| ミンストレル最後の夜 |
首都フィルガルタ、ファダール通りの店「ミンストレル」はいつものごとく華やかな照明と喧騒に包まれていた。ユーベリウスが扉を開けて入るなり、カウンター手前で繰り広げられている派手な殴り合いを観戦していた女たちは殴り合いをそっちのけにしてユーベリウスに飛びついてきた。たちまち右腕に二人左腕に一人、背中に一人がしなだれかかる。 「一週間も日をあけるだなんて、まったくご無沙汰じゃないの」 この店で一番化粧の濃い女が甘い声を出した。それは商売用の声であるはずのものだが、ユーベリウスに向かって発せられるときに限り、商売向けのときよりも二割増し甘くなる。 「寂しかったのよ。今までだったら、三日と来なかったことなんてなかったくらいなのに」 ユーベリウスよりもひとつふたつ若い年頃の少女――それでもこの道に入って三年だと言っていた――がかたちよい唇を尖らせる。実を言うと彼は、この少女の鼻にかかった喋り方が苦手だった。 鼻にかかった喋り方の少女を適当にあしらっていると、 「ねえ、今日こそあたしを呼んでくれるんでしょう？ ユーベリウス様ったら、いっつも年増ばっかりなんだもの」 その掛け値なしの美しさと真珠のような若さ、そして快活でありながら全身からくゆる色香ゆえに「ミンストレル」一どころかファダール通り一の人気を誇るリネア嬢がユーベリウスの首に白く華奢な腕を絡め、胸板に頭をもたせかけてきた。ふうわりと薫物が香る。 彼は、この手の店のご婦人方からの熱烈な歓迎その他、このようなあつかいには慣れている。慣れてはいるが、今日は心持ちがこれまでとはまったくもって違った。今日は彼女らやマスターに金を払うために来たわけではない。 ユーベリウスは気持ちを悟られぬように細心の注意を払いながら彼女らをぶらさげたままで、本題に入る前に喉をうるおそうとマスターにレモン水――アルコールではなく――の瓶を頼んだ。 腕に物騒な化け物の刺青を入れた男と、彼に掴みかかっていた筋肉のかたまりのような男が今頃になってやっと、新たに客が入ってきたことに気がついた。どんな客だ、肝の小さな餓鬼なら裸になるまで巻き上げてからでなきゃ帰してやんねえぞなどとそろって考えながら、扉のほうに視線を集中させた。するとそこには、彼らが取り合っていたリネア嬢を首からぶらさげた美男子がいるではないか。このむさくるしい男たちにしてみれば、みずからの楽しみを邪魔されることにおいては、ハンサムな男ほど憎らしい存在はない。ただでさえ荒かった鼻息が五割増し荒くなった。 「よぉ、兄ちゃん。まさか泥棒犬みてえに横からかっさらっていこうってんじゃねえよなあ？」 「まさかそんだけ全部お相手させるってわけじゃねぇだろう？ 身のほどをわきまえたほうが、け、け、賢明ってもんだ」 身のほどをわきまえなきゃならないのはどっちだと、胸の内でぼやく。 「心配にはおよばないさ」 ついさきほどまでいがみあっていた大男二人がたちまち共同戦線を張り、つめよってくる。ユーベリウスは彼らの生ぐさい汗の臭いにほとほと嫌になりながらも、冷静な声を保ち続けた。普段ならばならず者の一人や二人、締め上げて騎士団詰め所まで引っぱっていくくらいの労はいとわないのだが、今日はそんな気分ではなかった。 「僕は今夜、彼女たちと楽しみに来たわけではないからね。大切な話があって、それを伝えるためだけに来たんだ」 それを聞くとリネア嬢をはじめユーベリウスに絡みついていた女たちがいっせいに非難めいた嘆きを漏らした。対照的にいかつい男二人はにやつき下卑た笑いをのぞかせる。ユーベリウスはレモン水の瓶の中身をからにすると、彼を行かせまいとしていよいよまとわりついてくる細腕をやんわり一組ずつほどき、廊下へと足を向けた。 「マスター、僕にはリュナを」 「今、誰とも楽しみを共にしないって言ったばかりじゃないの。その舌の根も乾かないうちに、また年増のリュナなの？」 リネアが冷ややかな視線を向けてきたものの、ユーベリウスは黙って微笑んで見せただけだった。リュナは店の表には出てこない。奥の部屋で指名を待ち、指名がなければすすんで雑用をこなすような娘だ（「娘」とはいっても、年はユーベリウスよりも三つ四つ上だが）。そんなリュナに彼は、愛情ではないが親しげな好ましさを感じていた。 奥の部屋の中に入るまでもなく、その入り口のところでリュナはユーベリウスを待ち受けていた。深い、藍光りさえする黒髪。右の目も髪と同様の漆黒で、左の額から頬にかけてはいつものごとくガラス飾りのついた白い仮面をつけている。この仮面の下にはたちの悪い客から浴びせられた熱湯のせいでできたひきつれた傷痕があるのだということを、ユーベリウスは知っていた。この傷を持つために、彼女は店の表に出ることはないのだ。看板に立つのは、外貌の美しいリネアたちにまかせておけばよい 「大切な話って何かしら？」 彼女はむやみやたらにしなだれかかってくるような真似はしない。 「なんだか、別れ話でも切り出しに来たみたいな顔をしているわ」 ユーベリウスは驚いた。 「当たらずとも遠からず、ってところかな」 「へえ？ そうなの」 リュナは彼を部屋の中にいざなおうとはしなかった。彼女はよく人間ができている。だからこそ好ましいのだ。ユーベリウスは部屋の前に立ったまま、リュナに告げた。 「もう、僕はここには来ない」 「……そう」 リュナは静かにうなずいただけだった。 「高娼街に新しい女の子でも見つかったの？ ――それとも」 仮面についた、淡紅色のカットガラスが宝石が揺れる。 「それとも、あなたにとって本物の女の子を見つけたの？」 「……当たり」 へへっと、ユーベリウスは笑った。リュナの前では素直に笑える。彼女の存在はこのファダール通りにあって貴重だが、彼女よりも貴重な存在が今、ユーベリウスの胸の中央の玉座に座っていた。玉座に座る者の名はアゼル。アゼル・メシアナ・ロンディール。たった十二歳の、炎色の髪をした、烈火のように素直で激しくそれでいて暖かい炎のような少女。 「その女の子の騎士になったんだ。だから僕はもう、ここには来ない」 何も知らない十二歳のアゼルに恥じない騎士でいるためには、ミンストレルで大立ちまわりなど演じてはならないだろう。 「ええ。きっと、それがいいわ」 リュナが微笑んだ。仮面の下の目も、やわらかく笑んでいるに違いなかった。 「……お幸せにね、ユーベリウス」 リネア嬢や野卑な男たちが飲み騒ぐ店の表にもどる気にはなれずに、ユーベリウスはミンストレルの裏口からリュナに見送られて出た。お幸せにね、ユーベリウス。 「君もね、リュナ」 「あなたのような良いお客は、しばらくは見つからないわ」 だからこの店にいるかぎり、私があなたに贔屓にしてもらった今までより幸せになることなんて難しいのよ。――言外に込められた意味。仮面の下の火傷痕が無言で語る。世の中には、こんなことをする客だっているんだからね。 口調は軽やかだったが、「あなたのような良いお客は、しばらくは見つからないわ」――その言葉こそ彼女の本心だったのだろう。 以来、ユーベリウスがミンストレルに立ち寄ることはなかった。なのでその同じ夜、明け方近くになってリュナが店から姿を消したということも、彼は知らずじまいだった。 |
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