ハティは城門の上を見つめた。二頭の獅子が黄金の車輪の車を引いた図柄の王旗が高くかかげられて、風に堂々とはためいている。オレンジ色のその巨大な旗は夕日によく映えて、金糸の刺繍が燃え上がるようで美しかった。 門の中を眺め遣ると、まぶしい色彩のドレスをまとった女性たちがモザイク画のピースのようにひしめいていた。その向こう側には不死鳥が翼を大きく広げたようにも見える黄大理石のアルソレイム宮殿が、イリューシオンの象徴にふさわしくかまえている。けれども彼らはそちらには進まずに、城壁にそって歩き出した。彼らをとがめるものは何もなかった。 どうしようもないほどに、この日の城外警備は手薄だった。あってないようなものだったと言ってもいい。たしかに、馬車道から続く正面の大門の前には大勢の騎士が立っているが、少し裏手にまわってしまえば、もともと野良猫すらいない宮殿周辺にはハティの足音とスルスミの羽ばたきがかすかに響くだけだった。今日は王太子の妃を決める舞踏会が開かれるとかで、国中から馬車を乗りつける紳士淑女を出むかえるために騎士も城兵も正門へと出払っているらしい。城壁にそって見まわりをしているような暇人は、どこにもいない。 城壁の西側には、下男たちが使う粗末な木戸があった。飛んで城壁内に入ったスルスミに内側からかんぬきをはずしてもらい、彼らは簡単にヘイリアスの黄金城たるアルソレイム宮殿にもぐりこむことに成功したのだった。 「レオギンは、皇王なんかに何を書いたんだろう?」 答えを期待するわけでもなく、ハティはつぶやいた。 「ナイフを突きつけるようなおっかない奴をよこしてきたんだ。ちょっとやそっとでは何も応じないと思うんだけど」 スルスミもハティは返事を待っていないと知っているので、くちばしをわきの下に突っこんで、揺れる肩の上で羽づくろいを続けている。一人と一羽は最上等の緋もうせんのじゅうたんを踏んで歩き、おそらく皇王がいるだろうダンスホールを目指した。レオギンがハティに使いを頼んだということは、つまりそれは皇王に手紙を手わたししなければならないことを意味する。ただ城勤めの人間に託すだけならばスルスミだけでもやってのける。伝書バトに可能なのだから、使い魔のカラスができて当然だ。皇王の手に確実にわたるようにレオギンがハティに頼むほどの手紙の内容とは、いったいどのようなものだろうか。封蝋でとじられているために文面をうかがうことはできない。ただ、皇王を喜ばせる内容ではないことはたしかだろう。弟子の洗礼を受けてもいないのに勝手にレオギンの薬草園を探し出し、彼女に不快な思いをさせたのは誰でもない皇王なのだ。 前方から金属がこすれ合う音が聞こえたので、ハティはあわてて、運よく半開きになっていた扉の中に身体をすべりこませた。廊下の様子をのぞくと、鎧を着こんだ城兵があくびを噛み殺しながら通りすぎて行くところだった。詰め所から出てきたばかりの遅番の兵士なのかもしれない。これから宴の会場警護にあたるのだろうか。 「スルスミ。あいつについていけば、ホールに出られるかもしれないよ」 ハティたちは目配せし合って、城兵のあとをつけようとして扉に手をかけたときだった。足の真下から床がふるえるような獣のうなり声が聞こえた。イヌやオオカミではない。ましてや王侯貴族が愛でる毛足の長い猫のような生やさしいものでもない。遅番らしい兵士には聞こえていなかったのか、まったくまわりを気にする様子もなくそのまま角を曲がっていった。 再び、地鳴りのような低い声が足元で響いた。ハティもスルスミも幾何学模様の床板を見つめ、そしてうしろを振り返った。なぜか足元だけではなく、背後からも聞こえたような気がしたのだ。しかし、当然ながら、豪華な室内に猛獣がつながれているはずはなく、ハティは首をかしげずにはいられなかった。 「空耳じゃあないと思うんだけど」 今度はスルスミもうなずいた。彼らはもう一度部屋の中を見わたし、どこにもおかしな部分はないことを自分自身に証明して安心しようと思った。しかし彼らが見つけたのは安心などではなくて、背後の暖炉の中にぽっかりと暗い口をあけた不気味な穴だった。立派なマントルピースには絵皿やひすいを彫りこんだ女神像などが飾られているにもかかわらず、肝心の暖炉には炭も薪もいっさいない。黒ずんだ鉄板が無造作に組み石に立てかけられているだけで、おそらくもともとはこれで穴がふさがれていたのだろう。ハティがおそるおそる穴をのぞきこむと、先ほどよりもはっきりと獣のうなり声が聞こえた。暗い内部に反響しているので比べものにならないほどの迫力がある。スルスミはぞっと羽毛を逆立てて、ハティは身ぶるいした。穴の奥には古い石造りの階段が、彼らをさそうように伸びている。 ――下りてみようか、どうしようか―― 一刻も早く皇王に会い、レオギンからあずかった手紙をわたさなくてはならない。ハティは悩んだが、答えが出るより先に、彼の足は前へと踏み出していた。どきどきとうるさい心臓が苦しいのに、同時に妙に心地よい気がした。 暖炉の入り口はせまかったが、内部は案外広かった。ハティが両腕を広げられるほどの幅がある。