アーレインは平民街の市をライナスに引きずられるようにして出た。そのまま宿に帰るのかと思いきや、宿の斜め前に店を構えたカクテルラウンジへと連れて行かれた。平民街と貴族街の境界に建つその店では、資本家階級の紳士や地方からやってきた身なりの良い郷士、羽飾りの帽子を絶妙な角度でかぶった淑女などが、ワインや蜜酒を思い思いに楽しんでいる。周囲を見まわしても、リンコレッタの愛らしい金の巻き毛や彼女のおしゃべりにつきあわされているアイルの姿は見当たらない。
「リンコレッタは？　アイルは？」
「宿にいる。先に夕食をすませておくように言っておいた」
「私たちは戻らなくていいの？」
「あいつらに話を聞かれたくないから、わざわざここに来たんだ」
　ライナスがもっとも奥まったところにあるテーブル席に腰かけ、アーレインは彼のとなりに腰を下ろした。フロアの中央の舞台では深紅のドレープが美しい衣装を着た弾き手が、すばらしい装飾のハープを抱えるようにして奏でている。その演奏とアルコールに気分良く酔うほかの客たちとは対照的に、ライナスの蜜酒色の瞳は冴え冴えとさめていた。
「まさか城兵に顔を覚えられていないだろうな？」
　軽い飲み物を二人分たのみ、彼はアーレインにたずねた。
「万が一おまえが騒ぎを起こしたことが知れると、アルソレイムに入れないどころかもっと厄介な事態になりかねない」
「さっきライナスが倒した人。あの人だけは多分、私がまじない師だって気づいたと思う。だけど、あの分ではしばらく口を利くこともままならないでしょう？」
「しばらくどころか、一生かもしれないな」
　アーレインはその言葉を、鉛をのみこんだような気持ちで聞いた。誰も傷つけるつもりなどなかったのだ。ただ、驚かすことができればそれで良かった。あの竜は見せかけだけの幻影であって、人を傷つけるどころかふれることさえできないはずなのだから。誰も傷つけずにあの少年を助けられると思ったのに、結果として若い兵士に怪我を負わせてしまった。腹の底が重く沈みこんでいるような気分だ。
「どうしてあんなことをした？」
　ライナスの問いにアーレインは片眉をひそめた。
「あんなことって？」
「あの混乱の原因はおまえなんだろう？」
「……アルソレイムの城兵にね、男の子が囲まれていたのよ」
　うつむき目を閉じると、まぶたの裏に少年の姿が映る。
「兵士にたてつくような態度をとっていたから、その子はもう少しで斬りかかられるところだったの。黙って見ていることなんてできないでしょう」
　賢しい目をした少年だった。不意に、その少年と、幼い頃に姿を消した弟の面影とが重なる。「姉さん？」――彼が言ったように聞こえたこの呼びかけは、空耳だったのだろうか。
「おまえは厄介ごとに首を突っこみたがる癖があるようだな」
　口元をゆがめてライナスが言った。顔を上げたアーレインは彼をにらんで、
「その癖がなかったら、あんたは今頃クロナガヘビの毒にやられて死んでいるわよ」
「そのクロナガヘビの毒だが」
　ライナスは言いながら、ふところからガラスの小瓶を取り出した。店内のシャンデリアの黄色を帯びた光のせいで琥珀色にも見えるものの、どうやら無色透明の液体が入っているらしい。香水だろうかとも思ったが、栓を開けて匂いをかいでみても何の香りもしなかった。
「あつかいに気をつけるんだな。それがクロナガヘビの毒だ」
　仰天したアーレインは瓶を取り落とすところだった。しかしかろうじて無事に栓を閉め終えた。何度見ても角度を変えても、そのような恐ろしいものが入っているようには思えない。香水瓶にしか見えない小粋な瓶である。しかしその中に、色も香りもないけれども、毒気の液体が八分目ほど入っているという。
「どうしてこんなものを持ってるのよ？」
「あの日、捕まえて毒をとろうとして、ヘビに噛まれたんだ」
　毒に苦しんだことを思い出したらしく、ライナスは苦々しく言った。
「クロナガヘビは頬骨の位置を両側からおさえると毒を吐き出す。充分な量を採取できたんだが、手をはなした途端に食いつかれた」
「あたりまえよ。こんなもの採取して何するつもりだったの」
　復讐に使うに決まっているだろう――ライナスは警戒して声を出さなかったが、彼の唇の動きだけでアーレインはさとった。リンコレッタやアイルに聞かれたくない話の意味が、ようやくわかった。彼女は思いきり眉をひそめて毒の入った小瓶を見つめた。
「……本気でやるつもりなの？」
「俺がやらなくて、誰がやるというんだ」
「そういう問題じゃないわ」
　アーレインはうんざりとした気分で、
「本気で毒を盛るの？　卑怯じゃないの」
「俺の父も母も兄も、みんな卑怯なやり方で殺されたんだ」
「相手が卑怯だったからって、自分も卑怯なことをしていいはずがないわ」
「おまえは弟をさらった人間とまみえたとしたら、相手を憎いとは思わないのか？　見つけ出したら殺してやろうと思ったことはないのか？」
「相手が憎いよりも、私は自分のせいで弟がさらわれたことが許せないのよ」
　だから、きっと見つけ出したとしても殺したいとは思わない。
「私とライ――ヒュルストーでは、全然違うわ」
「全然違うのなら、おまえにとやかく言える筋合いはないだろう」
　ちょうど運ばれてきたライム水をアーレインに差し出して、ライナスは言った。
「ただ黙って、俺の言うように動けばいい」
「でも私は」
「おまえは、何だ？」
「私は、復讐することでヒュルストーが幸せになれるとは、思えない」
「そんなことは問題ではないだろう」
　自分の幸せすら「そんなこと」――？　
　アーレインはそれ以上、言い返すことができなかった。それほどに彼の瞳は冷たく冴えて、鋼鉄のようにまっすぐで揺るぎなかった。
　甘いハープの音色がやわらかに、酒の香気ただよう店内に流れた。その音色は場違いにアーレインの耳に響いたが、すぐに場違いなのは自分たちのほうなのだと思い知った。カクテルラウンジを訪れている男女はたいてい楽しげに談笑しているか、愛をささやきあっているか、静かに見つめあっているかのいずれかである。このようにぎすぎすとさびた刃物を研いでいるような空気をまとっているのは、自分たちのテーブルだけだった。
「アーレインは姿を変えて見せることも、消えたように見せることもできるのだったな」
　ぽつりと、ライナスは言った。
　アーレインはライム水に口をつけることができずに、次の言葉を待った。
「この毒を料理に入れるとき、俺の姿を消すことだってわけないな？」
　グラスを両手で持ち、彼女は無言のままうなずいた。
「……信用しているぞ」
　アーレインは目を伏せ、小さくため息をついた。信頼ではなく、信用でしかないことが、それがライナスと自分との距離なのだと思うと、少しだけ胸が痛んだ。

　バイスン暗殺計画の相談は深夜までおよんだ。宮殿の内部構造の確認、皇王と王太子の位置、料理が王族用のボードに運ばれる経路など。話しあうことはたくさんあった。しかしそのどれにも、アーレインは乗り気ではなかった。この分では信頼されるほうが無理な話なのだと、彼女はそっと嘆息した。
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