排水路の格子をはずし、ハティは薄い肩をねじこんだ。ここは使われなくなった古い井戸につながっていて、今は薬草園のあちらこちらにあけた穴から余分な雨水を流して外に出している。そのほかには、時々こうして彼が専用通路としているのだ。横の幅はハティの肩幅ぎりぎりで、食料調達用の籠を腹の前にひとつかかえて通るのが限界だった。
「レオギン」
　口にした名前が地下に幾度も反響した。
　レオギン、レオギン、レオギン――。
　今ばかりは時間が惜しくて、ハティは肩がぶつからないように横歩きに早足で通路を進んだ。もう少しで井戸の下にたどり着く。そうして井戸の中にのばされた細い鉄管の梯子に手をかけたとき、頭の上から声が降ってきた。
「何度も言っているように、無理はどうしたって無理だ」
　レオギンの声だった。
「死者をよみがえらせる薬草など存在しない」
　彼女の声は怒りを帯びていた。ハティがこれまで聞いたことないほどに。ハティは錆かけのはしごに大急ぎで飛びついた。そして途中までのぼったところで、男の低い慟哭を聞いた。
「妃は死んでなどいない！」
「死んでいる。まったく腐敗せずにいるから、美しいままで眠っているように見えるのも無理はないが」
　レオギンの声音はどこまでも冷静で、冷たく澄んでいる。ハティはそっと目だけを井戸から出して外の様子をうかがった。
　薬草園に、若緑や濃緑のだんだらの美しい庭園に、レオギンのほかには二人の男が立っていた。ひとりは、礼装をした麦藁色の髪の若い男。傷を負ったのかうずくまっている。もうひとりは、片腕に若くたおやかな女性をかかえ、疲れた顔をしたくろがね色の頭の男。もともとは美男子だったのかもしれない。だが、今は両頬がこけて目はくぼみ、漆黒だったろう髪はところどころ灰色を帯びて金属的だった。
　再びレオギンの声が響いた。
「バイスン。おそらくおまえは、国中から魔術師や導師を集めて皇王妃をよみがえらせようとやっきになったに違いない。だが、どんなにすばらしい腕を持ち合わせた術者だって、死者をよみがえらせるのは不可能だ。眠るように死んだその時の姿のままにとどめておくだけでせいいっぱいだったんだろう」
「だから妃はまだ死んでなどいない！　病に冒されているだけだ！」
「鼓動も体温もないのにか？」
「魔女よ！　貴様こそこの庭園の薬草によって、いつわりの血と肉で不老不死を得ているではないか！　それなのになぜ、どうして妃の病を治せないのだ」
「おまえたちが考えている不老不死と、私の現実の不老不死とはまったく違うと思うぞ」
「不老不死に種類も何もあるものか」
　同じようなやりとりを以前にも聞いたことがあると思いながら、ハティは井戸の石囲いをまたいでモルタルの壁のかげに身をひそめた。男に見つからないようにそっと様子をうかがうと、レオギンの金髪が太陽に照らされてオレンジ色に燃えて見えた。
「……たしかに、私は老いることがない」
　彼女はぽつりと、独り言のようにつぶやいた。
「そして、病気になることもないし、胸を貫かれたって死ぬことはない。私の血肉は緑色の草木でできているから、薬草をあてがったり挿し木したりすればもとどおりになる。だから、そのような点では不死と言えるんだろう」
　そう言う彼女の右腕に巻かれた布にはまだ緑色の血液が染みていて痛々しかった。薬草園の木の枝を挿し木したのだろうが、まだ傷口も完全にはふさがっていないようだ。
「だが現実は、私は、老いも死にもしないが〝消滅〟する」
　他人事や常識を口にするように、レオギンはこともなげに言ってのけた。その言葉にもっとも戦慄したのは、妃を抱いた皇王ではなく、ハティのほうだった。
「私は先代の魔女によって、老婆の姿で作り出された。墓守の魔女として魔術の力と知恵とを持ち合わせるには、老婆が一番適していたんだ。思うに、先代も先々代によって同じようにして作られたんだろう。けれど老婆として生を受けては、そのままでは先が短いことはわかりきっている。だから千年以上も前、神話の時代にはすでに不老不死の身体を作る技法が完成されていた。特殊な効能を持った草の毒を混ぜることによって、老いることもなく死ぬこともない代わりに年ごとに若返り、このような小娘になり、しまいには赤ん坊になり、胎児になり、消滅させる身体にするという技法がな」
　しかし――このわざは、人が手にして良いものではない。彼女は言った。
「幸せではないだろう？　あと何年であとかたもなく消滅するとわかっている人生など」
　薬草園の魔女の宿命をつきつけられたバイスンは、震えていた。
