シェルパーダ公爵邸の図書室に樹海の樹木のように聳え立つ数々の書架の中から、アーレインはハルクメニア教授の著書『古式幻影物質具象化論』をすばやく探し当てた。その分厚く巨大な本を両腕でかかえるようにして、ライナスたちの待つサルーン（談話室）へと急ぐ。 「人間からネズミへの、物質変成再構築」 　アーレインは口の中でそっとつぶやいた。彼女は以前、カラスを黒馬に変じさせたことがあるが、魔術師でも何でもない��人間�≠�別のものに変じさせるというのは未知の領域だ。 　実際にアーレインは例のヒメネズミに触れたのに、ネズミはネズミのままで、術が解けるような気配はなかった。畏れ多くも皇王妃にかけられているのは、見せかけではなく、本質と知恵に基づいた本物の魔術に違いない。 　しかし、誰が皇王妃に術をかけたのか。 　何のために？　 　そして、どうやって？　 　サルーンに着くなり、アーレインはテーブルの上に巨大な本を広げた。 「『古式幻影物質具象化論』を見つけてきたわ。ここを見て頂戴」 　彼女はライナスと皇王に呼びかけて、目的のページをめくった。　 「魔術にはいろいろな種類があるけれど、その中に無から有を作り出す術と、もともとあったものを別のものに変化させるという術があるの。一見、まったく別の種の術に思えるけれど、その実、どちらも根本は同じ術なのよ」 　ライナスも皇王も魔術については専門の範疇外なので、わかったようなわからないような微妙な表情をしいる。アーレインはかまわずに続けた。ヒメネズミ・エリイが不安げな目をして、こちらを見上げている。 「無から有を作り出すというのはわかりやすく表現しただけで、実際はまったくの無から何らかの存在を生み出すことはできないわ。でも、世界はありとあらゆるもので満ちている。目には見えなくても、様々なものがそこかしこに存在しているのよ。この空気中にだってね。空気中には私たちが呼吸する酸素のほかに、火の気や水の気、風の素や土の素、金属の素などもただよっているの。本当はもっと細かくて複雑で正式な分類があるのだけど、そのあたりは説明したってわからないでしょうから無視して頂戴」 　言われるまでもなく、ライナスも皇王も異界の言葉のように複雑そうな魔術の専門用語については、疑問すら浮かばないらしかった。 「目に見えない空気中、大気中の気や素をさだめられた配列、順序、そして魔術師の引力によって紡ぎ合わせていくと、まったく無に見えた空間に物質が出来上がるのよ。その理論が物質具象化論。これを実際に紡ぎ上げるのではなくて、もっと簡単で略したやりかたでえがいて見せかけただけのものがいわゆる幻影、まぼろしなのよ。幻影はあくまで見せかけだから、触感まであると思い込ませることはできるけれど、それはやっぱり本当に存在するものではないの。だけど正しいやりかたと術式で必要な分の気や素を紡ぎ上げることができれば、たしかな存在物が出来上がるわ」 　アーレインはその存在物の構築過程を図式化したページをふたりに見せたが、ふたりとも理解できていないことは確実だった。 「……要するに、何もないように見えるところからでも魔術師はそこらにただよっている素だかなんだかを使って物が作り出せるということは、わかった」 　ルバートが苦しげに言った。アーレインは敬語を使うことをすっかり失念していたことにいまさらながら気がついて、思わず顔を赤らめた。 「申しわけありません、陛下。つい学院のディベートのときの癖が出てしまって……」 「かまわないよ、たのもしい魔女殿。エリイをもとにもどすためだったら、私が君に敬意をはらわなければならないくらいなんだ。気にしないで続けてくれ」 「……はい。ええと、どこまで説明しました？　ああ、そう、目には見えない気や素から物質を紡ぐことができるというところまで。つまり、何もないように見えるところから有を作り出せるのだから、初めから存在している何かを利用してそれを別のものに作り変えるということが、できないはずはないでしょう？」 　アーレインはヒメネズミ・エリイを抱き上げて、失礼にならないようにその背中をそっとなでた。 「このことをハルクメニア教授は、物質の変成再構築と呼んでいます。