剣納の儀のない日の教堂には、騎士服ではなく平着を着用したアゼルの姿がある。コットンブラウスに、群青のローブスカート、鹿革の短靴。腰に剣帯をつけてはいるが、長剣を提げているわけではない。騎士らしい長剣の代わりに、肘から指先までほどの長さしかない自衛刀を帯びている。 　静かだ。フィルグ・アルティルの双子神に祭日でもないのに祈りを捧げにくる信心深い信者など、今となってはめっぽう少ないのだ。半世紀も前ならば毎日毎晩祈りに訪れる熱心な人々はめずらしくもなかったそうなのだが、現代においては貴重種だ。人によっては、祭日以外の日に教堂にもうでる信徒がいれば、指差して狂信者だと笑うかもしれない。アゼルの務めは教堂内の警邏(けいら)と、ここ数十年の記録文書の整理、そして諸々の雑事。信者の案内と信者が来た際の祭司との連絡役という役割もあったはずなのだが、それはこれまで、ほとんどないと言い切ってよかった。 　アゼルは堂内のすみに据えられた椅子に腰を下ろしたまま、ぼんやりとフィルグ・アルティルの双子神像をながめた。大きな教堂では最高級の白大理石の神像が一般的だが、このように小さな御堂では木製が普通だ。 　すべてのものの親であり、世界の始まりでもあるフィルグ・アルティルの双子神。神々の世界――月の楽園に月光石の宮殿を築き、その玉座に双子神はそろって座しているとされる。神典によれば、原初の闇の澱(おり)が凝り固まって生まれたのがこの双子神で、有翼の美しい女神と男神が胸と腹の部分で一体化し、四本の腕を上下左右に向けている。男神の手のひらは水平を示すように広げられ、女神は天と地を指し示す。これは女神が天と大地を司り、男神が大海原を司ることの表れなのだと伝えられている。放射状に広がる翼は、もともと背中でくっついた格好で誕生した女神と男神が、お互いの顔を見ることも抱き締め合うこともかなわない自分たちを嘆き、力ずくで背の肉を裂いて分かれた際に生じた血しぶきが変じたものなのだとか。ようやく抱き合うことができた双子神は満足し、二度とはなれまいとして今度は互いの腹と胸を縫い合わせた。血しぶきから変じた翼の羽根のひとひらひとひらからは天使が生まれ、腹と胸の縫い痕からこぼれた血より人間が生まれたと、神典には記されている。 　フィルグ・アルティルの双子神にも翼はあるが、そういえば、イルヴェラントの伝承に登場するのも��翼を持った神�≠ﾅあったと、アゼルは思い出した。そして、鐘楼から落ち行くユーベリウスの背にも翼が生えていたと聞かされたことも、思い出すに至った。 ――落ちゆくホウストン卿の背に、翼が生えていたと。ホウストン卿は翼を得て、その魂は月の楽園に帰って行ったのだと―― ――もしかしたらユーベルは、本当に天使になったのかもしれない―― 　フィルグ・アルティルが統べる月の楽園で、今頃ユーベリウスは何をしているだろうか。アゼルは月の楽園で幸せそうに笑っているユーベリウスを想像しようと試みた。けれども、できなかった。ユーベリウスの姿を思いえがくと、たちまちその両眼が琥珀色に変わり、廃屋の中でアゼルの差し向かいに立つ姿にかき消されるのだった。 ――ルシフィエ。ユーベリウスにそっくりの、不思議な人―― 　ルシフィエの背中に、翼が生えたような裂き傷はあるのだろうか。 　「数日中にむかえにいく」とルシフィエに言われてから、すでに一週間が過ぎていた。何ごともないのっぺらぼうの毎日が、何ごともなくアゼルの傍らを通り過ぎていた。ルシフィエは、私のことを忘れてしまったのかもしれない――アゼルはどことなく寂しいような、しかしどこかほっとするような気持ちで、壁際の神典台の引き出しから一枚の便箋をとりだした。突然姿を消すことを祭司長に詫びる言葉が数行書かれただけの置手紙。役立つ日は、来ないのかもしれない。 　やはり今日も何ごともなく一日が終わる。アゼルは教堂を出る前に、フィルグ・アルティルの双子神像を振り返った。