今日の夜会にも、シェルパーダ公は出席することになっていた。たとえなってはいなくとも、皇王の命令によって駆り出される運命にあったのだが。
 エリオノーラ妃は侍女を呼びつけることなく、みずからの手でアーレインを飾り立てる決心をして、衣装をこれでもかと詰め込んだトランクを引きずりながら、嬉々として隅の客間をおとずれた。
 だが、鹿革のトランクに詰め込まれたエリオノーラのドレスが入用になることはなかった。
「素晴らしいわ!」
アーレインが公爵邸の自分の部屋から持ち出してきた真珠色のドレスを見るなり、エリオノーラは目を輝かせた。アーレインは特にどうしようと思ったわけではなかったが、いさかいの原因になったドレスを公爵邸に残しておきたくはなかったので、持ってきたのだった。それを小脇にかかえて皇妃はアーレインを鏡の前へと引っ立てていき、アーレインにドレスをあてがって、今度は感嘆の息をついた。
「なんて素晴らしいんでしょう!」
「たしかに素晴らしいドレスだと思うわ」
 アーレインも同意した。しかしエリオノーラは激しくかぶりを振って、
「真顔でとぼけるだなんて、趣味が悪くってよ、アーレイン。ドレスだけのことを言っているんではありません。わたくしはあなたにこれがとっても映えるからこそ、素晴らしいと言いましたのに」
 アーレインは、エリイ妃の力の入れように圧倒された。
「あ……ありがとうございます」
「わたくしのドレスをお貸しする必要なんてありませんわ。これでいきましょう。さ、お着替えになって。髪を結うのはわたくしにまかしてくださいましね。一番の流行の型に結ってさしあげるわ!」
 エリオノーラの着付けは、マリサに勝るとも劣らない熱意とともに行われた。アーレインはただただされるがままになり、一分の隙もなくドレスを着付けられて、髪を結わえられた。鏡の中の自分はぽかんとしどおしでまったくもってまぬけであったが、その表情さえのぞけば、ドレスふくらみも、袖のかたちのよさも、結われた髪のかたちも、たしかに貴婦人といってよいできばえだった。
「完成ですわ。どう、ご覧になって?」
 アーレインは言葉が出てこなかった。アーレインがどうこう述べるよりも、着付けが終わってすぐに呼び寄せられたメーゼス卿の感想のほうがエリイ妃を満足させた。
「まさに宮殿の真珠ですよ、レイディ。まったくもって美しい」
 メーゼス卿に、紳士的な――しかしどこかいたずらっぽく、親しみのある微笑みを添えてそう言われ、アーレインは赤くなった。率直に姿をほめられた経験にとぼしいアーレインには、その手の免疫がなかった。
「そんなこと……ありません。私は美人ではないもの」
「たしかにあなたは美人ではないわ」
 エリオノーラはあっさりと、彼女の言葉を認めた。
「けれどね、生まれ持った外貌が美人のたぐいであるというのと、美しいという感想を抱かせるのはまるで違っていてよ。バーティスラルの姫君は前者だわ。でも、アーレインは後者なのよ。わかってくださる? ほら、温室咲きのバラの花は初めから美しいけれど、街路樹の梢の、木漏れ日を透かしている一枚の葉だって、それに劣らず美しいと思わせるでしょう? それと同じだわ」
 ジュリエーネ姫がバラであるのに比べて私は街路樹の葉ですかと皮肉のひとつふたつ言いたくなったのだが、エリイ妃があまりに真剣なので、やめておいた。褒められているには違いないのだから。そのうえ、次の瞬間にはそれどころではなくなっていた。メーゼス卿に手をとられ、手の甲に口づけられたのである。アーレインは頬だけでなく、首筋から耳まですっかり真っ赤にした。メーゼス卿のそれは紳士としての挨拶に過ぎないしぐさなのだが、ふと上げられたまなざしのやわらかさ、唇の端に浮かんだ親しげな好意についどぎまぎしてしまう。これがクーレウスであったならば手を叩き落としてやるところなのだが、相手は皇妃の従兄、しかもアーレインが毛嫌いするクーレウス的な気配を微塵も持ち合わせていない、毒のない微笑みの持ち主なのだ。叩き落してやる理由はない。
 アーレインは心臓が暴れまわるあまり思うように動かぬ体で、極力失礼に当たらぬように努めながら淑女の礼をなんとか返し、手を引っ込めた。しかしやはりどこか不自然なところがあったのだろう。メーゼス卿は苦笑していた。
「そんなに緊張なさらないでください。今日の夜会中、一緒に過ごさせていただくのに、始終緊張されていてはもちませんよ?」
 それは至極もっともな意見だった。うつむいてしまいたいのを、アーレインは唇を噛み締めることで何とかこらえた。
