日差しは日に日に強くなり、夏の足音がすぐそばにまでせまっている。この頃になってようやく両親に手紙を書いてもよいとの許しが出たので、アーレインはペンをとった。 領館に彼女がやってきてからというもの、ひと月以上が経過した。屋敷の敷地を一歩でも出ることは厳しく禁じられており、外出といえば手入れの行き届いた外庭をぶらつく程度で、アーレインは気をもんでばかりいた。父はまじない師の仕事に理解があり、母も肝のすわったたくましい人なので、アーレインが帰ってこないからといって涙にくれる日々を送ることにはなっていないだろうが、心配してくれているには違いない。何とかして連絡をとりたかったものの伝書バトの一羽すら貸してはもらえず、アーレインはディッセルベーンの両親に心の中でわびながらこれまでを過ごしてきた。 だが、今朝やっと許可が出たのだ。アイルとリンコレッタが一人の書簡使をつれてアーレインの部屋を訪ね、その旨をつたえた。 「ここで女中として働くことになった、って書けばいいよ。本当は客だけど、女中のほうが不自然じゃないから。ディッセルベーンや近隣のフィリー、シュトロムの村から女中や小間使いに志願して礼儀作法を習いに来る女の子は少なくないもの」 机に向かったアーレインに、アイルが横から入れ知恵をした。 「私が作法を習うために、女中志願すると思う？」 「たしかに、実際にはありえないだろうけど」 アイルは首をすくめた。 「わたくしもあなたみたいな女中だったらお断りだわ」 リンコレッタも「ああ嫌だ」と大げさに両手を振ってみせた。けれども実際のなりゆきを書くわけにはいかない。アーレインはしばし考えて、ペン先をインクに浸した。
ここまで書いてアーレインは頬杖をついた。鷲ペン――アーレインは安いガチョウの羽根ペンしか使ったことがなかったが――をくるくると回し、便箋を眺める。彼女の字は慣れると読みやすいのだが、一方でくせが強い。急な右肩上がりの筆記体なのだ。文章としてはまっすぐに並んでいるものの、文字ひとつひとつについては右上に引っ張られているような形をしている。彼女の字だと知らない人が見ると、飾り文字にも見えるかもしれない。
「上等でなくて？」 文面を読んだリンコレッタがすました声で言った。アーレインは苦笑した。この一ヶ月間、リンコレッタとアイルはひっきりなしにアーレインの部屋を訪れては彼女に魔術を見せてくれるようせがんだり、持ちこんだ遊戯盤と絵札でカードゲームをしたりしていた。それがばれては年かさの女中メリルが雷を落とさんばかりのいきおいで説教をはじめるので、メリルの説教と小言だけで耳にたこができるほどだ。ともに時間を過ごし一緒に説教を浴びるうち、はじめはいばらにまみれているように感じられてしかたなかったリンコレッタの性質も、実は照れ隠しだったのだと理解するにいたった。今となっては、つんと上を向いた物言いも気にならない。 彼女はサインを記して便箋を丸め、蜂蜜色の封蝋で留めた。 「じゃあ、これをディッセルベーンのメリッシ雑貨店までお願いします」 部屋の外で控えていた屋敷の書簡使に手紙をわたし、一礼して去る彼の背中を回廊の角まで見送ってからドアを閉めた。 アイルとリンコレッタはソファセットに戻っており、テーブルをはさんでカードゲームの続きに興じていた。遊戯盤の場に出されているのはルビーとオニキスで飾られた銀板の絵札で、赤を持っているのがリンコレッタ、黒がアイルである。戦況はリンコレッタがあきらかに劣勢であり、ぷりぷりと不満を並べている。また、リンコレッタは気づいていないようだが、赤の戦車のひとつは獅子頭の角が欠けたままだった。 「いらない札まで後生大事にとっておくから、なかなか役が完成しないんだよ。場の戦車を生かすには、早く役立たずの札を捨てて」 見かねてアイルが助言すると、リンコレッタの機嫌はますます悪くなった。 「わかってるわよ！ 今からそうしようと思ってたところなのに」 彼女は甲高く叫んで乱暴に札を捨てた。