出された。そういえば、さらわれて行方不明になった弟を探していると言っていたな……。魔術の力は、弟のために身につけたものなのだとも。
「……大丈夫です。まじない師の力がありますから」
「まじない師もつれていくのか」
「リンコレッタに害がおよばぬようにと考えた結果、まじない師の力を使うことがもっとも有効だという答えに至ったのです。それに、遊戯盤の〝魔術師〟は〝皇王〟の札に勝つためにもってこいですから」
　彼は答えた。
「"外に出られない魔女"よりも、魔術師のほうが使い甲斐があります」
「……命は、大切にすることだ」
　悲しげに辺境伯はうなった。
「この城に置いていただいた恩は忘れません」
　ライナスは貴族の作法にならった礼をとったあと、深々と頭を下げた。
「あなたも、お身体を大切に」
　沈黙が降りる。けれども、きびすを返し、部屋を出ようとドアの部に手をかけたところで、その沈黙は短くして破られた。
「秘密の庭の鍵は、今も持っているか？」
「塔の部屋にあります」
「庭のことは、アイランリットには？」
「アイルには何も言っていません。……アイルは、知らないほうがいいでしょう。知ればきっとつらい思いをします。俺と同じように」
　もう一度礼をし、ライナスは伯爵の部屋をあとにした。ドア越しに重たいため息が聞こえた。
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