その手をとり髪に触れる許しを持つもの　

　普段よりも早く一日が終わり、宮廷の詰め所からアゼルのもとへ帰ろうとしたユーベリウスを、門の手前で呼び止める声があった。
「おういホウストン、ザルフィウムに行かないかい？」
　今日、ユーベリウスと同じく当番であった騎士二人が、ニヤニヤしながらそこに立っていた。エルンストは眉をひそめてそっぽを向き、ユーベリウスは苦笑いを浮かべた。苦い初恋以来エルンストがこういう物事に関して異様に潔癖なのを、ユーベリウスはよくよく知っている。騎士たちもまた、〝お堅い〟コンラッド卿には花街のすばらしさも何も通じないことくらいとうに心得ていた。
「遠慮しておくよ」
　ユーベリウスは肩をすくめて、ひょいと片眉を上げた。
「愛しいアゼルが待っているからね」
　すると騎士たちは顔を見合わせて、当然のように笑い声を立てた。
「あんたの姫君はまだ子どもだろう」
「十二になったばっかりじゃなかったか？」
「今年十三になったんだよ」
　ユーベリウスが修正しても、彼らの表情は変わらなかった。
「どっちにしたってお子様なことに変わりはないさ。なあホウストン、お子様に遠慮することはないだろう？　お子様の知らない世界で知識の外側の何をしていたって、失礼にはあたらないさ」
　エルンストの眼差しが彼らをさげすむような色を帯びたことにユーベリウスは気づいていた。エルンストは、幼なじみのアゼルがたとえ冗談であったとしても、どんなかたちであれ侮辱されれば黙ってなどいられない（彼女のことを悪く言い怒らせることができるのは自分だけの特権だと思っているふしが、彼にはある）。どす黒い毒を吐かんばかりのエルンストを視線だけでなだめて、ユーベリウスは二人の当番騎士に向きなおった。
「僕は、ザルフィウムはいまひとつ性にあわないんだ。どうせならファダールのほうがいいんだけど、やっぱり今日は遠慮しておくよ。子どもであれ老女であれ、淑女を待たせるというのは僕の主義に反するんだ」
「ザルフィウムの両手に余る娼妓だって、美貌と名高いおまえのことを待っているに違いないぜ、ホウストンよ」
　ユーベリウスはエルンストをうながし、彼らに背を向けた。そして騎士達に、肩越しにやわらかな微笑みを向ける。
「見ず知らずの女の子はいくらでも待たしておいていいというのが、僕の主義なんだ。よければ君たち二人でそんな彼女たちをなぐさめてやって、楽しんでおいでよ」
　それから後は、振り返らなかった。振り返る必要もなかった。
　馬に乗らずに、ユーベリウスとエルンストは街中を歩いた。こめかみに血管が浮き上がりかけたエルンストの頭を冷やすには、歩くだけの時間が必要だった。
「ああいう下衆には虫唾が走る。が……本当に、変わったな。おまえは」
　ロンディール家の屋敷の鉄門が見えてくるあたりまで来て、ようやくエルンストが口を開いた。
「いったい同じことを何度言えば気がすむのかなこの御仁は」
　ユーベリウスは照れたように笑い、こめかみをもんでいるエルンストを見つめた。
「変わったことを一番よく認識しているのは、僕自身なんだよ」
「……ああ。そうだな」
　アゼルの騎士になる以前のユーベリウスの女癖が悪いことは、自他共に認める事実だった。エルンストはしみじみと悪友を見つめ、こめかみの髪を撫で付けた。
「変わってくれて、よかったと思っている」
　ユーベリウスは破顔した。
「僕があのままだったら、たぶん君に殺されていたよね」
「…………」
　エルンストは眉を軽くひそめただけで、是とも非とも言わない。しかしアゼルという主人を持ちながら女遊びをユーベリウスが続けていたなら、エルンストが黙っていないのは火を見るよりも明らかに違いないと彼は確信していた。
「だって、君の可愛い妹分でしょう？」
「ただの幼なじみだ」
　エルンストが憮然とそう言うのは、いつものことだった。
「ただの幼なじみだったとしても、僕がつい今さっき、彼らといっしょにザルフィウムに行ったとしたら、君は黙っていられる？」
「おまえは行かなかったじゃないか」
「だから、たとえばの話さ」
「そんなことはありえないんだから、考えるだけ無駄だろう」
「……以前のままの僕だったら、迷いなくついて行ったんだろうけどね」
