| 序章、十五歳の冬 |
たいそう近くでユーベリウスの声を聞いた気がして、アゼルはぱっちりと目を覚ました。こんな時間にユーベリウスの声を聞くなど、ありえない。アゼルが眠っている間に彼女の寝室に入ることを許されているのは母と妹のムーンレーナ、女中頭のイギーだけだ。血を分けた弟たちでさえ数年前からアゼルに断りなく寝室に入ることはしなくなった。紳士淑女とはそうあるべきなのだと、イギーから姉弟一同重々教わっているのだ。紳士の振る舞いに人一倍気を配っている（はずの）ユーベリウスが乙女の部屋に無断侵入するはずがないと、アゼルは確信していた。 それだけではない。今、ユーベリウスは首都フィルガルタにはいないはずなのだ。十日ほどの予定で、遠地におもむいている。首都の騎士ではなく、政治の中枢都市オールヴィースの機関員精鋭として、数日前に果ての地イルヴェラントへと発っていた。アゼルの憧れの土地〝イルヴェラント〟。吟遊詩人たちに歌い継がれる伝承の眠る場所。紳士（であるはず）のユーベリウスがアゼルの部屋に無断侵入を図るなど考えられないという以前に、彼はそのイルヴェラントに駐留しているはずで、首都を留守にしているのだ。 ――さっきの声は、きっと夢だ。空耳だ―― アゼルは自身に言い聞かせた。しかしどこか、おそろしく落ち着かない。 ベッドサイドの小さな照明をつけて、窓際の柱時計に目をこらす。午前五時を十五分ほど過ぎている。真冬のこの季節ではまだ夜明け前だ。一番冷え込む時間帯でもある。室内空調は二十四時間快適な温度を保証してくれるので寒くはないはずだが、アゼルは背すじに薄ら寒い気配を覚えていた。悪い予感のようなものに似た何かが、背を這いのぼっていくような。ベッドから下りて、自身の肩をさすった。奥歯がわずかに震えて鳴っている。 「アゼル」 今度ははっきりと、間違いなく彼の声をとらえた。アゼルは驚いて振り向いた。鏡台の前のストゥールに腰掛け、長い足を優雅に組んでこちらを眺めているのは、アゼルが寝ぼけているのでなければ確実にユーベリウスだった。こんなにも美しい貴公子が、そんじょそこらに転がっていてたまるものか。 「ユーベル！」 「おはよう、我が姫君」 どうして、どうしてユーベルがここに？ その問いかけが彼女の口から飛び出す前に、ユーベリウスはアゼルを抱き寄せた。あまりにいきおいよく抱き寄せられたので、アゼルは彼の胸板に鼻っ柱をぶつけてしまった。――痛い。やはりこれは夢ではない。 ユーベリウスはアゼルの頭を強くかかえ込み、彼女の前髪に唇を寄せた。ひとつ、ふたつ、みっつ。口づけは優しいが、あきらかにおかしかった。夜明けにことわりもなく彼が部屋にいることも、こんなにも強く彼女を抱きしめることも。いつもならばやわらかな毛布のようにアゼルを包むユーベリウスの手が、背に、髪に、爪を立てて食い込む。口づけがまぶたに触れる。こめかみに唇が押し当てられ、アゼルはそこから、ふわりとしたぬくもりでも血管が燃えるような熱でもなく、脊椎を急降下するような冷え冷えとした感覚を覚えた。 「ユーベル」 アゼルはあわてた。彼からよくよく話を聞かねばならないと思った。 「ねえユーベル」 「アゼル」 彼は低くつぶやいて、アゼルの夜着の背中を撫で上げた。その手のひらに感じられるのはいつくしみに満ちた温かさではなくて、苦しみの中で助けを求める者が、必死に何かにすがりつくような非常に切迫した気配だった。 「ユーベル！」 ユーベリウスはひときわ強くアゼルを抱きしめると、そのまま彼女を抱き上げた。突然のできごとに、ただでさえユーベルのただならぬ様子に驚かされているというのに、アゼルは仰天した。