貴族街から平民街に入り、馬車道に沿って歩きながらアーレインは趣向のこらされた看板の並びを楽しんだ。大通り半ばの噴水広場まで至り横に折れると、もうそこはにぎわった市場である。夕食のしたくをするために買い物にきた主婦たちでさざめいていて、売り子の声もいっそう高くなっていた。
　細かい色石を連ねた首飾りや耳飾り、革細工のかばんに切子ガラスの花瓶、香水入れ。次々とテントの中をのぞきこみ、地面に直接敷かれたカーペットの上に陳列された商品を見ようと裾に気をつけてかがんだ。食品が売られている並びには旬の野菜が緑色を鮮やかにきらめかせている。ある出店の奥にはディッセルベーン産の三等小麦の麻袋が積まれていて、それを見たアーレインは無意識のうちに笑んでいた。一等小麦は今頃、貴族邸宅の厨房でパンに姿を変えているに違いない。
　あちらこちらをのぞいているうちに小腹が空いてきて、何かを買って食べ歩こうかと思ったのだが、手ぶらで出てきたことを思い出したのであきらめざるを得なかった。串に刺したソーセージの香ばしい香りが鼻をくすぐる。焼き立てのビスケットサンドやクルミのヌガーの屋台を見つけるたびに、胃が小さく鳴いた。
　たまらなくなって、宿に戻ってクラッカーでもつまもうかと考えはじめたそのとき。アーレインの耳に甲高い悲鳴が届いた。続いて聞こえてきたのは男の低い声と金属音。周囲をうかがうと、市の人々も少なからずざわついている。
「また出たのかい」
「例の薬師狩りだろう？」
「そんなにお妃様のご病気はお悪いのかねえ……」
　そのようなささやきあいがそこかしこで起こっている。やがてせまい路地の前には人だかりができ、身動きできないうちにアーレインもその中に取りこまれてしまった。
「いったい何が起こったの？」
　アーレインが近くにいた若い娘にたずねてみると、そばかすの浮いた明るい頬の娘はまくしたてるように話してくれた。
「あんた知らないの？　お妃様のご病気がね、ここのところますます悪くおなりになったみたいで。お城の兵士たちはほうぼうを走りまわって特効薬を探してるのよ。かたっぱしから薬師をつかまえて、手持ちの薬を全部差し出させるの。都中の魔術師や導師様がお妃様のために召集されたこともあったんだけど、全然成果があがらなかったらしいわ。だから今度は下手な矢も数射りゃ当たるって、手当たり次第にありとあらゆる薬を集めてためしているのよ。魔術師に無理だったことが、一介の薬師にできるはずなんかないのにね」
「お妃はどんなご病気なの？」
「あんたって、なんにも知らないのね。田舎から出てきたの？」
　そう言えばちょっと北方なまりがあるかしらと言う娘に、アーレインは苦笑した。
「今日、イリューシオンに着いたばかりなのよ」
「じゃあ、知らなくてもしょうがないわよね」
　娘は簡単に納得した。
「――あのね、お妃様は、目覚めなくなってしまうご病気なの」
「目覚めない？」
「もう長いこと、こんこんと眠り続けていらっしゃるらしいの。ご病気というよりも呪いじゃないかって、そんな説も出てきてるわ。だって、全然お治りにならないんだもの」
「呪いって、お妃はうらまれる覚えでもあるの？」
「シェルパーダ公よ」
　娘は秘密を話すとき特有の口調で声をひそめた。
「十五年前、斬首刑になった公爵様がいるんでしょう？　でも実はそれが冤罪で、皇王様はうらみをかって大事なお妃様が呪われたんじゃないかって。一部ではまことしやかに言われてるのよ」
「十五年前のうらみで今頃呪うだなんて、ずいぶん気が長いというか、息が長いというか」
　アーレインは言いながら、まさにそれをやってのけようとしている人物を身近に思い出し、背筋に冷たいものを感じた。アーレインはその人物のために、今イリューシオンに来ているのだ。
　娘と一緒に背伸びをして人だかりから頭を出し、声が聞こえてきた路地をのぞきこんだ。樽やらキャベツののぞいた木箱やらが積みあがっている壁際を半円に取り囲んでいる鎧姿の城兵がひとり、ふたり……四人。囲みの中心にいるのは女なのか子供なのか、アルソレイムの兵士たちよりかなり小柄であるらしく姿はまったくうかがえない。
「ああやって追いつめて、薬を全部奪いとるんだわ」
　娘が若い娘らしからぬふうに鼻息を荒げた。
「私のばあちゃんなんかね、薬師でもなんでもないのにつかまえられたのよ。夕市で苦粉とたまねぎと小麦粉をこねて団子にして売っていたところに兵士がきて、その薬をよこせって言ったんだって。その団子、薬っていうのは本当よ。だけど殺鼠剤だわ。そんなものをお妃様がめしあがったら自分たちの首が飛ぶっていうのに、どんな薬かも見極められないで、よくも城兵がつとまるわよね」
　突然。城兵の頭よりも高い位地に何か黒いものが飛び出した。一瞬ゴムまりがはずんだようにも見えたが、それには翼が生えていた。驚いた兵士があとずさったのでわずかに囲みがとけ、壁際に追いつめられていた人物の姿が現れた。
「だから言ってるじゃないか。僕は、まじない師でもなんでもないって」
　声変わり前の高い声で彼は叫んだ。囲まれていたのは、子どもだった。
「何も君がまじない師だとは思ってないよ。どこかに師匠がいるんだろう？」
「首都の大人っていうのは、こんなに礼儀知らずで聞き分けがないのが普通なの？」
