ライナスは、アーレインがすっかり準備をすませて部屋から出てくるだろうと、当然のように考えていた。
　第一夜の装いは、新しく仕立てた青と藍の生地を絶妙に配した夜空のようなガウンの予定だ。ふわりと広がった裾には星々のような金糸銀糸の刺繍が施されている。口にはしないが、実のところ、ライナスはこの新しいガウンで装ったアーレインの姿を至極楽しみにしていた。低俗な思惑が飛び交う社交界でライナスの楽しみといえば、めったに見られないアーレインの晴れ姿と、一緒に踊るダンスくらいのものなのだ。
　とりわけ、今宵から八夜を通して行われるのは〝新年の賀〟であり、衣装も髪飾りも靴も、すべて特別に気を配って用意した品々ばかり。アーレインは生来の美女ではないが、彼女の内側から閃く気質と流星のように印象的な双眸が、本人が凡々だと思い込んでいる姿をたいそう魅力的に輝かせている。そのあたりの事情は当人よりも、女中のマリサや若きエリオノーラ妃のほうがよくよく心得ているのだが。
　けれども、困惑顔でもどってきたアーレインは着付け係のマリサを従えておらず、しかも普段の室内着のままだった。
「……どうしたというんだ？」
「藍色のガウンが、ぼろぼろだったの」
「なんだって？」
　肩をすくめるアーレインの簡潔な言葉の意味が、ライナスにはわからなかった。
「今日着て行くつもりだったガウンが衣装箱の中でぼろぼろになっていたと、そう言ったのよ」
「どうして」
「……この子が齧っちゃったみたい」
　ライナスが覗き込んでみると、アーレインの手の中で震えているのは一匹のヒメネズミだった。たちまち眉間にくっきり二本の縦筋が刻まれたのが、自分でもよくわかった。
「ネズミが？　そんなネズミ、水につけてしまえ」
「冗談でだってかわいそうなことを言わないで頂戴」
　アーレインは手のひらでかよわげなヒメネズミをかばった。ますます、ライナスは気に入らなかった。
「どうしておまえの部屋にネズミがいたりするんだ？　マリサは掃除しているんだろう？」
「そりゃあもう。客間と間違えるくらいにまっさらになってるわ。マリサは念には念を入れて年末の大掃除をしてくれたのよ。でもこの子は、衣装箱に閉じこめられていたみたいなの。仕立て屋から、衣装にくっついてきたのかもしれないわ」
「なら仕立て屋に言って、すぐに代わりのものを持って来させるべきだろう」
「でも、仕立て屋に責任があるという証拠はないでしょう？　運搬の最中に、どこかから紛れ込んでしまったのかもしれないし」
「金具で閉じてある衣装箱にか？」
「魔術を学ぶ者はありとあらゆる可能性を考えるものよ」
　アーレインがつんと顎を上げると、彼女の肩によじのぼったヒメネズミが不安げに鼻をひくつかせた。ライナスはそのヒメネズミを忌々しく思いながら腕を組んだ。
「だが今は、そういったありとあらゆる可能性を議論している時間はないだろう。すぐに別の夜会服に着がえて来い」
「今日別のを着てしまったら、八日間のパーティでは間に合わなくなるわよ？　八着のうち三着がぼろぼろなんだから。足らなくなるのは、わかりきっているじゃないの」
「残りの三日に間に合わせるように修繕に出す。間に合わなかったら既製のものを買えばいい」
「また買うの？」
　アーレインは明らかにげんなりした。
「私、欠席しようと思うの。だって、高貴なお生まれ育ちのご婦人方のご不興をかうのをおそれるばっかりにまた大金使うだなんて、馬鹿みたいでもったいないでしょう？　お願いだから、ライナスだけで参加してきて頂戴」
　アーレインの欠席など、もってのほかだ。ライナスは即座に却下した。
「買うのがそんなにも嫌なら、エリオノーラ妃に借りればいいだろう。借り受けて、また後日何らかの形でお返しをすればいい」
　アーレインの熱烈な支持者であるエリオノーラ妃であれば、衣裳部屋につまっているすべての衣装を二つ返事で貸し出してくれるに違いないことを、ライナスは知っていた。
「おまえが出席できないというのなら、俺だって行くのをやめる。俺はおまえに留守番をさせておくのは、もうほとほと懲りたんだ」
　そんなの私だって充分わかっているわよとでも言いたげな視線で、しかし無言でアーレインはライナスを睨んだ。そうして無言のまま、次に何を口にすべきかを探りあう二人の間に、するどい呼び鈴の音が響きわたった。
「……誰？　こんな日に」
　新年の賀第一夜の当日ともなれば、どこの貴族も自分のことだけでせいいっぱいのはずだ。よりによって、シェルパーダ公爵のご機嫌取りにうかがう奇矯な者などいない。
　アーレインが肩にヒメネズミを乗せたまま様子を見に行こうとドアに手をかけると、同時にドアは勝手に開き、驚いたアーレインは反射的に飛びのいた。