美しい星が刻まれた銀板が、鋭い悲鳴を上げて遊戯盤に白い傷を残した。 「いや、それじゃなくって。ほかにあるだろう？ もっと点の低い役の」 アイルが手を伸ばして修正しようとしたのを止めて、リンコレッタはやわらかく巻いたブロンドをかきむしった。 「ああもう！ 降参よ降参！ アイルは強すぎるのよ、面白くない」 「リンコレッタは短気すぎるんだよ。勝負がはやすぎるもの」 「アイルが慎重すぎるのよ！ じれったくて待ってられないわよ」 アイルの手はたしかに慎重だが、ゲーム初心者のアーレインの目から見ても、リンコレッタが勝負に出る頃合いは早すぎた。アーレインは遊戯盤やカード、ダイスなどはゲームをするというよりも店で占いの道具として用いることが多いが、ひととおりの遊び方がわかる程度にはたしなんでいる。 リンコレッタは納得がいかずまだやり足りないらしく、駒を箱に片づけているアイルを尻目に、アーレインの腕をつかんでせがんだ。 「ねえアーレイン、わたくしと勝負してちょうだい。部屋でゲームをやっても勝つのはいっつもアイルばかりでつまらないの。ボードゲームのルールがわかって？」 「もちろん知ってるわよ。でもカードをゲームに使ったことはあまりないから、弱いけれど」 「ゲーム以外に遊戯盤とカードで何をするというの」 不思議そうに目を丸くしたリンコレッタがあまりにも子どもっぽかったのでアーレインはふきだした。 「占いをするのよ。人を探したり落とし物を見つけたり……遊戯盤を地図に見たてて、ダウジングのまねごとができるわ。あとは簡単に運勢を見てみたり」 「じゃあ、わたくしがゲームに勝ったらわたくしの運命の相手を占ってちょうだい。国のどこに運命の人がいるか、探すことはできるのでしょう？」 「できるわ。おおざっぱだけど」 ハーティスの居場所を何度占ってもヘーデン領のどこか、としかわからなかったので、今回もその程度の精度でしか結果は出ないだろうが。 「だったら早く勝負しましょう」 少女たちは遊戯盤の両側のソファに向かいあって座り、アイルが審判をかって出た。持ち札の色はアーレインが黒、リンコレッタが赤。黒も赤もそれぞれ絵札は女神と皇王が各一枚、魔女と戦車、魔術師が二枚ずつ、星が二十枚の計二十八枚ある。もっとも強い札は女神で次が魔女、皇王、戦車、魔術師、星の順に弱くなる。順番が回ってくるたびに、新しくカードを一枚引き、持ち札から一枚を捨てる。持ち札が規定の枚数のときのみ場に札を置くことができ、その役が完成すれば勝利となる。女神の札を用いた役は高得点であり、魔女の絵札も同様に点の高い役を作るが、一度場に出してしまうとそれきり動かすことができないので、戦略を組み立てにくい。一方、魔術師は二番目に弱い札だが、二枚そろって場に出ていれば魔術をあつかえるということで、相手の完成した役が皇王のときに限り、皇王の札を強制的に捨てさせることができる。 「もう絶対に降参って言わないわ」 リンコレッタは腕まくりをして白い細腕をさらしながら宣言した。 「わたくしが良い策士だということを、アイルにわからせてやるんですもの」 ふたりは真剣な面持ちで赤と黒の遊戯盤を眺めていた。しかし絵札を三枚ばかり引いたところでアーレインは手を止め考えた。アーレインはゲームに関して初心者だが、リンコレッタは毎日のようにカードゲームで遊んでいるにもかかわらず、遠慮なく言えば下手だった。このままの調子で続けていれば間違いなくアーレインが勝つだろう。しかしリンコレッタは負ければ、またへそを曲げてしまうに違いない。 そこでアーレインは気づかれない程度にわざと手をぬいて、負けてやった。リンコレッタは嬉々として飛び上がったが、目配せしてきたアイルは苦笑していた。アーレインが手をぬいたことに気づいていたのかもしれない。 「あなたって、強がりで町娘のくせに態度が大きくて鼻持ちならないと思っていたけれど、意外といい人なのかもしれないわ」 踊り出さんばかりの足どりでリンコレッタが言った。 