アーレインはこの城館の真四角にめぐった回廊には右側にしか部屋がなく、左側はすべて壁で絵画や花瓶が飾ってあったわけを、ようやく納得した。左側――回廊の内側に部屋も窓もなかったのは、そこにこの薬草園が隠されていたからなのだ。薬草園は四方を城館の石壁で囲まれている。巨大な吹き抜けのようで、太陽の昇った青い空が天井代わりだった。 乗り捨てられた獅子は黄金の彫像のように動かずに、草むらに座って控えていた。風が吹いても毛筋の一本すら動かなかったが、この際彼女にとってはどうでもよかった。 「ライナス！」 アーレインは、その草の中に埋もれるようにしてうずくまっているライナスを見つけた。左肩から血を流している。皇王に切りつけられたのだろう。手当てをしようとして彼の衣服を裂きあらわれた傷口は、まさにシェルパーダ家の紋章の上だった。紋がぱっくりと割られて、あとかたもなくなっている。肩から胸にかけて斜めに切られたのだ。もう少し傷が深ければ命だって危うくなる。 上着を脱いで傷口にあてがい、応急処置をした。開闢神話にも語られる薬草園にいながら、傷をふさぐ薬草がわからないのが歯がゆくてたまらない。何か切り傷に効く草が見つからないものかと視線をあたりにめぐらせた。すると、モルタルの小屋の手前に金髪の少女が立ち、若く美しい女性を片腕にかかえた男――おそらく皇王だろう――と対峙しているのがみとめられた。少女はハティと同じくらいの年頃だろうか。オレンジを帯びた金の髪といい黒い長衣といい、五年前にディッセルベーンの裏山で見た魔女と一致している。アーレインにしてみれば、記憶の中の魔女は、もっと大人に近い年齢だったような気がするのだが。 ふいにライナスのまぶたが動いた気がして、あわててアーレインは彼の顔をのぞきこんだ。金茶色の目がうっすらと開けられるところだった。 「アーレイン……？」 「痛むでしょう。どうしてこうも無茶なことをするの」 起き上がろうとするのを押しとどめて、傷に巻いた上着をきつくしばった。ライナスが歯を食いしばり、顔をしかめた。 「俺の邪魔をしにきたのか」 「ライナスを助けに来たのよ」 その言葉に、予想どおり彼は顔をゆがめた。 「俺は助けてくれなど一言も頼んでいない」 「そうよ。私が勝手に助けたいだけよ。悪い？」 悪いとも良いとも言わずに、ただ彼は歯噛みした。 「……バイスンは？」 アーレインが視線で示すとライナスは横たわったままそちらを見遣った。いつのまにかハティが魔女の少女に寄りそい、皇王は膝をつき女性をかかえて慟哭していた。 「バイスンに切られたのね？」 ライナスはうなずいた。 「まだ復讐を果たしたいと思う？」 「当然だ」 「だけど私は、今ライナスがあの皇王に切りかかろうとしたら体を張ってでも止めるわ」 「どうして」 ライナスは痛みに顔をゆがめながら、うらみがましくアーレインを見た。 「俺を止める権利なんて、おまえにはないだろう」 「傷にひびくじゃないの」 「たとえ相討ちになったとしても、復讐が果たされれば父も俺も浮かばれる。傷にひびくなどと細かいことは言っていられない」 「……あんた、馬鹿でしょう」 飛び起きようとしたライナスの腕を押さえつけて彼女はたたみかけた。 「亡くなった公爵は、あんたが自分を殺してまで復讐を果たすことを望んでなんていないわ」 「おまえが父上を知ったように言うな！」 「ええ知らないわよ。私は田舎娘だから公爵様にお会いしたことなんてないもの。でもライナス、例えばあんたが殺されたとしてその復讐をリンコレッタが果たそうとしたら、リンコレッタに命をかけてまでして復讐してほしいと思う？」 薬草園の薬草の繁みに赤い炎の舌がちらついた。魔女が火を放ったのだろう。焦げ臭さとするどくしみる煙が鼻をついた。 アーレインは口をつぐんだままのライナスを残し、泣き崩れた皇王に近づいた。彼が抱えているのは皇王妃なのだろう。絹の着物を着て力なく四肢を投げ出している。死んでいるのだ。市場で出会った明るい頬の娘が話してくれた「シェルパーダ公の呪い」が思い出された。しかしその若い容貌から見て、シェルパーダ公の事件以前に、皇王妃は亡き人となっていたのだろう。魔術師や導師の力によって、その姿を生前のままにとどめていただけで。 皇王に声をかけようとして、 アーレインは鞘走りの音を聞いた。 振り返ると銀の刃が頭上で閃いていた。 ハーティスを助けようとして若い兵士に切りかかられたときの記憶が重なって見えた。 あのときはライナスがその剣をはじいてくれたのだ。 しかし、今は剣を振りかぶっているその人こそが、ライナスだった。 アーレインが両腕を広げて皇王夫妻をかばったと同時に、左肩に鋭い痛みが走った。無論、リンコレッタの平手どころではない。火がついたように左肩が熱くなり、線をえがくようにその熱は胸まで下りた。振りぬかれた切っ先と、飛び散った赤いしずくをアーレインは見た。自分の血であるはずなのに、一等の色石よりもきれいに見えた。その赤い色石を吐き出す傷口を、ライナスが信じられないものを見る目で見つめていた。 