アゼルはことさら信心深いわけでもないが、まったく無信心というわけでもない。ユーベリウスを思って双子神の前で膝をつき、神典の聖句を唱える正式なやりかたで冥福を祈ったことが幾度もある。けれども、ルシフィエと出会ってからというもの、ユーベリウスへの冥福の祈りを唱えるのを、略式ですらもう何日も失念していると気づいて、アゼルはどぎまぎした。ユーベリウスにひどく申し訳ない気がした。フィルグ・アルティルの男神の目見(まみ)がどこかしらユーベリウスと似ていて、苦笑されているようにさえ思われた。アゼルは男神の目から逃げるようにして教堂を出た。 　屋敷に帰るまでの道中、アゼルはずっと落ち着かなかった。誰かに見られているような気がしたのだ。視線を感じて前後左右、カロリテの鞍の上から首をめぐらせて怪しい人影を探してみたものの、見つからなかった。フィルグ・アルティルの男神の目が追いかけてくるわけでもあるまいに――アゼルは馬腹を蹴って、カロリテを急がせた。 　屋敷にもどるとすぐにカロリテを馬丁にあずけ、彼女は居間にも顔を出さずに自分の部屋へと引っ込んだ。「アゼル様、お茶をお持ちいたしました」イギーが呼びかけても、気分が悪いからいらないとそっけなく応えただけで、部屋のドアを開けもしなかった。開けないついでに、イギーが立ち去ったあとには鍵もかけた。 　ベッドの下には、布製のかばんに着替えと固パン、干した果物と水筒を詰めて隠して置いてあった。水筒の水は毎朝使用人たちの起き出すよりも前にこっそりとベッドから抜け出て、この一週間忘れず常に新しいものに変えている。準備はとうに出来あがっているのだ。ルシフィエについてイルヴェラントへ行き、ユーベリウスの死の真相を突き止めるための準備が。しかし��数日�≠�過ぎたと思われるのに、今のところ、ルシフィエからは何の連絡もない。 　剣帯もはずさずにベッドに倒れこんで、アゼルは天蓋を見上げた。窓の外では、オレンジと藍色が交錯している。日がどんどん暮れてゆく。藍色がさらに面積を増したとき、「アゼル様……お夕食のお時間にございます」イギーが今一度部屋の前に訪れたが、今度は寝たふりをして返事もしなかった。イギーの気遣わしげな言葉が扉越しに聞こえてきたときには申しわけなさでいっぱいになったが、それでも黙ったまま、ベッドから動かなかった。 　そういえば、今日両親はそろって夜会の誘いを受けていたはずだ。ムーンレーナも一緒に出席していることだろう。弟たちはどうしているだろうか。屋敷の中が静かなので、双子ながら性格のまったく異なる弟二人とも、まだ帰っていないのだろう。アゼルは目を閉じて、大きく息を吐き出した。そして眠りに落ちようとした瞬間、物音に体がこわばった。 　足音。バルコニーへと続くガラス戸が開けられる音。 　ここは三階だ。足がかりになるような大木が近くに植わっているわけでもないので、盗人が入ることもないだろうと思い、掛け金などいつもかけていない。 　眠気が一気に吹き飛んで、アゼルは飛び起きた。心臓が弾かれたように、肋骨の内側で跳ねまわっている。 「誰！」 　ベッドサイドの明かりをつけると、まず、薄金色のふたつの瞳が閃いた。やわらかな微笑みをたたえて。アゼルは、不謹慎かもしれないがフィルグ・アルティルの男神よりもずっと彼のほうが美しいと思ってしまった。 「アゼル。待たせてしまって、ごめん。むかえにきたよ」 　ルシフィエが、ガラス戸の前にたたずんでこちらに手を差し伸べている。ユーベリウスとまったく同じしぐさで首を傾げ、アゼルに笑いかけている。 『つい昨日まで見ず知らずだった男に一人で会いに行くなど、アゼルらしくもない。おまえの考えなしの行動を聞き知ったら、ユーベリウスは泣くぞ。どうしてユーベリウスと顔が似ているというだけで、初対面の男に無防備になれるんだ？』 　エルンストの眉間の皺と、怒りのこもった口調が思い出される。本当に、どうしてこうも疑うことなくついていこうと決めてしまえたのだろう？　