「だって、わたくしより弱いんですもの」 アーレインは笑っただけで、否定はしないでおいた。 そのとき、敲き金が扉を打つ音が響いた。 「どうぞ」 リンコレッタが急かすので遊戯盤とカードを占いのかたちに並べながらアーレインは応えた。すると「失礼します」の声とともに白っぽい髪と鷲鼻が印象的な老執事が入室し、丁寧に身体を折り曲げて礼をした。彼は額に刻まれた皺の深さからそれなりの年齢であろうと見てとれるのに、背筋は常にぴんと伸びており、声は耳に心地よい低さで澄んでいる。 バートラムは室内を見わたし、リンコレッタとアイルの上にそれぞれ視線をとめて目を細めた。 「坊っちゃんとお嬢様もいらしたのですか」 「別にかまわないでしょう？」 リンコレッタはアーレインに教えられるとおりに盤上に絵札を並べている。 「何の用なの？ バートラム」 「おそれながらわたくしは、お嬢様にではなく、アーレイン殿へ用をおおせつかってきたのでございます」 「私？」 アーレインが顔を上げるとバートラムがうなずいた。 「ヒュルストー様がお呼びでございます。南塔のお部屋までお越しくださいませ」 「今すぐ？」 「今すぐにございます」 頭を下げた姿勢でそう即答したバートラムに、リンコレッタがあからさまに嫌そうな顔をした。 「だめよ。アーレインにはこれからわたくしとの約束を果たす義務があるんですもの。ヒュルストー様の用事はあとでだっていいじゃない」 「しかし、こちらも急を要します」 「何の用件なんです？」 「首都への出立と、アルソレイムで催される宴についてのお話でございます」 リンコレッタは、ヒュルストーの――ライナスの幼い時分の壮絶な過去を知らない。皇王バイスンによって誇りにしていた父を失い、都を追われ、命からがらここまでたどり着いた過去を知らない。知らないのはアイルも同じはずであり、だから彼らは近く首都イリューシオンに向けて発つのを、単純に王太子ルバートの妃を選ぶという華やかな宴に単に参加するためだと思いこんでいる。都住まいの大貴族の令嬢が大勢着飾って居並ぶのだから辺境伯の孫娘など第一妃になれないことくらいわかりきっているけれども、年頃の若い娘であるリンコレッタは、贅をつくしたアルソレイム宮殿の宴に出られるというだけでうれしいらしい。アーレインに恋占いをしてもらうよりも確実に、宮殿パーティに参加すればそれなりの地位と教養と美貌を持った殿方に出会えるのだから。 「それなら、仕方がないわね……」 リンコレッタがいつになくあっさりとあきらめたのも、占いよりも宴が楽しみであるからに間違いない。 機嫌良いリンコレッタとなぜか仏頂面になったアイルを残し、アーレインはバートラムに続いて部屋を出た。 「いつも言ってるのに。僕は宮殿のパーティに出るだなんて反対だって」 「どうしてよ。とても素晴らしいことじゃなくって？」 「リンコレッタが万が一見初められたりしたらどうするんだよ」 「見初め……って、そのときはそのときよ！」 部屋を離れても、しばらく彼らの応酬は絶えなかった。 「ライナスは、リンコレッタたちに本当に何も言っていないんですか？」 「ヒュルストー様です」 即座にバートラムが訂正した。 「ヒュルストーは、リンコレッタたちには復讐のことを何も言っていないんですか？」 「お静かに願います。わたくしも、手荒な行動におよびたくはありませんから」 バートラムがこめかみをひくつかせながら忠告したので、アーレインはたくさんの質問を胸の中に押しとどめてぐっとこらえた。バートラムの体術は、彼女も身をもって知っている。みぞおちを殴られて倒れこんだときの、肉が内側にめりこむ感触が、いまだまざまざと思い出される。 彼はもともと都の中流階級出身で、若い頃は貴族相手に商売をする豪商の用心棒をしていたらしいとライナスから聞いたのだが、ライナスがやってきたときにはすでに執事だったようで、どういった経緯でヘーデン領館の執事に収まったのかまではわからない。