ユーベリウスがアゼルの膝裏と背に手を当てて抱き上げるなど、彼女が十二歳のとき以来絶えてなかったことであるのに。それは彼女が、妹ムーンレーナのように繊細で華奢な体格ではなかったために、体重がユーベリウスの腕に負担になるのではと思い、ことごとく遠慮していたからなのだが。 「どうしたの。本当にどうしたのユーベル」 アゼルは間近にあるユーベリウスの美しい赤褐色の目をのぞきこんだ。ユーベリウスは彼女を見つめ返した。長い睫毛にふちどられた、涼やかな瞳。その瞳はふっと細められて、彼はアゼルの頬にみずからの頬をすり寄せた。 「……ごめん。我が姫君」 耳もとで彼の唇が動いた。 「なに？」 なんのこと？ 「ごめん」 何が「ごめん」なのか、なぜ彼がここにいるのか、どうしてこのような状況におちいっているのか、まだ何もわかっていない。ユーベリウスは混乱するアゼルを胸の前で抱いた格好のまま、ゆっくりとベッドに腰を下ろした。 「約束が、果たせなくなったんだ」 ぽつりと、ユーベリウスが告げた。 「ねえアゼル。あなたと一緒に旅に出るという約束は、もうどうしたって果たせなくなってしまったんだよ」 ユーベリウスの胸に腕に抱きすくめられながら、アゼルは息の止まる思いだった。「あなたと一緒に旅に出るという約束は、もうどうしたって果たせなくなってしまったんだよ」――どうして？ なぜ？ あれほどまでに約束したというのに！―― 「どういうこと？ だって、ずるいじゃないの。ユーベルだけイルヴェラントに行って、私を連れて行ってくれないのは、どうしたって、ずるい」 「だから――ごめん」 「ごめんですべてがすんだら騎士団はいらないわ」 「うん、わかってる」 「わからないのよ、私は」 嫌な予感が、この世で一番恐ろしいことを知らせる予感が的中してしまいそうで、アゼルは激しくかぶりを振った。小さな子どもが、いやいやをするように。 「わからないの。どうしてユーベルとイルヴェラントに行けないの？ 一緒に鐘を鳴らしに行けないの？ ねえどうして」 十二歳の子どもにもどってしまったようだと、アゼルは自分で思った。子どもが駄々をこねているのと同じだ。勝手に涙があふれてきた。泣けばユーベリウスがなぐさめてくれるのはわかっている。そして泣き止むまで頭を撫で続けてくれることも知っている。彼を引きとめようとして、本能的に涙が流れ出したのかもしれない。 ユーベリウスは本当に、心底弱った面持ちで、アゼルを抱きすくめる腕の力をゆるめた。片手でアゼルを支え、片手で炎色の髪を優しく優しくなだめるように撫でながら、唇で涙のしずくをていねいにぬぐい去った。それでも、彼女の「どうして」には答えなかった。 「……夜明けまでは、僕も、ここにいるから」 彼は言い、アゼルを自分の膝の上からベッドへと移した。アゼルは何かを言わなければと思い、しかしその何かが思いつかないながらも身を起こしたのだが、ユーベリウスに押しとどめられ、毛布をかけられてしまった。 「おやすみ。我がいとしい姫君、アゼル」 両目尻と唇の左側にキスを落とされ、アゼルはしゃくりあげた。ただただ恐ろしかった。未知の、暗い予感が。 それでも、髪を撫でるユーベリウスの手は、そんな彼女のおびえをとり去ろうというようにとても優しかった。いつも優しいが、さらに、今までで一番優しかった。 夜が明けゆく。いつの間にか、アゼルは眠ってしまっていた。恐ろしい夢を見たような気がするが、その恐怖から「彼」の手が救い出してくれた。やわらかな暁光をまぶたの向こうに感じる今は、不自然なほどに甘やかな幸せが胸に残っていた。 |
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