ライナスとリンコレッタ、アイルが馬車でアルソレイム宮殿に出かけていったのをテラスから確認して、アーレインは行李の一番下に入れていた衣装を取り出した。それは女性用の礼服ではなくて、膝下まである長い上衣と焦げ茶色のズボンだった。アーレインが着慣れた服と同じ形のもので、生地だけは初夏の首都の気候に合わせて薄手の綿織物が使われている。
 部屋に戻り、婦人物のワンピースをぬぎすてた彼女はすばやくズボン姿に着替えた。新調されたブーツの履き心地もよい。ただ、これから馬に乗らなくてはならないためブーツは乗馬用のもので、かかとには小さな銀の拍車がついている。この歯車を馬のわき腹に蹴りこむのをしのびなく思ったアーレインは、ブーツについていた騎士のこしらえの金具をすべて取りはらってしまった。馬のあつかいに自信があるわけではないが、ないわけでもない。ひととおりの乗馬の手ほどきはヘーデンで馬丁頭に頼んでしてもらったのだ。ライナスに「乗馬くらいこなせなくては手札として使うにも話にならない」と言われたのが手ほどきを受けた主な理由だが、彼女自身馬が好きだったので乗り気だった。荷馬車用の背の低い馬の世話ならば雑貨屋を営む両親の手伝いで幼いときからやらされており、当然背に乗ったこともあるのだ。彼は金属の拍車で傷つけられなくともかかとで軽く蹴られるだけで聞き分けたのだから、今回も金具がなくても大丈夫だろう。
 必要な荷物を最低限かばんにつめて肩から提げ、アーレインは目を閉じた。しん、と一瞬世界が黙る。何も聞こえなくなる。胸の中の空気をはりつめたまま身体のまわりにふわりと広がるものを感じ、そっと目をあける。成功だ。誰が見ても、今のアーレインはこの宿のお仕着せを着た女中と変わらない格好をしているように見えるに違いない。幻影をまとい続けるには集中力が不可欠であり、少しでも気が散ればたちまち術は解けてしまうが、裏手にある厩舎にたどりつくまでは何とかもたせることができるだろう。
 女中のお仕着せ姿のアーレインは部屋を出、臙脂のじゅうたんが敷かれた廊下を足音をたてずに早足で通った。磨かれたワゴンを運ぶ給仕や掃除係の少女に途中出くわしたものの怪しまれることはなかった。
 階段を下りて半地下に至ると、たまねぎやジャガイモの皮がいっぱいに入った籠を抱えて勝手口から出ようとしている厨房の見習い少年を見つけ、その後に続いて外に出た。そのまま厩舎に走り、周囲に誰もいないのを確認して術を解く。髪をきりりと高い位置に結いなおして、彼女はライナスが用意しておいた栗毛の馬にまたがった。それほど体高のない牝馬で、よく訓練が行き届いている。アーレインのおおざっぱな手綱さばきにはじめは不満げであったが、宿の敷地を出て道を走りはじめると、アーレインを認めたのかそれともあきらめたのか、おとなしく従った。振り向き振り向きしていた馬がまっすぐに駆けるようになって一安心し、しかしゆるみそうになる気持ちを引きしめて、拍車のないかかとで馬腹を蹴り急がせた。
 黄大理石で造られた外壁が黄金色に輝くアルソレイム宮殿を目指す道の両脇には、名だたる貴族の紋章をかかげた大邸宅が軒を連ねている。翼を広げた竜紋のフォンティーナ侯、タカと戦斧を組み合わせた印章のバウレン伯、白馬がさお立ちになっている絵柄をしたガルテン侯。尖塔や装飾ガラスをあちらこちらにあしらったきらびやかな城館が並ぶ中、大きく黒い土地がその場所だけ、墓場のようにぽっかりと別の空間となっているのにアーレインは気がついた。手綱を引いて馬を止め、鞍の上から四角く囲われただけのその場所を眺めやる。とっくに各貴族邸の面々は王宮に出かけてしまったあとらしく、あたりに人の気配はない。なのに、こうして眺めていると妙に胸がざわつくのはなぜだろう。大勢に見られているようにも、こちらが大勢を見ているようにも思えて、妙な錯覚にとらわれそうになる。おびえたように何度も足踏みをしあとずさろうとする馬をなだめて、アーレインは降り立った。何もない真黒い地面には、いったい誰のしわざなのか、さびついた槍と剣がたがいにたがいを支えるような形でを交差し、突き刺さっていた。
「ライナスの、紋章……」
 交差した槍と剣はシェルパーダ家の家紋だ。彼の左肩に焼きついた刻印を思い出した。それは斜めにかたむけた十字にも見えて、倒された墓標のようにも思われた。
 ライナスは家族も家もすべて失ったと言っていた。瓦礫すら見つからないこの場所に、かつては彼の家があったのだろうか? ここで、大勢の人々が死んだのだろうか? バイスンのために。けれども、そこには何かを呪うようなまがまがしいものは感じられずに、その代わり、言いようのない哀しみを持った空気があった。
 アーレインは馬車道の並木の根もとに咲いていた花を摘み、槍と剣に向けて放り投げた。花と花びらが一瞬、鮮やかな雪のように舞い、黒い土の上に美しく散った。
「聖母のかいなと女神の楽園に幸いあれ」
 ひざまずいて聖句をとなえた。時間に急かされて立ちあがると、そのまま鞍に飛び乗って、彼女は再び走り出した。



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