ただ、生真面目な性格で執事業をぬかりなくこなし、同時にたいした手だれであるということ、ライナスや辺境伯をはじめ館の人々を愛しているということは誰もが認めていた。用心棒時代仕込みの体術は、その愛する人々を守る際にしか使われない。アーレインを力ずくで黙らせようと行動に出るならば、それはライナスたちを守るためであって、アーレインにも非があったことになるのだろう。 バートラムは黙々と歩いてアーレインをライナスの部屋へと導いた。バートラムが先導しないときもアーレインは勝手に開錠していくのだが、彼と一緒のときは正式な鍵によって扉が開けられるのを傍らで待った。 「アーレイン殿をお連れいたしました」 最後の鍵が開き、ノックが響き、もっとも奥の扉が開かれてライナスの部屋へと通された。そこには相変わらず、部屋の主が好んで飲むコーヒーの香ばしい匂いがただよっている。ライナスは赤の安楽椅子に腰かけてスエードの長靴を履いた長い足を組んでいた。彼はテーブルの上に紙のようなものを広げ、それを見つめて視線を上げないまま、 「ご苦労だった。戻っていいぞ」 バートラムは「はっ」と小さく応じて、南の塔をあとにした。 アーレインは紙を見つめたままのライナスに手招きされてテーブル際まで歩み寄り、差し出された銀のカップを受けとった。温かいコーヒーが香気をくゆらせて揺らめいている。テーブルに広げられていたものはどこかの建物内部の図面で、ライナスの手によってそこかしこに書きこみがなされている。そうとう広い建物であるらしく、図面もテーブルの幅ではあまるほどに大きかった。 「何なの？」 「アルソレイム宮殿の内部地図だ」 ライナスが答えた。 「バートラムに手に入れてもらった。皇王暗殺計画には必要だろう？」 それひとつで街ではないかと思うほどに巨大な宮殿は、ダンスホールにたどり着くだけでも骨が折れそうな常識はずれの造りをしていた。いったい、アプローチにはいくつの門があるのだろう？ 扉も幾重にもめぐらされていて、図面を眺めているだけでアーレインは軽いめまいを覚えた。 そんな彼女の様子を知ってかしらずか、ライナスは図面を指し示しながらてきぱきと説明した。 「中央のホールで宴は行われる。宴の中心は舞踏会だ。ダンスフロアの両脇のこの部屋に長テーブルがいくつも並べられていて、自由に飲み食いしていい。だが、皇王や王太子はフロアの一番奥の数段高くなった位置にいる。王族の食事は一般客とは別で、長テーブルではなく玉座の脇のボードに用意される。ボードにのる前に何回か毒見されているから、ここに給仕された料理は皇王が直接口にする。気づかれないようにその料理に毒を盛ることができれば、九割近く成功したと見ていいだろう。願わくばこの手で斬り伏せたいが……それでは近衛に邪魔されて何もできずに終わるのが落ちだ」 「本当に……やるの？」 額を押さえてライナスをうかがうと、厳しく鋭い彼の視線に射ぬかれた。ちょうど、出会ったばかりのときに、左肩の刻印を見たのかとたずねてきたときと同じ視線だ。 「俺は復讐するにふさわしいだけの苦しみと憎しみを知ったし、バイスンは復讐されるにふさわしいだけのことをした。そうだろう？ おまえはただ俺の言うように動けばいい」 しかしアーレインは引き下がらなかった。 「だけど、父親を殺されたからってライナスも同じことをしかえしたら、今度ライナスと同じように苦しむのは王太子だわ。彼は政変のときはまだあんたよりも小さい子供で、何の罪も咎もないでしょう？」 「殺されたのが、俺の父親だけではないとしたら？」 「……え？」 どういうことなのか、一瞬彼女にはわからなかった。 「父親だけじゃない。不運が重なったのではなく、事故でなく、母も兄も兄の夫人も家の使用人も……俺の近しいものすべてがバイスンによって殺されたのだとしたら？」 アーレインは目を見開いたまま、息をのんだ。 