「カラスや黒猫を飼っているのは魔術師のたぐいと相場が決まっているのだよ」
　腕組みをして年かさの兵士が言った。降りてきたカラスを腕に止まらせながら少年は、
「魔術師でなくたって、黒猫を飼っている人はいくらでもいるよ」
「だが、カラスはそうもいくまい」
「カラスと一緒にいてはいけないっていう法律、僕は聞いたことないんだけど」
「君の師匠か親御さんがまじない師なんだろう？　それともばあさまがまじない師なのかい？」
　ひとりの兵士がやさしげにたずねたが少年は強くかぶりを振るばかりである。ついにはしびれをきらしたひとりが剣の柄に手をかける始末で、短気な彼は年かさの兵士に止められた。カラスがぎゃあぎゃあとわめきたてる。ひげに白いものが混じった老練の城兵は、ゆっくりと言い聞かせるように少年に言った。
「坊や、本当のことを言ってくれ。坊やが教えてくれた魔術師やまじない師が、もしかしたらお妃様のご病気を治してくださるかもしれんのだ」
「僕にできないことを言われても困るよ」
　少年は鎧の壁を突破しようとして、腕に力をこめながら言った。
「はやくどいてよ。僕にだって都合があるんだ」
　刃が鞘をこする音が聞こえて、アーレインははっとした。止められていたはずの兵士の手の中で剣が銀に閃いているのだ。身なりのよくない小生意気な少年の言い様が、城勤めの、若く血気盛んな彼にはたえられなかったのだろう。だからといって武器を持たない子どもに切りかかれば、減俸処分ではすまされないはずだが。
　アーレインはいそいでまじないをつむいだ。途端、カラスのわめくような鳴き声が消え、代わりに大気をふるわせる巨大な咆哮が響いた。少年を取り囲んでいた兵士たちはもちろん肝をつぶしたが、同時に野次馬の人だかりも驚きと恐怖でクモの子を散らすようにばらばらになり、人々は逃げ出した。カラスが一瞬にして路地いっぱいに腹を押しつけて身をよじる竜に姿を変えたのだから、当然だ。剣を手にした城兵はすっかり腰をぬかしており、ほかの三人に半ば持ち上げられ半ば引きずられていった。逃げる人の波にまぎれて見えなくなる寸前に、切りかかろうとした城兵と目があった気がしたのは、気のせいだったろうか。
　竜が現れた市の一角は閑散として、アーレインと、路地の中に少年が残されるだけになっていた。そばかすの浮いた頬のおしゃべりな娘も、いつのまにか逃げてしまったようで、見つからなかった。
「おせっかいだったかしら」
　寝ぐせなのかくせ毛なのか髪がはねているその少年に、アーレインは声をかけた。助けたもののライナスには邪険にされた彼女だったが、少年は素直に礼をのべた。
「ううん、助かったよ。ありがとう」
　アーレインは、カラスが竜に変わっても、少年がまったくと言っていいほどに動揺していなかったことに驚いた。今となってはカラスに戻りおとなしく羽づくろいをはじめているものの、先ほどは漆黒のうろこに覆われた巨大な体躯に見え、恐ろしく咆えたように聞こえたはずなのに。
「……竜、怖くなかったみたいね」
「いろいろ見慣れてるから――」
　言いかけた少年の目が突如見開かれた。その瞳が映しているのは自分ではなくて自分の背後であるとさとったアーレインが振り返るのと、銀の刃が振り下ろされるのとは同時だった。しかし冷たい切っ先が、すくんで動けなかった彼女にふれることはなく、アルソレイムの簡易紋が入った剣ははじき飛ばされて、無人となった屋台の下に転がった。
「アーレイン」
　長身の青年が、彼女の名前を呼んだ。
「馬鹿者が。こんなところで何をしている」
　束ねられた麦藁色の髪が西日に輝いた。鋭く細められた金茶の双眸は、怒りの色をたたえていた。
「ライナス？」
　ヒュルストーと呼ばなければならないことも忘れて、彼女は向き直り彼を見た。
「どうしてこんなところにいるの」
「だからそれはこっちの台詞だ。俺が来なかったら斬り殺されていたぞ」
「助けてくれって頼んだ覚えはないわ」
　憮然とした口調で言い返すとライナスが苦々しく顔をゆがめたので、アーレインは表情をゆるめた。もともと本気で言ったのではなかったのだ。
「冗談よ。助けてくれてありがとう」
　ライナスの足元を見遣ると、引きずられていったはずの若い城兵が口まわりを血で汚して倒れていた。痙攣して不自然にふるえている。
「まだ死んではいない。顔を見られなかったから、殺す必要もないと思ってな」
　首を打ったときに舌でも噛んだのだろう――アーレインの不安げな様子を汲みとったのか、ライナスはそう言って剣を収めた。
「案外優しいこともするのね」
「舌を噛み切って悶え苦しむより、即座に殺していたほうが優しかったもしれないだろう」
「違うわよ。私に優しいってこと」
　言ったものの、正直彼女は、倒れた兵士に胸がつぶれる思いだった。かがんでふれようとしたのを、ライナスに止められた。
「よせ、もうすぐこいつの仲間が来るだろう。これ以上面倒にならないうちに戻るぞ」
　無理やり腕をつかまれて、歩き出そうとしたそのとき。
「姉さん？」
　小さくつぶやく声が聞こえた気がして、アーレインは路地のほうを振り向いた。しかしそこには、すでに少年とカラスの姿はなくなっていた。
≪目次に戻る　　　　　≪indexに戻る　　　　　　　　　　　　　　　＜前へ　　次へ＞