　それ以上に、ハティは震えていた。恐ろしさや悲しみからではなく、レオギンの十二祝いをしようと言ってしまった自分に対する怒りによって。彼女にとっては、あと十二年しか生きられないという宣告にひとしいのに。
「だが、自分の後代の魔女を作り出せるほどの力があらば、私の妃の病を治すことなどわけないだろう！　私は、薬草園の魔女ならば妃の病を治せるだろうと信じて、弟子となり薬草園の場所を知りたいばかりに、皇王だった兄やその息子たちまでを手かけて、皇王位についたんだ」
「もう一度だけ言おう」
　まっすぐに、彼女はバイスンを見つめた。
「皇王妃が瀕死だったなら、私でもどうにかできただろう。しかし現実には死んでいるんだ。皇王妃のその若さから見て、おまえがシェルパーダ公に罪を着せようとした十五年前にはすでにこの世の者ではなくなっていたに違いない」
「妃は生きている！　病であるだけだ！」
「それはおまえの望みだろう。現実ではない」
　途端、獣じみた咆号が皇王の喉からほとばしった。女性の身体がくたりと芝に崩れ落ち、皇王の鞘に銀色の閃光が走る。剣がすべり出て鋭い音を立てるのと、レオギンの左手から炎が躍り上がるのと、壁のかげからハティが飛び出すのと、まったく同時だった。
「レオギン！」
　その呼び声に彼女は一瞬振り返って目を見開き、くりだされた剣先から自分をかばおうとするハティを見た。泣きそうな表情で、身代わりにならんばかりに両腕を差し出している。レオギンはその腕を押しとどめて、鋼の切っ先を胸に受けた。冷たくとがった異物がめりこんで嫌な感触がした。炎が少しずつ草にまわって、焦げ臭いにおいがたちはじめた。
「どうせ、あと十二年もすれば死ぬんだ」
　みずから傷口の剣を引きぬき、レオギンはひすいを思わせる瞳をしばたいた。何かがせりあがってくる鈍い音がして、にごった緑の液体を吐かなければならなかった。
　皇王は妃を胸にかき抱いて声をあげて泣いていた。けれどもハティはそちらにかまってなどいられなかった。
「……どうして戻ってきた？　都から、こんな早く戻ってこられるはずないだろうに」
「そういう問題じゃないよ」
　ハティはともすれば倒れそうになるレオギンを全身で支えた。自分で自分をゆるせるものなら、泣きたかった。
「家族が心配で飛んで帰ってきて、悪いことなんてないじゃないか」
「はは……そうか。家族だものな」
　彼女は力なく笑った。レオギンらしくなかった。
「だったら、私も家族のおまえを心配して助言しよう。逃げろ、ハティ。早く火がまわるように術をかけたから、いそがないと、危ない」
「レオギンだって一緒に逃げるんだよ」
「私はもともと私の代で薬草園を終わらせるつもりで、後代の魔女を作っていなかったんだ。奥地に行って、伝わる技法に手をつけようと試みたことも何度かあったが、結局作るには至らなかった。だから私は最後の墓守だ。ここで逃げ出したら、ヒーリア女神に顔向けできない」
「女神は、レオギンがこのまま死ぬことを望むようなひどい方じゃないよ」
「そうだとしても、私はどうせ、あと十二年もすれば死ぬんだ」
「あと十二年も生きられるじゃないか！」
　ハティはたまらなくなって叫んだ。
「そのあいだに、僕と同じように年をとっていける身体になる方法が見つかるかもしれない。それなのに、今あきらめてどうするんだよ！　燃えちゃったら、いくらレオギンでも死んじゃうじゃないか！」
　レオギンがどんな顔をして自分を見ているのか、ハティにはわからなかった。視界は濡れてかすんでいた。喉がひりひりと熱く、途中で声は裏返った。それでもハティはレオギンの手を握り、彼女をまっすぐに見つめた。
「ここから出て、生きよう。そうすればきっと方法は見つけられるから。僕はレオギンが死ぬなんて、ぜったいに嫌だ」
　そこに、黒く大きな影が踊りこんだ。それは彼らの前で大きくいなないた。馬だ。
「スルスミ！」
　ハティは思わず歓声をあげた。この優秀な使い魔は、飛べなくなっても、アーレインが開けた門から入ってきて駆けつけたのだろう。ハティはこぼれおちた涙をチュニックの肩でふいて、レオギンを馬背にかつぎあげた。ハティが仕事をしやすいようにスルスミはかがんでレオギンを受けとった。
「一緒に、生きよう」
　ハティは言った。背中にまたがり、レオギンを抱えるようにして彼がたてがみにしがみつくと、スルスミは走り出した。ハティは腕の中に小さな嗚咽を聞いた。
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