「そうだったの……？」 「調べたんだ。資料はずいぶん前から極秘裏にバートラムに集めてもらった。若い頃に足を突っこんでいた用心棒ギルドの情報網は伊達ではないらしい」 紐でつづった厚い文書を、彼は地図の上に置いた。 「六つのときまで俺が住んでいたイリューシオンの屋敷は、父の刑が執行される前に、気のふれた使用人が火をつけたとかで焼けて母も乳母も死んだことになっているが、それは城兵の証言でしかない。そのとき屋敷の住人は俺をのぞいてみんな死んでしまったのだから、城兵の証言は簡単に鵜呑みにされた。だが――実際はバイスンの命令で城の人間が火を放って家ごと焼いたんだ。濡れ衣があばかれることや復讐をおそれたんだろうな。兄夫妻が馬車の事故に見せかけて殺された記録も、苦労して探し出した。母と一緒に火事で俺も死んで一族は絶えたと報告されたらしいが……現実こうして生きている。これはもう、復讐しろというヒーリア女神の天命だろう？」 アーレインはふるえ出した肩を両手でおさえた。どうしてそこまでのことをして、バイスンは薬草園の魔女の弟子になりたかったのだろう？ 薬草園の場所を知りたかったから？ 薬草園の薬草と術で不老不死を得たかったから？ では、それはなぜ……？ 「……それでも、私は」 アーレインは両手でカップを覆い、涸れた声でつぶやいた。 「私は、ライナスに同情はできても、同調はできないわ」 ライナスは動かなかった。聞こえなかったのかもしれない。 脳裏に幼いハーティスの顔が思い浮かんだ。彼は今も、ニレの杖を持ち黒い長衣をまとった金髪の薬草園の魔女とともにいるのだろうか。 首都へ出立する日の明朝。 使用人たちが起き出すより先に、一同は門の前へと集っていた。事情を知らない従者はいっさいつけずに、同行するのはバートラムが信頼がおけると太鼓判を押した御者のみ。見送りは執事一人だけ。アイルは考えこむような面持ちをし、馬車に乗りこんだリンコレッタははしゃいでいた。これから十日ばかりの旅路となる。 辺境伯と夫人は最低限の荷物だけをまとめ、すでにフォンティーナへと発っていた。領館の管理は留守中すべてバートラムに任せることとなる。アーレインは彼とかたく握手をし、「いってきます」と挨拶した。彼女はその無骨な手が嫌いではなかった。節々の目立つ褐色を帯びた手は、もともと相手を傷めつけるものではなく、守るためのものだ。 「ヒュルストー様を、よろしくお頼み申します」 バートラムの言葉に、アーレインは自分の願いもこめてうなずいた。そこですばやくバートラムはかがみこんで、彼女の耳にささやいた。 「ライナス様は無茶をしやすいお方です。復讐さえできればご自分のお命はどうなっても良いと思っていらっしゃる部分があるのかもしれません。どうか、少しでも守ってさしあげてください」 「わかっています。だから、できるかぎりは」 アーレインは答えた。 次にバートラムはライナスと向き合い、深々と礼をした。 「いってらっしゃいませ。お帰りをお待ちしております」 「ああ」 ライナスの返事は淡白だった。とても長旅に出発するとは思えない、せいぜい近くに出かけに行く程度の調子である。 「行ってくる」 バートラムは口元をややゆがめて、眉間に皺を寄せた。そして再び深く頭を下げた。 「……お気をつけて。このお館は、貴い血の方々をあずかるためにあったようなものかもしれないと、ときどき実に思うのでございます」 「貴い血なんて、ありはしないさ」 ライナスは馬車に乗るようアーレインをうながして、独り言のようにつぶやいた。 「血自体に貴いか卑しいかなんてない。生温かい赤い液体にすぎないのだから。複雑な境遇の理由は血によってではなくて、ただ、そのときその場所に生まれて生きていたから――それだけだ。俺も、アイランリットも」 最後にライナスが乗りこんで、馬車はイリューシオンに向けて走り出した。 |
||
| ≪目次に戻る ≪indexに戻る ＜前へ 次へ＞ |