| 若きエルンストの悩み |
エルンストはただ心奪われて、その美しい人を見上げていた。 薄く雲がかった空の下。ヴォルグクリフト侯爵邸の二階の窓辺で物憂げに遠くを見つめているその人から、エルンストは視線をはずすことができなかった。勿忘草色の憂えた瞳、淡い色合いの金の髪を清潔に結い上げた白いうなじ。乳色の額と頬、寸分の狂いもなく弧をえがいた眉。本当に美しい人だと、彼は思った。 そんな彼の視線に気づいたのだろう、美しい人は視線をこちらに落とした。エルンストは息が止まるかと思った。遠くを見遣るまなざしだけでも充分に美しかったが、こちらにそれが注がれるとなると、それは格別だった。 美しい人は、絹糸がしゃらしゃらと風に戯れるように快い声音で問うてきた。 「どうなさいました、お若いかた？ お時間がよろしいのでしたら、中にお入りになってお茶を召し上がっていかれませんこと？」 どんな受け答えをしたのか覚えていない。うなずくことができたのかすらわからない。だがエルンストは屋敷に招き入れられ、気がつけば美味しい紅茶と焼き菓子を頂戴していた。 「何とお呼びすればよろしいかしら」 たわいもない会話が一段落した頃。美しい人はにっこりと微笑んで、うながすようにエルンストを見つめた。なんて澄んだ色合いだろう。まるで、吸い込まれてしまいそうな。エルンストは勿忘草色の双眸に映り込む自身を呆然と眺めながら、 「エルンスト・ロシェ・コンラッド」 と必要最低限を答えるにとどまった。婦人は「まあ」と軽く感嘆の声をあげ、指先を口もとに当てた。 「コンラッド様のご子息ですの。どうりで。並々ならぬ立派なおかただと拝見しておりましたわ。――今年、十六になられたばかりだとうかがっておりましたけれど、お父上に引けをとらぬ、りっぱな剣の腕をしていらっしゃると」 エルンストはまたたく間に頬が、顔が、赤々と染まりゆくのを感じた。この美しい人に褒めてもらえるのならば、それが父の厳しい方針により必要に迫られて身につけざるを得なかった剣の腕前だったとしても、誇らしく思われるのだから不思議である。 「……あなたは」 おどおどとたずね返すと、彼女はそれはそれは美しくほお笑んだ。しかしそのどこかに、寂しく悲しげな気配が滲み出し、そしてすぐに掻き消えた。 「わたくしはメグダレーネ・ヴォルグクリフト。以後お見知りおきを、エルンスト様」 火照っていた頬からいっせいに血の気が引いてゆく。ざあっと血潮が引く音さえ聞こえるような気がして、テーブルクロスの下で彼はこぶしをかたく握り締めた。 ――この人が、ヴォルグクリフト侯爵夫人―― 侯爵夫人。無意識のうちに抱いていたそうでなければよいのにという希望は、無残にも打ち砕かれた。 ヴォルグクリフト侯爵夫人とのおしゃべりはフィルグ・アルティルの翼に触れられているかのように美しく心軽く、類いない時間ではあったが、それは夫人が夫人であるという現実から目をそむけなくては得られない時間であった。この美しい人の愛はすでにほかの人物のものであり、それを勝ち得る機会がないと知れた今、エルンストは失意のうちに屋敷に帰った。 「やあおかえり、エルンスト」 何とも運の悪いことに、屋敷には悪友のユーベリウスが訪れていた。彼は紅い唇をつり上げて笑い、足を組んでゆったりとソファにもたれかかり、紅茶の香りを楽しんでいるところだった。 ユーベリウスはエルンストと同い年の十六歳で、しかしこの若さでありながらこれまでに流した浮き名はとうに数知れない。類いまれなる美貌の持ち主の一種の生き方としてそれはいたしかたないことなのかもしれないが、少なくともエルンストはその生き方を軽蔑していた。いったい、何人の女性を泣かせれば気がすむのかと。すると悪友はこう答えるのだ。「僕が泣かせているんじゃない、彼女たちが勝手に泣くんだよ」。花街の女や城下の娘だけでなく、伯爵邸や男爵邸の若き奥方にも手を出すものだから、彼女らが泣く結果は当然とも言える。苦い恋にしかなりえないとわかっていながらどうして彼女たちに近づくのだと訊けば、悪友はこう答えた。「僕にとっては苦くも辛くもないんだ。泣くのは彼女らだけ。だって自分の立場をわかったうえで僕を招くのだから、彼女らは苦いのもあとで泣くのもわかったうえに違いないだろう？」。 悪友の恋のやりかたを軽蔑している。軽蔑していた。なのに。 ――どうしてこんなにも、あの美しい人に惹かれてしまうのだろう―― 苦くて辛いと、わかりきっているのに。 「めずらしいね、君がそんな思いつめた顔をしているだなんて。もっとも、しかめっつらはいつものことだけれど、思いつめるのとしかめっつらではまた別だからね」 どれどれ僕が話を聞いてあげよう。ユーベリウスは嬉々として身を乗り出してきた。エルンストはもちろん、ユーベリウスに話せるような軽い話ではないこの問題を話すまいとして胸にしまい込むことに決めた。 「……おまえに話すような話など、ひとつもない」 「それは残念だね」 顎の下まで伸ばした黒髪を揺らしながら、ユーベリウスはおどけたように言った。 「君の目は恋をした目をしているよ。だから僕が、有意義なアドバイスをしてあげられると思ったのに」 エルンストは呆然とした。呆然とした彼の顔を見て、ユーベリウスが愉快そうにくつくつと喉を鳴らした。 