自分でも不思議だった。両親が心配するに違いないということも、何度となく考えた。だが、ユーベリウスの死に際していったい何が起きたのかを知るためには、ルシフィエとともに行くのが一番の近道であり、同時に唯一の道であるような気がしてならなかった。 ――お父様、お母様、ごめんなさい。我がままを許してほしいだなんて言わないけれど、許さなくていいから、心痛で倒れたりしないでね―― 　ユーベリウスの死の謎だけでなく、ルシフィエという人物にもアゼルは興味があった。このルシフィエがなにものであるのか、ユーベリウスの死についての詳細を知っている理由は何なのかを知ることが、月の楽園へ旅立ったユーベリウスに近づくことにもなるような気がしたのだ。 「遅い」 　恨みがましく、アゼルは言った。 「もう来ないと思ったわ」 「ちょっと邪魔が入ってしまってね、なかなか準備が整わなかったんだ」 　ルシフィエは弁解し、アゼルの手をとった。彼の手は冷たくはなかったが、血が通う熱さも感じられなかった。それがとても奇妙に感じられた。 「邪魔って、誰が？」 「それはあなたが知らなくてもいいことなんだよ」 　どのようにルシフィエはバルコニーに入ってきたのだろう？　アゼルの部屋の近くに、ここまで登ってこられるような大木はやはりなく、足がかりとなる壁飾りも彫刻もない。下から外壁をよじ登るのはまったく不可能に近い。ならばルシフィエは、空から舞い降りてきたとしか思えないのだ。 「イルヴェラントへ行くんでしょう？　どうやって行くの？　それにまず、ここからどんな手品を使って脱け出すつもり？　警備兵や門衛は王城の選りすぐりの衛兵には及ばないかもしれないけど、一流には違いないわ。そう簡単には私たちを見逃してくれないと思うけれど」 「見逃されなくたって、追いつかれなければ問題ないさ」 　ルシフィエは笑みを深くして、アゼルをぐいぐい引っぱった。バルコニーの外へ出るようだ。 　ルシフィエの指先がガラス戸の枠に触れたとき、部屋の扉が硬質な音を立てた。敲き金の音だ。コンコンコンコン。四つ、連続的に細かい間隔で敲くという特徴的なノックをするのは、ひとりしかいない。エルンストだ。 「アゼル」 　エルンストの低い声が、扉を通り越して部屋の空気を震わせた。なぜエルンストが来ているのだろう？　幼い頃からエルンストがロンディール家を訪ねてくるのは何もめずらしいことではないが、今日は一家の半分が夜会に出かけてしまうので、留守番のアゼルを心配した父侯爵があらかじめエルンストに来てくれるよう連絡してあったのかもしれなかった。もしくは、イギーがアゼルの仮病を見抜いて呼んだのかもしれない。 「アゼル、起きているんだろう？　子どもみたく意味もないのにへそを曲げるのはいい加減にしろ。イギーが心配している。侯爵閣下だって、夜会からお帰りになって今日のおまえの様子をイギーから聞けば、当然心配なさるだろう。とっとと下りてきて、何か口に入れろ。何ならそのあと薬を飲んだっていい」 　理性的な説教に、アゼルはむくむくと苛立ちがわきあがってくるのを感じていた。 　エルンストの考えは、大人だ。それだけに、理不尽さを覚えるのだ。思うままに行動することを全否定される苛立ちと悲しさを、エルンストはわからないのだろうか。 ――エルンストはきっと正しい。でも私は、ユーベリウスがどうして死んでしまったのか、本当のことを知らないでいられるほど、人間できてはいないのよ！―― 「アゼル、理由もなく不貞寝(ふてね)をするのはもうよせ」 ――どうして不貞寝に理由がないだなんて決めつけられるの？―― 「アゼル！」 「いい加減にするのはあんたよエルンスト！」 　思わず、彼女は叫んでいた。となりでルシフィエがあーあと息を吐いたが、いまさら奔流はとめられなかった。 「あんたは何にもわかっちゃいないわ！　私がどういうつもりで毎日教堂にいたかわかる？　フィルグ・アルティルの前で膝をついて何を祈っていたか、エルンストは知ってる？　