「――この人のために不幸になったのに、これ以上不幸になってどうするの」 傷はだくだくと熱いのに、口から出た声は自分でも驚くほどに冷静だった。 「ここでこの人を殺めたらライナスはもっと不幸になるわ。不幸になって、不幸なまま死ぬの？ どうして殺された家族の分まで生きようとは思わないの」 ライナスの脳裏に、懐かしい母の声が遠く響いた。 ――いきなさい、生きなさい―― 生きなさいと言って、ライナスを一人残して死んでしまったのだ。 自分が負わせた生々しい傷と自身の傷の痛みと母の声に呆然としていたライナスの前に、アーレインの手が差し伸べられた。 「生きよう」 微笑とともに差し伸べられた。 「一緒に、生きよう」 その手のひらに、その瞳に、今までに見たことのないまぶしさを見て。ライナスは光を求めるようにみずからの手を伸ばそうとした。――伸ばそうと、した。 途端、彼女の身体が傾いだ。ひときわ強く血がほとばしった。赤いしぶきが激しく二人のあいだに降り注いだ。 「馬鹿はおまえだろう！」 ライナスは、周囲の空気が熱を帯びてかげろうとなり、揺らぎはじめているのを感じた。魔術の炎は次々と草や木々をのみこみ、黒く焦がし、白い灰を舞いあがらせている。 「ここでおまえが死にそうになってどうする！」 倒れこんだアーレインを両腕に受け止めてライナスは怒鳴った。腕からこぼれた彼女の黒髪が、炎に熱せられてちりちりと縮れた。 母に生きなさいと言われたことはあった。バートラムには生きるには武術も必要だとも言われた。だが、「一緒に生きよう」と言われたのははじめてだった。 「おまえが生きようと言ったんだろう！ 俺におまえを殺させるな、アーレイン！」 みるみる血を失ってゆくアーレインにライナスは青ざめた。皇王を斬るつもりでいたから手加減などしていなかった。 傷は深い。このままでは助からない。 自分をいつもにらむように見すえていた緑褐色の瞳は閉ざされて、よくまわる口も何も言わなかった。自分の肩にまわされた彼女の上着の裾を裂いて傷口をおさえたが、ただ赤く染まるばかりで出血は止まりそうもない。 「目を開けるんだ」 彼の指も手のひらも赤く濡れた。仮面のように白くなった顔が、あまりに彼女らしくなくて嫌だった。流れ出る血は熱いのに、アーレインの身体はますます冷たくなるばかりだ。首筋にふれると、脈は弱々しかった。いつ止まってしまうとも知れないほどに。 「アーレイン！」 だらりと力なく垂れた手足はまるで人形だ。皇王が抱きかかえていた妃の面影が彼女の上に重なった気がして、それをライナスはあわてて振りはらった。死なせたくない、死なせたくない。けれども血は確実に大地に吸いとられてゆく。裂けた肩から胸からあふれてこぼれた赤は、炎とともに草々を染めた。 「アーレイン！」 もう一度、その名前を呼んだ時。 眼前に黒い大きな獣が立ちふさがった。黒馬だ。馬だが、馬にしてはいやに大きかった。 「……姉さん？」 頭上から降ってきた声にライナスはようやく顔を上げた。馬上の少年は腕に魔女をかかえて、ライナスの腕の中のアーレインを見つめていた。 「姉さん！」 これが、アーレインが探していると言った弟か。髪の色も瞳の色も違っていたが、唯一強い目元だけは姉弟そっくりだ。彼はアーレインのひどいありさまに目を見張り、馬から飛び降りようとした。しかし、それを魔女が止めた。 「大丈夫だ」 「大丈夫なわけないじゃないか！」 少年がライナスの気持ちを代弁するように叫んだ。赤く目を腫らした魔女は長い袖をまくり、不格好な腕に巻かれた包帯をほどいた。包帯の中身は肌ではなくどろりと緑色の液体がまとわりついた木の枝で、その木の枝を魔女はためらいなくひきぬいた。緑の液体が派手にしたたり落ちた。 「その娘の傷を、こちらに見せろ」 魔女に命じられてもライナスはしぶったが、アーレインの弟が従うようにと彼をうながした。ライナスは悪魔を信じるような気持ちでアーレインの身体を魔女のもとへと近づけた。魔女は半分でちぎれている右腕を振って、アーレインの傷の上に緑の雨をそそいだ。それはライナスの肩にもかかった。彼はたちまち傷が癒えてゆくのを感じた。 「薬草園の魔女の血だ。ありがたく思え」 魔女は微笑んで、黒馬は地を蹴った。少年は姉の具合を見ようと振り返ったようだったが、たちまちその影も遠ざかっていった。 「薬草園の、魔女……」 ライナスは肩が自由に動くようになったことに驚いた。彼は傷はふさがったもののまだ目を覚ます様子のないアーレインを抱きかかえて、黄金の獅子の車に乗った。 十五年前に、〝薬草園の魔女の弟子〟のために父は断頭台にのぼり、母は屋敷ごと焼かれ、兄は事故に見せかけて殺された。だが、アーレインの命を救ったのもまた、薬草園の魔女であった。 獅子は二頭そろって走り出した。くれないに燃える薬草園をあとに、ライナスとアーレインを乗せた車は青い空へと翔けのぼっていった。 |
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