　どうしてかな。自分でも不思議げにつぶやいて、ユーベリウスはおのれの両手のひらを見た。アゼルのやわらかな丸みのある頬を、炎色のつややかな髪を、薄く柔らかなまぶたを、撫でることをゆるされた手のひら。娼館にのこのこ行ったとしたら、同じこの手を、アゼルにはたして差し出せるだろうか。
　ユーベリウスは小さく頭を振った。
「きっと、アゼルをけがしたくないからだと、思うんだけど。その気持ちだけでこれだけ変われるって、すごいと思わない？」
　門衛に挨拶をしてロンディール邸の敷地に入ると、不意に、ささやくような話し声が聞こえてきた。大人のそれではなく、妖精が輪になってささやきあっているような、小さく軽やかな幼さの残る声音。
「アゼル？」
　ユーベリウスとエルンストは顔を見合わせて、あたりを見まわした。そしてライラックの茂みに炎のような鮮やかな赤がちらちらと映るのを見つけたとき、彼らは示し合わせたわけでもないのにそろって口をつぐみ、そろそろと気配を忍ばせて近づいた。
　ライラックの陰に隠れこそこそと誰かと内緒話をするなど、炎色の髪をした十三歳の姫君には不似合いな振る舞いだった。彼女が屋敷の外にいるときはたいてい、剣や乗馬の稽古をしているのでなければ、塀や樹木によじ登って高いところで読書していたり、畜舎につないである犬を放してじゃれあっているかだというのに（そして女中がそれを見つけて悲鳴をあげるのだ）。
　ライラックの茂みから向こうを覗き込むと、アゼルのとなりに座り彼女と話していたのは、なんと姫君の弟であるクルゼイルだった。金褐色の髪に深い森の葉色の双眸。アゼルとはまったく似ても似つかない容貌だったが、双子の弟であるはずのキャストンとも彼はまた似ていなかった。まったく同じ顔をしているはずであるのに、クルゼイルとキャストン双子の兄弟は、まるで印象が異なる。クルゼイルは少女のように線が細く、切れ長の瞳は十二歳の今からすでにさかしさを宿しており、その目もとは大樹の陰のように涼しげだった。それに対し、弟キャストンの緑の目はいたずら盛りの仔猫のようによく光っており、侍女が朝によくよく梳かしつけた髪もいつのまにか遊びまわってくしゃくしゃにしてしまう。クルゼイルの面影はどちらかと言えば妹のムーンレーナ寄りで、一方キャストンの面差しは、髪色も目の色もまったく違うものの、どこかアゼルに通じるものがあるのだった。
「ねえ姉上。姉上は、もうひとり騎士が欲しいとは思わない？」
　クルゼイルが頬を寄せて、アゼルにたずねた。
「姉上と年が近くて、もっと、一日中近くにいることができて、絶対に姉上を裏切らない騎士。どう？　いらない？」
　それを聞いてユーベリウスは目を細め、エルンストは片眉を跳ね上げた。
「あれは……自分の姉さんを口説いているのかな？」
　ユーベリウスのささやき声は愉快そうであったものの、その赤褐色の瞳が凄みを帯びて光っているのをエルンストは見逃さなかった。
「子どもの戯れじゃないか。しかもあれはアゼルの弟だ」
「案外本気かもしれないよ。子どもだからこそ、そういうところは油断ならない」
「クルゼイルに嫉妬してるのか？」
「そんな大人気ないことを僕がするとでも？」
「なんだ、わかっているじゃないか」
「いや、大人気ないとわかっていながら嫉妬しているんだよ、これが」
　エルンストが何をするよりも先に、ユーベリウスは茂みから姿を現してしまった。そのままアゼルたちのほうに歩み寄る。アゼルはその気配に気づいて振り返ると、ぱっと顔を輝かせた。
「ユーベル！　早かったじゃないの」
　ユーベリウスは彼女の腰に手をそえるなり、ひょいと抱き上げた。炎色の髪がきらめきながら流れ落ち、アゼルの背中で跳ねた。
　エルンストは出て行くタイミングを逸して、そのまま茂みの陰に残っていた。だからこそ見てしまったのかもしれない。十一、二歳のまだあどけなさを残す少年がその深い緑色の目に嫉妬と悲しみと独りよがりの思いをないまぜにした気色をたたえて、幸福そうな姉とその騎士を見つめているのを。
――俺と同じような、手痛く苦い思いをしなければよいが――
　エルンストはユーベリウスをアゼルのもとに残して、門の外へと出た。風に混じるライラックの葉のさわやかな香りとは裏腹に、胸の奥は、自分の軽率さと浅はかさを何度でも突きつけられる恋を思い出したせいで苦々しく、重苦しかった。
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