知らないでしょう？　知らないくせに、ユーベルのことで私にあれこれ偉そうに指示しないでよ！　私はただ、ユーベルの本当のことが知りたいだけ。三年前のあの日、ユーベルに何が起こったのか、知りたいだけなの。私を止めたかったら、どうしてユーベルそっくりのルシフィエが私の目に現れたのか、ルシフィエがユーベルとはまったくの無関係で私をかどわかそうとしているだけのならず者だってことを、証明して見せなさいよ！」 　ルシフィエに手を引かれて、アゼルの体はバルコニーに踊り出た。エルンストは激しくドアノブをガチャガチャやっていたが、鍵がかかっていてらちが開かないとさとったのか、廊下を走り去ってゆく足音が聞こえた。 「派手なことを言ってくれたね」 　ルシフィエは苦笑いだった。 「アゼルは、本当に僕を信じているの？」 「信じる信じないの問題じゃないのよ」 　彼女は骨ばったルシフィエの手のひらを握り締めた。 「理屈では解き明かせないことも、きっとあるの。エルンストが言っていることは正しいと思うし、お父様やお母様を心配させる自分の行為が正しくないこともわかってる。でも、あんたが現れてユーベルは殺されたんだって聞いたときから、こうなることはきっと決まっていたのよ」 「…………実はね」 　ルシフィエが夜空を見上げた。春の夜に不似合いな、満天の星空だ。 「僕は、アゼルが嫌だと言っても、今日はさらっていくつもりでいたんだ」 「どうして？」 　夜空からアゼルの上にと移された視線。そうすると琥珀色の双眸が影になり甘やかにやや赤みを帯びて、飴色に光った。 「そうしなくちゃいけないわけがあるからだよ。でも、アゼルが一緒に来てくれると決めてくれて、よかった」 　彼が目を閉じたなら、本当にユーベリウスと間違えてしまうだろう。声の抑揚も、話し方も、首の傾げ方も、アゼルに注ぐ視線の角度も、何から何まで、ユーベリウスの癖そのままなのだ。懐かしいその呪縛にひたっていたい気持ちと、早くここを離れなければという気持ちとが拮抗したとき、アゼルはベッドの下に隠していた旅の荷物の存在を思い出した。 「ルシフィエ、ちょっと」 「他人行儀にルシフィエでなくて、フィーと呼んでほしいとこんなにも言っているのに」 「フィー、準備しておいた荷物があるの。ベッドの下に。ちょっと、持ってくるわ」 　ルシフィエの手をゆるく振りほどいて、アゼルはベッドの下に走りこんだ。布製のかばんを引っつかみ、バルコニーに舞い戻る。緊張の走ったルシフィエの横顔に何ごとかと思いバルコニーの下を覗き込むと、なんとエルンストがこちらを睨み上げていた。 「彼には、申しわけないことばかりをしている気がする」 　ルシフィエがぼやいた。アゼルがその言葉の意味を考えるよりも先に、彼女はルシフィエの片腕に抱きかかえられ、彼の胸に頬を押しつける格好になったので、エルンストの姿は見えなくなった。 「ねえ、どうやってここを出るの？　梯子(はしご)も何もないのに」 「空があれば、充分だよ」 　ルシフィエはアゼルを抱えていないほうの手を夜空に垂直に上げた。途端、彼に翼が生えたのだとアゼルは思った。大きな一対の翼が視界に広がり、アゼルの頭上を覆う。ばさり、ばさりと大きなはばたきが響いた。 「天使……」 　フィルグ・アルティルの羽根から生まれたという天使。双子神の忠実なる御使い。 　腕を彼の背中へとまわすと、肩甲骨のあたりで裂けた傷痕に指先が触れた。アゼルは戦慄した。 「とんでもない」 　ルシフィエは自嘲気味に囁いた。 「それを言うなら、僕はせいぜい堕天使だよ」 　二人はそのまま、春の夜空へと舞い上がった。アゼルははるか眼下から届く、自分の名を呼ぶエルンストの声に、唇を噛んだ。首都フィルガルタの夜景が、キャンドル細工の街並みのように小さく遠ざかっていった。

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