終章、それから


「もう一度、考え直していただけないだろうか」
　その申し出にアイルは迷いなくかぶり振った。
「前にも言ったように、僕はヘーデンのアイルだから」
　ルバートは唇をゆがめて、いとこのラベンダーグレーの双眸を見つめた。この強情ないとこは、何度言っても自身の中に流れる血脈の貴さを認めようとはしないのだ。
「シェルパーダ公の政変は十五年前で、僕はまだ赤ん坊だったんだ。両親の顔はちらとも思い出せないし、ヘーデン伯を親代わりに、リンコレッタと一緒に育ってきた。いまさら皇王になってくれだなんて、冗談にもならないよ」
「しかしアイランリット殿」
「アイランリットじゃなくて、アイル」
　ルバートは深々と嘆息した。薬草園が焼失し魔女が行方不明になり、皇王夫妻が聖母のかいなに導かれて楽園へと旅立ってから半月ほどがたった、即位式の控えの間でのことだ。
「僕はヘーデンに戻るよ。王太子は君なんだもの、ルバート殿」
「だが皇王家の正当な血脈はアイランリット殿のほうに」
「血脈なんて、どうだっていいことなんだよ」
　アイルはじきに皇王の座につくいとこを見すえた。
「本当は血に貴いか卑しいかなんてない。生温かい赤の液体にすぎないんだもの。君が王太子で僕がヘーデンのアイルだという境遇は、ただ、君が王太子として生きてきて、僕が辺境伯家の居候として生きてきたから――それだけだよ」
　言い置いて、アイルは振りかえらずに部屋を出た。廊下にはリンコレッタが待っていた。
「本当に、このまま帰るつもり？」
　彼女の言葉にアイルは笑顔で返した。
「もちろん。アーレインの具合もよくなったんだから、ここにとどまる必要なんかないじゃないか。アーレインもヒュルストーも――いや、ライナスも、もう馬車乗り場にいるんだろう？」
「でも、ルバート様の即位式。出席したかったのではなくて？」
「僕は辺境伯家の居候、ルバート殿は王太子――そして今日、皇王になる。生きてきた世界が違うよ。いとこという実感がわかないんだ」
　リンコレッタを手まねきして、アイルは歩き出した。
「その点、血はつながっていないけれど、君とは家族だからね。僕はあんな玉座で皇王をやるよりも、リンコレッタと一緒にいたほうがずっと楽しいと思うんだ。約束したじゃないか、皇王になんかにならないって」

　一方、宮殿前の馬車乗り場でアイルたちを待っていたアーレインは、しびれを切らして馬車の屋根によじのぼっていた。アプローチの一番奥まで見わたしても、まだアイルとリンコレッタの姿は見当たらない。焦げた部分を切って短くしてしまった髪が、スルスミの羽毛のように風に揺れた。その後、ただでさえ待ちくたびれているというのに、行儀が悪いということでライナスによって屋根の上から引きずりおろされ、アーレインの機嫌はますますすぐれなかった。
「病みあがりだろう。もうちょっとおとなしくしたらどうだ」
「それはライナスだって同じでしょう。あんまり口うるさくすると傷にひびくんじゃないの？」
「おまえがそうさせているんだろう。それに、俺の傷は浅かった。とっくに痕もなくなっている」
「……印章痕も？」
「……ああ」
　ライナスはうなずいた。黒く引きつったシェルパーダ家の紋章は、バイスンに切りつけられた傷が癒えるのと時を同じくしてあとかたもなく消えていたのだ。刻印がなくなったのを知った際にはさびしさもおぼえたが、解き放たれたようなすがすがしい気持ちのほうが大きかった。反対に、アーレインには肩から胸にかけて大きな傷痕が残ってしまった。傷が深かったために、魔女の緑の血をもってしても痕までは消せなかったのだろう。ライナスはそれがいたたまれなかった。
「アーレインの傷は……やっぱり消えていないのか？」
「いきおいよくばっさりやってくれたものね。みごとに残ってるわ。でも、勲章みたいなものよ、私にしてみれば」
　アーレインは笑った。
「ハティがさらわれたときは守れなかったけれど、あんたのことは守れたっていう勲章」
「勲章も、死んでいたら自慢にならないだろう」
「ライナスが無茶をしようとしなければ、私だってしなかったわ」
　もう一度門の向こうを見遣り、今度は並んでやってくるふたつの人影を見つけた。リンコレッタとアイルだ。アーレインは彼らに大きく手を振って、先に馬車に乗りこんだ。それにライナスも続いた。行き道でも手綱をとった顔なじみの御者が、近づいた出発のために、つながれている馬に足踏みをさせた。
「アーレインは、ヘーデンに戻ったらどうするんだ？　弟のことはもう探さないんだろう？」
「久しぶりに店を開けるわ」
　アーレインは即答した。
「ハティはハティで魔女と仲良くやっているでしょうし。この空の下のどこかで元気でやっていてくれたらいいって、思えるようになったの。ライナスはどうするの？」
「おまえの店でも、手伝おうか」
「ことわるわ」
　ライナスは半分以上本気で答えたにもかかわらず、にべもなく却下された。
「だって邪魔に違いないもの。ライナスみたいな横柄な態度では、お客だってつかないでしょう」
「おまえのようなじゃじゃ馬な性質では、めとってくれる男だってつかないだろう」
　むっとしてライナスが言い返すと、手痛いしっぺ返しが待っていた。
「あんたがくれた勲章のおかげで、どうせお嫁になんていけないわよ」
　ライナスが急に黙りこんだのでアーレインはしまったと思った。ライナスは自分が負わせてしまった傷をそうとう気にしていたのだ。けれども、言ってしまった言葉はどうにもならない。アーレインが気を揉んでいると、ライナスが大きく息をついた。
「おまえの嫁入り先が見つからなかったら、俺が責任をとってむかえてやる」
「責任だけでめとられても迷惑なだけよ。私は薬草園の魔女みたいに一生独身で魔術業に精を出すからかまわないわ」
「責任だけじゃない」
「だったらどういう意味なの」
　またしてもライナスは黙りこみ、アーレインがつめよった。バートラムと旧知の仲である御者だけが、バートラムから気性をよく聞き知っているライナスの言わんとしていることをくみとって、御者台でひとり笑いを噛み殺していた。そこへ戻ってきたリンコレッタたちが乗りこんで箱車はいっそう騒がしくなり、鞭の音も軽やかに馬車は走り出した。

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　―　幕　―
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