 エリオノーラ妃の筋書きはこうだった。メーゼスとアーレインを夜会のあいだ共に行動させ、アーレインもまんざらでもないように振舞うことで、ライナスに危機感を抱かせる。ダンスも語らいもメーゼスと二人きりで行うアーレインをそのままにはしておけないと、いくらあのシェルパーダ公であったとしても、焦るだろう。そしてジュリエーネ姫に断りを入れ、アーレインのもとに歩み寄り、ライナスがメーゼスから彼女を奪還してめでたしめでたし――……
「そんなにうまくいくでしょうか」
 やや不安げなアーレインに、エリイ妃は力説した。
「いきますわ絶対。なぜってライナス卿は、あなたがいなくては生きていけないような顔をするんですもの。お気づきになっていらっしゃらなくって?」
 お気づきになっていらっしゃらなかったわけではない。アーレインは口には出さなかったが、ディッセルベーンの自分の店での一幕を思い出していた。イリューシオンで一緒に暮らさないかとの誘いから逃げ出し、姿を消した自分を、血相を変えて探していたライナス。たしかにそのとき、このままでは生きてはいけないような顔をしていた。
 たくらみが実行に移されるその晩の夜会は、昨夜にも増して華やかで豪奢なものとなった。皇王夫妻がいつになくはりきっていたためである。
 アーレインはメーゼス卿に、ごく自然なしぐさで腰に腕をまわされ、とっさに身を引いて逃げようとした。メーゼス卿はくつくつと笑って、
「そんなに邪険になさらなくてもよろしいでしょう? アーレイン殿、あなたがまんざらでもないというふうに振舞ってくださらなければ、この計画は何の意味も成さないのですよ」
 彼は心底このたくらみを楽しんでいるらしかった。アーレインは仕方なしに、メーゼス卿の意見に従った。
 と、すさまじく鋭い視線を肩に感じて、アーレインは顔を上げた。そして庭園の小道で衝撃を受けたときと同じように、呼吸を失ってしまった。ライナスが、右腕にジュリエーネ姫を絡みつかせたまま、突き刺すような目でこちらを見つめているのだった。ジュリエーネ姫は無邪気に何かをしゃべり続けているが、ライナスが聞いている様子はまるでない。アーレインは我に返るが早いか、いそいで視線をそらした。それに気がついたメーゼス卿が勝ち誇ったような笑みをライナスに向けたのを、アーレインは知らない。
 音楽が始まるが早いか、彼女はメーゼス卿にフロア中央へと引っ張り出された。はっきり言ってアーレインはダンスが得意なほうではないし、ライナス以外の相手と踊ったことも数えるほどしかない。彼女はあわてて、メーゼスに囁いた。
「私、ダンス下手なんです。どちらかというと」
「大丈夫。一通りの基礎は習っているのでしょう?」
「それは、たしなみとして一通りは……ライナスから教えられました。でも、得意不得意ってあるでしょう? 私、魔術はたいした苦もなく覚えられたけれど、ダンスは頑張ったって、どうしてもライナスのようにはかなくって」
「ライナス卿よりも楽しく踊らせてさしあげますよ。わたしはダンスが特別得意ですから」
 ふわりと、体が浮き上がった。――否、浮き上がったかと思われるほどに、身軽に体がステップを踏んでいた。メーゼスの手がアーレインの体を引き寄せて行くべき方向へと導き、アーレインは音楽と空気の流れに身をまかせていればそれでよかった。自分のものではないように思われるほどに、足が軽やかに動いた。ライナスもダンスは上手だが、メーゼス卿はさらに、相手に楽しく踊らせる技に長けているらしかった。
 ここでも突き刺さるような鋭い視線を感じたが、ダンスが楽しいので、アーレインはそれほど気にせずにやり過ごすことができた。ジュリエーネ姫と踊りながら咎めるようにこちらを見るライナスに向かって、微笑みを返すことさえできた。ライナスが何かを失った子どものように頼りない表情になった。アーレインはいい気分だった。
「本当、メーゼス卿はお上手でした。ダンス、楽しかったわ」
 アーレインは率直な感想を述べた。メーゼス卿は心から嬉しそうにほお笑んだ。
「また一息入れたら、踊りましょう。シャンパンはお好きですか?」
「ええ、大好きです」
 この頃になるとエリオノーラ妃のたくらみが何であったかということも忘れて、アーレインも、純粋に楽しんでいた。メーゼス卿は丁寧であり親切であり、アーレインを喜ばせるような冗談を適切な瞬間を選び取ってすかさず披露した。ライナスにはできない芸当だと、アーレインは頭の隅で考えた。
 夜風に当たりにいきましょうと、メーゼス卿に誘われた。アーレインも熱気を息苦しく思ってきたところだったのですぐに承知し、夜の庭園へと踏み出した。月が美しく藍色の空にかかっていた。星もすばらしいに違いない天気であったが、アルソレイムのあちこちに焚かれた篝火や照明が明るすぎるせいで、小さな星はあまり見えなかった。