なだらかな階段は底が見えずに延々と続き、ハティはつま先で次の段を探りながら一段ずつ下りていった。空気は少しかびくさい。そのかびくささに獣くささは混じっていないだろうかと彼らは鼻をひくつかせたが、冷えた空気に鼻が痛くなるばかりで獣独特の臭いは感じられなかった。 獣の臭いも息づかいもまったく感じられないのに、そのうなり声ばかりは深く深くもぐるごとに大きく聞こえるようになっていった。穴に光がまったく届かなくなってからどれくらい下りただろう。ようやく階段が終わってハティは足元が平らであることを確認し、両腕を前に突き出す格好で手探りしながら前進した。やがて手のひらが冷たくごつごつとした感触とぶつかった。平面に何かが彫刻されているらしい。暗闇の中、浮き彫りにされた部分を指先でなぞってみてもいったい何が掘られているのか見当もつかなかったが、壁に近い部分に取っ手のようなものを探り当てた。どうやらこの浮き彫りがほどこされたものは扉だったようだ。取っ手を右に引くと、扉は重たげであるのにまったく音をたてずに進路を開けた。 進路が開けた途端、スルスミが情けなくつぶれた声を上げた。ハティは声を出すことも忘れて力いっぱいに目を閉じていた。突然あふれだした光はまぶしすぎて、目がつぶれるかと思ったのだ。洞窟をほのあかるく照らすホタルゴケや夜をやんわりとやぶる朝日とはわけが違った。これは暗闇に突然降ってわいた光だ。闇とまったく相反する力そのものだ。 光と一緒に爆発した鋭い金属音が、さらに彼らの神経をしびれさせた。 「逃げるな!」 何かをはじくような金属の高い音に続いて、怒りをはらんだ若い男の声がハティの肌を粟立たせた。うっすらとまぶたを持ち上げると、金色の光の中にふたつの人影が立っているのだった。 「逃げるのではない」 先ほどとは違う声が言った。 「ここに獅子の戦車が存在すること自体、私の権利を証明しているとは思わぬか」 「戯言を!」 はじめの声が叫んだ。そしてもう一度金属と金属がぶつかりあう音を聞いて、はじめてハティはそれが剣を交えるときの音なのだと気がついた。 やっと目が周囲の光に慣れてきて、彼は現れた空間を見まわした。スルスミはまだ目をしょぼしょぼとさせている。しかしその羽毛は緊張に逆立っていて、かすんだ視界の先にいる敵を威嚇していた。ハティはスルスミのまなざしと同じ方向を見た。 そこには光そのものがあった。いや――正しくは、光のみなもとがあった。 そこには、絵でしか見たことがない神獣が、たしかな形で存在していた。圧倒的な存在感だ。黄金に輝く巨大な獅子が二頭。一頭が馬の数頭分の大きさがあるだろう。レオギンの髪を思わせるオレンジを帯びた金のたてがみをふさふさとたくわえて、その巨体に不似合いな小さな箱につながれていた。箱の中には馬車の座席に似た椅子が見える。箱ではなくて、すべてをあわせてこれらは獅子の二頭立ての車なのだろう。ハティは城門にかかげられていた王旗を思い出した。その旗には、たしかに王紋として二頭の獅子が黄金の車輪の車を引いた図柄が描かれていた。 ふたたび剣戟の音が冴えわたり、数回打ち合ってから急にやんだ。一方の人物が獅子の車に乗りこんだのだ。その人物は片腕に何やら抱えていた。それを大切に車の席に横たえてから、彼は獅子の尻を強く打った。獅子はにわかに走り出した。走り出したばかりの獅子の足は長いあいだ使っていなかったものを無理やり使うようにぎこちなく、遅かった。 「逃げるなと言ったろう、バイスン!」 もう一方の男は二言ほどののしる言葉を吐いて、獅子のあとに追いすがった。 バイスン――ハティも耳にしたことのある名だった。ハティよりも先にスルスミが思い出して、カラスの言葉で叫んだ。そうだ。 「皇王の名前だ!」 反射的にハティは走り出し、スルスミは車目指して羽ばたいた。一足先に駆け出していた若いほうの男が金の体毛をつかんで獅子の腰によじ登り、車に飛び移ろうと身がまえていた。ハティも何とか追いついて、彼と同じ獅子の尾をつかんだ。はじめに車に乗りこんだ男はあわてたようだった。何度も激しく獅子を打っていそがせ、獅子の腰の毛皮につかまっているもう一人をふり落とそうとした。それが反対にいけなかったらしい。いそがせすぎたせいで獅子と車をつなぐ一方の鎖が切れて、二頭立ての車が、獅子一頭と、一頭が引く車に分かれてしまった。それぞれはどんどん速さを増していき、しまいには壁を突き破って外に出た。 ハティは星に彩られた夜空を見た。そしてとてつもない突風を全身に感じた。手足がすべてもぎとられるのではないかと思った。 「ガ――――ァッ!」 スルスミの悲痛な悲鳴が聞こえた。なぜスルスミがそう鳴いているのかわからなかった。ハティは、突風にさらわれて、自分が獅子の尾を手放してしまったことすら気づかなかった。身体がふわりと宙に浮いた。そして頭が下に、足が上になった。そのとき初めて思った。落ちるのだ。 遠くで誰かの足音がした。そしてスルスミのものではない、誰かの悲鳴を聞いた。 |
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