ライナス、ほら……私が前に、カラスであったスルスミを黒馬に変えたことがあったでしょう？　私はあのとき、変成だとか再構築だとかそんな難しい理論を考えたわけではないけれど、たしかに魔術師としてやってのけたわ。つまるところ、エリイ妃という存在が魔術の力によって素の単位から組みなおされてしまって、ヒメネズミという存在に変成再構築されてしまったということなのよ」 　アーレインがそう話を締めくくると、ふたりの青年は顔を見合わせてから、ほぼ同時に口を開いた。 「それって、大変なことじゃないのか」 「エリイはいったい、どうしてそんな術にかかってしまったんだ？」 　アーレインは肩をすくめた。 「とてもとても大変なことだし、私だってどうしてエリイ様がこんなことになってしまったのか訊きたいくらいよ。教えてくれる人がいるならね。……でも、きっと教えてくれる人なんて誰もいないんだわ」 「どういうことだ！」 　青ざめたルバートがアーレインにつかみかからんばかりだったので、ライナスは無礼を承知で皇王を押しとどめた。ルバートの唇は紫じみていて、震えているのがアーレインの目にははっきりと見てとれた。 「陛下、エリオノーラ様にかけられたこの魔術は現代のものではありません。少なくとも、百数十年から二百年以上前に紡がれた魔術です。今はすでに失われたはずの韻律が、術の糸に縒り込められています。おそらく、アルソレイム宮殿のどこかに秘められていた魔術が――昔、政争がたえなかった頃に、それぞれの派閥のおかかえの魔術師たちが政敵を打ち滅ぼすために宮殿内に仕掛けた魔術が――何かのはずみでエリオノーラ様に降りかかってしまったんだと思います」 「もとにもどすことはできるんだろう？」 　皇王を押さえたまま――というよりはむしろ今にもくずおれそうな彼を支えるようにしながら、ライナスが口にした。質問ではなく、確認だった。アーレインは大きくうなずいた。 「もちろん、もとにもどせるはずよ。……いいえ、必ず私がエリイ様をもとにもどしてみせます」 　アーレインはサルーンの椅子から立ち上がり、ハルクメニア教授が記した巨大な本を閉じた。ヒメネズミ・エリイがちょこちょことアーレインの腕をつたって肩に上がり、耳もとでチイ、と鳴いた。 「陛下は、宮殿におもどりください。そしてハルクメニア教授の協力を得て、宮殿内を調べさせてください。他にもこんな昔の仕掛けがあったら、誤作動しないように始末しなくてはいけませんから。それに今日から新年の賀の宴が始まるのでしょう？　ぐずぐずしていられる時間なんて、一刻だってありません」 「新年の賀は、今日は取りやめる」 　ルバートは弱々しく告げた。 「エリイがいないのに、どうして私だけが新年を迎え祝えるというんだ」 「陛下らしくない物言いですね」 　ライナスが少々荒っぽく皇王を引っぱり上げて立たせた。長身のライナスとならんで立つと、いつもならば堂々と見えるはずの若き王は、今はしょげ返ってしまい頼りない少年のように小さくかぼそい。 「陛下はヘイリアスの皇王です。皇王なのです。周辺には、表向きは友好国を演じていても、腹の中ではヘイリアスを王が青二才の軟弱な国だと軽んじている国がわんさとあるかもしれません。これ以上軽んじられるわけにはいかないのです。民のためにも、エリオノーラ様のためにも。……宴にご出席下さい、陛下」 　宴に出る出ないで言い合っていた自分たちのことをまったく棚上げにして、ライナスは力強く皇王を説得した。 「エリオノーラ様にかけられている魔術については、アーレインに任せておけば間違いありません」 　ライナスのハシバミ色の瞳がアーレインを強くとらえ、アーレインは緑褐色の瞳で見返した。アーレインはそのまなざしに力を得て、ルバートに必ずエリイ妃をもとにもどすと請け合った。 　自信があったわけではないが、きっと自分はやってのけるだろうという確信があった。 　薬草園の魔女にかかわったとき、弟と再会を果たすだろうという予感していたときの心持にそれは似ていた。

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