「いったいどうなさったというのです？　陛下がお供もつけずに単騎でいらっしゃるだなんて！　使者をいただければ旦那様も奥様もこちらからうかがったでしょうに！」
　アーレインは目の前に突如現れた人物が誰であるかを見定めるよりも早く、彼の後ろから追いかけてきたマリサの息の上がった台詞でそれを知った。
「陛下ですって？」
　アーレインの正面に立っている少年じみたすらりとした体躯の若者は、顔を覆っていた頭巾を寸刻でも惜しむように乱暴にはぎとった。そこに現れたのは紛れもない、ルバート皇王その人の顔だった。
「何ごとか起こりましたか」
　ライナスが歩み寄って静かにたずねると、皇王は額に手を当てて激しくかぶりを振った。
「何かが起きた程度ではすまされないんだ」
「それは予測がつきます。陛下が御みずから供もつれずに公爵邸に単騎乗りつけられることなど、そうそうあることではありませんから」
「アーレイン殿」
　ルバートはうめきながら、すがるようにアーレインを見た。わけのわからないアーレインは目をしばたいた。なぜ公爵ではなく、一介の学院生でしかない私を見るのだろう？　
「エリイを知らないか？」
「…………はい？」
「だからエリイを、見ていないか？」
「エリオノーラ様を、ですか？」
「そうだ」
「アルソレイムにいらっしゃらないのですか？」
「……そうだ」
　アーレインはライナスと顔を見合わせた。
「今宵から新年の賀が始まるのでしょう？　それなのに、エリイ様がいらっしゃらないのですか？」
「どこにも見つからないから、友人であるアーレイン殿のところを訪ねているのではないかと思ったんだ」
「エリイ様に、パーヴェル皇子もご一緒なのですか？」
「いいや。パーヴェルは乳母のもとにいる」
「乳母の方はエリイ様から何も聞いていないのですか？」
「聞いているのなら私もこんなに心配はせぬよ」
「……パーヴェル皇子を一言もなしに人に預けて外に遊びに出て行かれるエリイ様ではありません。私のところにだって、いらしていないわ」
　アーレインが答えると、ルバートはふらふらとその場に崩れ落ちそうになった。それを両側からアーレインとライナスでささえて、なかば引きずるようにしてソファに落ち着かせた。
「エリイが……エリイが、消えてしまった」
　力なく皇王はつぶやいた。
「どうして……どうして。何の心当たりも、ないというのに」
　アーレインもライナスも前科の心当たりがあるだけに、どういった顔をしてよいものかわからなかった。
　アーレインはライナスと派手に喧嘩をやらかすと姿をくらませてしまうことがあったが、それは彼女がまじない師だからであり、公爵と町娘では身分違いだと気に病んでいたからだ。けれどもエリオノーラ妃はれっきとした皇王妃であり、在野のまじない師ではない。
　たとえ本当に夫妻間で剣突食わせあったとしても、今日は新年の賀当日だ。エリオノーラ妃は、そのような私的な感情のために公の行事から逃げ出すというようなことは決してしない女性なのだ。
　それだけに、皇王の心配がひとしおなのも理解できることだった。
――エリイ様の身の上に、なにかよからぬことが起きているに違いないわ――
　何とか手を打たなければ。皇王妃を救い出さなければ。しかしエリオノーラの身に何が起きているのか、今どこにいるのかすらわからないのだ。
　どう言葉をかければよいのか、まずは何をすべきかを迷っているアーレインの肩から、不意に何かが飛び降りた。ヒメネズミだ。ヒメネズミはテーブルの上で桃色の鼻面を懸命にひくつかせ、ルバートの目の前をくるくる走り回ったかと思うと、こぼれていたコーヒーのしずくを鼻先にくっつけてその鼻先で何やらテーブルに線を引き始めた。
「ちょっと、いったいどうしたというの？　コーヒーに酔っぱらったの？」
「ネズミはコーヒーに酔うのか？」
　何とか捕まえようとするアーレインの手をすり抜けて、ヒメネズミはルバートの胸もとに飛び込んでいった。
「私よりルバート様のほうがいいというのね。その子、きっと雌だわ」
「アーレイン」
　ささやかな憤慨をしているアーレインの腕をつかんで、ライナスはテーブルの一点を指さした。
「ここを見ろ」
　ライナスの指の先に視線を移す。しばらく何を見ろと言っているのかわからなかったが、〝それ〟が何であるのかを悟った途端、アーレインは目を見開いた。
　コーヒーのしずくでえがかれた曲線。いびつで、文字ともいえない文字だが、読めないことはなかった。〝エリイ〟と。
「あんたが、いえ、あなたが書いたの？」
　アーレインがルバートの襟元から顔をのぞかせているヒメネズミに問うと、ネズミはこっくりうなずいた。
「あなたはもしかして……エリイ様なの？」
　ちゅう。
　ヒメネズミはせつなげに、うなずきながら鳴いたのだった。
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