閑話、賭け、もしくはライナスの勝利

　　　閑話

　賭けを、していたのだ。
　アーレインとライナスは、他者から言わせてもらえばしようもないことを喧嘩に発展させることが大の得意であったから、たしかこの賭けも、そのようなしようもないことがきっかけだったように思われる。
「いいわよわかったわよ！　ここは平等に賭けで決着をつけようじゃないの」
　息巻くアーレインに、ライナスはうなずいて応じた。彼は卓上の花瓶に飾られたミニバラから赤と黄色のつぼみを摘み取ると、それを左右のこぶしに振り分けて、握ったこぶしを前に突き出した。
「右と左。どちらに赤い花が入っていると思う？」
　アーレインはライナスの右手を選んだ。彼が手を開くと、右手からこぼれたのは黄のつぼみ。賭けに勝ったのは、ライナスだった。アーレインは彼の左手のひらの赤いバラを、今にも炭にしてしまいそうな勢いで睨みつけていた。
　賭けに至った経緯は以下の通りである。
　その日、ライナスには、どうしてもはずすことのできない夜会の予定が入っていた。しかし一人で出席するのはどうしても気が進まない。アーレインを一緒に連れて行こうとしたのだが、彼女は断固拒否した。エンゲルバードの本屋に新しく入った古書を一番に見せてもらう約束を店主としてあるというのだ。そんなものいつでも見せてもらえるじゃないか、でも先約は先約なのよ、公爵の婚約者として出席してくれたっていいだろう、何よ私に約束があるときくらい一人で行ってくれたっていいじゃないの云々。
　結局賭けにはライナスが勝利し、アーレインは赤いミニバラをうらんだ。アーレインはすぐにもマリサに連れ出され、新作のドレスとやらをあてがわれ、着替え、化粧、髪結いと、少々ふてくされたまま順調に夜会への準備は進んでいった。
　明るいあじさい色のドレスの裾を整えながら、アーレインは今日履いていくべき靴のことを考えた。パールグレイの靴があったはずなのだが、デザインがいささか季節に合わない気がする。白では無難すぎるし、黒の夏靴はドレスの色に似合わない。これだから夜会服というのは面倒なのだ。山野に繰り出す服装ならば、厚織りの長衣と綿のズボン、膝下丈のブーツでこと足りるというのに。悩んでいると、ノックの音と共にドアが開いた。麦藁色の髪が隙間からのぞく。
「ちょっとライナス。私の返事も聞かないうちに、勝手に開けるのはどうかと思うわ」
「今日行くのは取りやめになった」
　ライナスは簡潔に言い、まぶしげに目を細めてアーレインを見た。すぐに憎まれ口の一つや二つ――支度が遅いだの、ドレスに着られているだの――ぽんぽん飛び出るものとアーレインは身構えていたのだが、憎まれ口ではなく何でもない状況説明が続いた。
「皇妃様のお具合がすぐれないんだそうだ。夜会は延期になると、いましがた使者が来た」
　拍子抜けしてしまう。夜会がなくなるというなら、先ほどの賭けは何だったのだ。
「……なんだ。そうなの？」
「そうだ」
　ドアを閉めると彼は歩み寄り、マリサに着付けられたアーレインの姿を観察した。それに満足すると、今度は両腕で彼女を抱え込んだ。
　近頃、ライナスはアーレインによく触れるようになった。はじめは遠慮がちに、いかにもどぎまぎと、手をとったり、そっと指をからめる程度だったのだが、今では堂々と背から抱きしめる格好で寄りかかってくる。塔に半ば幽閉されて孤独に育った彼にしてみれば、人肌の体温が憧れであり心地よいのだろうか。いやそれよりもライナスの場合、エリオノーラを溺愛するルバートに感化されたに違いないと、アーレインは考えていた。ルバートと皇妃の仲睦まじさは眺めていて微笑ましいが、時折度が過ぎて、見ているこちらが恥ずかしくもある。
「ライナス、重い」
「アーレインも俺にもたれかかればいい。そうしたら重さは相殺される」
「……いくら私がリンコレッタみたいに華奢じゃないとは言ってもね、あんたよりは軽いはずよ。相殺できるはずないでしょう」
　するとライナスは面白そうに喉で笑って、彼女の背中を解放した。アーレインは夏だというのに突然重みと温みが消えてしまったことに、不本意ながら寂しさを感じずにはいられなかった。くやしまぎれにつんとそっぽを向いて、やや乱暴にソファに腰を下ろす。ドレスの裾がまろやかにひろがり、淡い青紫の波のようにソファからこぼれた。
「賭けが、意味を成さなくなってしまったな」
　追って彼女のとなりに腰を下ろしながら、ライナスがつぶやいた。再び寄りそった体温は外気の温度に関わらず心地よいが、アーレインは返事をせずにただ見返した。
「夜会自体がなくなってしまったのだから、俺の勝ちは消化されないことになる」
「……いいじゃないの、別に」
「よくない」
　ライナスはどことなくむくれながら、
「勝ちは勝ちだ。賭けに勝ったのにそれに報いるものがないというのは、やっぱりおかしい」
「じゃあ、どうしろっていうのよ」
　その問いかけを待っていましたといわんばかりに、ライナスは突然機嫌をなおした表情で、アーレインの耳元にささやいた。
「今日夜会に出席するはずだったアーレインの時間を、そっくりそのまま俺にくれればいい」
　そうして時間をくれてやった結果が、これだった。目の前にあるのは、馬の黒いたてがみと手入れのゆきとどいた太い首すじ。
　アーレインはうなだれた。どうして一介のまじない師でしかない自分が、どこぞの貴婦人もしくはご令嬢のように貴公子の腕に抱かれて馬に横座りなどしなくてはならないのだ？　横向きでは正面を見るために首が疲れるし、姿勢がねじれて腰も痛い。しかも体は手綱をさばくライナスの腕に囲われていて、まったくもって自由が利かないのだ。飛び降りようにも、腰を浮かすことすらできない。
「遠乗りだっていうから、いいって言ったのよ。なのに何なのこれは！」
　恨めしげにアーレインはライナスを睨め上げた。
「どうして私が、あんたとおんなじ馬に乗らなくちゃいけないの？　一人一騎、遠乗りなら当然でしょう！」
「往生際が悪いぞ、アーレイン」
　ライナスはアーレインにダンスの稽古をつけているとき以上に楽しそうな表情で、
「賭けに負けたくせに、うだうだごねるな。おとなしく淑女を気取っていろ」
「私が淑女なんて気取ったら卒倒するのはライナスじゃないの」
「今日くらいはかまわない」
「……あんたの性格、ますます悪くなったわ」
「おまえのおかげだよ」
「宮廷の空気に毒されたに違いないのよ！」
　ああ水も空気も空もきれいなヘーデンに帰りたい！　そう嘆くフィアンセの髪に、ライナスは喜々として口づけた。ただでさえ息巻いて紅潮していた彼女の頬がさらにあざやかに赤みを増し、耳まで染まりゆく様子はかなりの見ものだった。

≪目次に戻る　　　　　 ≪indexに戻る　　　　　　　　　　　　　　　＜前へ　　次へ＞