「君の目は恋をした目をしているよ」――見抜かれていたことに、無性に腹が立った。顔が赤くなるのではなく、青ざめた。その青ざめた頬を見てユーベリウスは笑うのをやめ、眉根を寄せて首をかしげた。 「顔色が悪いよ。大丈夫かい？」 「……大丈夫だ。ただ、今日は早く休むことにする。せっかく訪ねて来てくれたのにすまないが」 「ああ、それはかまわない。ゆっくり休みなよ、エルンスト」 紅茶を飲み干してユーベリウスは立ち上がり、エルンストの肩を軽くたたいた。 「――そう、思いつめるなよ。いつでも相談に乗るからさ。ことに、それが恋ならさ」 茶化すではなく、しごく真面目な声の申し出だった。 その日から毎日のように、エルンストはヴォルグクリフト侯爵邸にかよった。ヴォルグクリフト卿は日中アルソレイムに昇殿しており、午後はサロンで朋輩氏族と交流を図り、宵から夜半にかけては夜会に出る。屋敷にもどるのはいつも明け方近くだというので、エルンストは侯爵と鉢合わせる心配をせずともすんだ。なぜそんな心配をしなければならないのだろうと自分でも不思議であったが、夫人と穏やかに語らう時間を侯爵の帰宅により打ち切られたくはないとの思いはたしかであった。 公爵夫人と出会い、楽しくお茶と語らいで過ごすようになってふた月ほどたったころだろうか。エルンストはアルソレイムの回廊で悪友ユーベリウスに呼び止められた。ユーベリウスの普段ならばいたずらっぽく輝いているはずの赤褐色が、ひそやかにひやりと凍りついていた。 「エルンスト、悪いことは言わないよ」 彼は言った。 「君は、やめておくべきだ。純情な姫君でない――よりによって十二も年上の侯爵の奥方に恋焦がれるだなんて、苦しすぎるよ。僕のように遊戯を楽しむだけならばいい。でも、君は真剣なのだからね。それはよくないよ」 けれどもエルンストは悪友の忠告に耳を貸さなかった。いったいどこから噂を仕入れ、神聖な思いを捧げる相手がかの侯爵夫人であるとつきとめたのか、それが何ともくやしくてならなかった。 そのくやしさに煮えたせいかもしれない。ユーベリウスの忠告を聞いたその日に、エルンストは行動に出た。ヴォルグクリフト夫人がティーテーブルとそろいの椅子に腰掛けるやいなや彼女の足もとにひざまずき、こうべを垂れた。 「メグダレーネ様。どうかわたしを、あなたの騎士に」 彼が夫人をメグダレーネと名で呼んだのは、これが初めてであった。メグダレーネはおおと息をもらして顔を覆い、かぶりを振った。 「それはできぬことなのです。おお、エルンスト様。わたくしの夫はわたくしに、生涯騎士を持たぬことを誓わせているのです。自分がいるのだから騎士など必要ないだろうと、騎士を欲するとはそれすなわち不貞を働く気持ちがあるからに違いないと、そう邪推するのです。あなたがそのような目で夫に見られさげすまれるのは、わたくし、耐えられませんもの」 立ち上がり、顔を細い指で覆ったまま立ち去ろうとするメグダレーネのドレスの裾をたぐりよせ、ひざまずいた姿勢をくずさぬままエルンストは必死に訴えた。花のかんばせを覆う美しい指の隙間からかいまみえた勿忘草色の瞳には、涙がたまっていた。エルンストがドレスの裾に口づけると、メグダレーネは絶望的に肩を震わせて顔を背けた。 彼女は震える唇で、ささやいた。 「……なぜ、なぜこのままの穏やかな、幸福なお友達のままではいけないのです？ わたくしはあなたに、お友達であり続けてほしかったのに。わたくしに仕え侍る騎士などに、なろうと望んでほしくはありませんでしたのに」 言い終えるなり、ドレスからエルンストの手を振りほどき、逃げるようにして部屋から出て行ってしまった。 エルンストは唇を噛み締めたまま、しばらく動けなかった。どのようにかして立ち上がり、家に帰りついたに違いないのだが、どのようにして侯爵邸を退き帰ったのかはどう考えても思い出せない。 それから一週間というもの、彼は侯爵邸を訪ねなかった。ユーベリウスは何かあったに違いないと――ひょっとしたら何があったのかまでも――感づいていたようであったが、何も言わなかった。 八日目の朝。今日こそ訪ねていってみよう、先日の非礼を詫びてこれまでのように友人としてつきあってはいただけないかと頼んでみようと思いコンラッド邸を出ようとしたところで、エルンストのもとへ門衛が一通の手紙を持ってきた。 「差出人の名はありませんが、若君へのお手紙にございます。女手蹟（おんなで）ですから、お思い人でいらっしゃいますか？」 からかう門衛の手から手紙をひったくるようにしてとり、エルンストはあわてて私室に駆けもどった。封を開けることすらもどかしく思い便箋を広げてみるとそれは果たして、メグダレーネからの手紙であった。 夫に、ヴァルディアッドの監督官の任が宣ぜられました。突然のことです。はるか北方の土地ヴァルディアッドへ、わたくしも同行することが決まりました。 エルンスト様。あなたとお友達であったふた月あまりは、とても楽しい日々でした。これからもご活躍くださいますように、遠き土地よりいつもお祈り申し上げております。 何年ぶりかに、エルンストはぼろぼろと泣いた。ユーベリウスの正しさをこれほどまでに痛感したことはなかった。 |
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