 白や薄桃色のバラの花が月光の下では薄青く染まって幻想的に浮かび上がり、葉はつややかに黒くびろうどのような輝きをたたえている。さまざまな種類の花の香りが宙で混ざり合い、広間で奏でられる音楽のように調和した芳香をただよわせている。アーレインはバラの植え込みの石積みのへりに腰掛け、ダンス靴を履き疲れた足をドレスの下でこっそり投げ出した。
 シャンパンでほのかに火照った頬に、夜風が快い。広間から聞こえてくる弦楽器の響きに耳を傾けながらアーレインが月光浴を楽しんでいると、不意に、月光がさえぎられた。見上げてみると、メーゼス卿がこちらを見下ろしている。彼の短い黒髪が背後の月の光をはじいて、銀色に輝いているように見えた。
「アーレイン殿」
「何ですか?」
 メーゼス卿は答える代わりに、アーレインの髪に触れた。その手がそろそろとはなれたとき、何だったのだろうと思い彼女が髪に手をやってみると、そこには、しっとりとした生花の感触があった。バラの花である。バラの花が手折られて、アーレインの髪に挿されているのだった。
「本当に、お美しい」
 満足げに卿は微笑んだ。その指先に、いつくしむようにして撫でられる。アーレインは戸惑った。ここはどう反応すべき箇所なのだろう? 
「エリオノーラ妃はバーティスラルの姫君を温室咲きのバラとたとえられましたが、アーレイン殿は野バラですね。赤い野バラ。ここにないのが、残念でなりませんが」
 庭園の赤いバラが髪に挿されているのだろうか。アーレインはあちらこちらに視線をさまよわせた挙句、ほとんど助けを求めるようにして、メーゼス卿を見返した。メーゼス卿が、ヘーデンでは求婚の際に花の髪飾りを贈る習慣があるというのを知ったうえでこのような行動をとっているのか、それともただの気まぐれでしただけなのかどうかもわからない。そこにバラの植え込みがあったから、手折っただけなのか。
――グノーでの求婚は、歌を介して交わされると聞くわ。メーゼス卿はグノーの方でいらっしゃるから、大切なのは歌であって、花の髪飾りにヘーデンみたいな意味なんて持たせやしないわよね――
 何の他意もなくバラを贈ってくれただけなら、こうもどぎまぎしている自分がさぞ滑稽に映っていることだろう。なんでもない、普通に世間話をする様子を保っていなければ駄目だと己に言い聞かせて、アーレインは背筋を伸ばした。
 と、同時に、頬に手のひらを添えられた。背筋を伸ばしたまま彼女は硬直した。
「レイディ、あなたはヘーデンのご出身だとお聞きしました。このバラの意味を、もちろんわかってくださるでしょうね?」
 メーゼス卿の微笑みはあくまで優しく、やわらかであった。アーレインは、あまりにも自分を滑稽だと思いながら、おそるおそるたずねた。
「……もちろん、これはたくらみの一部ですよね?」
 ライナスに、見せつけてやるための。けれどもライナスの姿は今見わたす限り、庭園には見当たらない。
「アーレイン殿はそう思われたいのですか?」
 卿の目元がわずかに悲しげに曇った。アーレインはわけがわからなくなった。エリイ妃に今すぐにでも問いただしたかった。このような展開まで、皇妃様の書かれた脚本には存在したの? そうだと言ってください! 
「わたしは田舎貴族です。公爵閣下のようにお屋敷は広大でもなければ、立派でもありません。宝石やドレスの類いをどんなにあなたに贈りたくとも、閣下にはかなわないでしょう。……ですが」
 宝飾品をライナスから大量に贈られた覚えなど一度だってないのだが、そうアーレインが差し挟む隙さえメーゼス卿は与えてはくれなかった。
「わたしは公爵閣下よりも、あなたを楽しく踊らせてさしあげる自信があります。グノーの小さな庭や舞踏室で、これからもわたしと一緒に踊ってはいただけませんか?」
 アーレインが目を見張って絶句していると、体が宙に浮いた。先ほど、メーゼス卿と踊っていたときのように。しかし今は本当に、実際、形容ではなく体が浮いていた。横から伸びてきた腕に抱き上げられたのである。
「アーレイン」
 地を這うような声に名を呼ばれて、彼女は反射的に首をすくめた。目の前ではメーゼス卿が苦々しく笑っている。
 おそるおそる振り返ると、琥珀色の怒れる双眸とかち合った。
「……ライナス」
 彼の右腕には、姫君の細腕が絡みついてはいなかった。どうやらエリオノーラ妃のたくらみは、おおよそ筋書き通りに、うまくいったようである。



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