柩に横たわっていたはずの。そして墓に埋められたはずの。今は土の下で静かに眠っているはずの。すべすべとした白陶のような骨と化して眠っているはずの。 　アゼルは頬を彼の頬にすりよせた。低いかもしれないが、体温がある。首筋の血管が脈打っているのがわかる。さらさらとした黒髪の感触、皮膚の薄さ、耳のかたち。――どれもが懐かしく、死んだはずのユーベリウスが今たしかに、ここに存在している証だった。 　赤くない血の色が何だ。琥珀色の瞳が何だ。それらがすべてユーベリウスのものであるのなら、どうってことないじゃないか。彼が死んでしまったと聞かされ、そう信じ、苦しみ呆然と痛みに蝕まれた時間に比べれば、マンティコアの血族だか何だか知らないが、それが何だというのだ。 「ユーベル、ユーベル、ユーベル、ああ、ユーベル！」 　アゼルはひたすらに彼の名前を呼んだ。彼の首すじが脈打つのを身近に感じながら、大好きなその名前を呼んだ。ルシフィエなんて発音しにくい名前よりも――仇名のフィーというのは呼びやすいが、気抜けのする空気音のようで、あまりいい名だとは思えない――ユーベルと、ユーベリウスと、美しい彼の名前を何度だって叫びたかった。 　アゼルを首にぶらさげたままの格好で、彼はしばらく動かなかった。自分の失態を悔い、その失態から生じるだろうもろもろの危険におののいていたのだ。しかしそのおののきから逃れようとして、ぎこちなく、ためらいがちにアゼルの背中に腕をいったんまわすと、彼女の体温がすさまじいスピードで彼の腕の皮膚から全身へと駆けめぐり、そのぬくもりをさらに得るためにアゼルを抱き締めずにはいられなくなった。アゼルは突如窮屈になった彼の腕の下から頑張って起き上がり、両手のひらで彼の両頬をはさみこみ、真剣なまなざしでたずねた。 「ねえ、あんたって、本当にユーベリウス・ホウストンよね？　ユーベルよね？　間違いないわよね？」 　ユーベリウスはうなずかなかったが、彼女のまっすぐな視線から逃れるようにして目を伏せた。それだけで、アゼルには充分だった。 「やっぱりユーベルよ。ユーベルは、そうだってうなずきたいのに何かが後ろめたくてそうだと言えないとき、そうやって目を伏せるんだもの。私、いっつもそうやってお見通しだったのよ。ほら、いつだったか、騎士団のお仲間に無理やり歓楽街にひっぱって連れて行かれて、私との約束すっぽかしたことあったでしょう？　私が十四のときだった？　あのとき私、ほまれ高い明星の君が歓楽街で騎士仲間と一緒に遊んでいたって噂を聞きつけていたから、あんたにつめよったのよ。でもユーベルは今みたいに目を伏せるだけだったわ。でもそれって、そうでしたと認めてるのとおんなじだったのよ。ねえユーベル、そんな癖、自分では知らなかったでしょう？」 　伏せられた長い睫毛がためらいがちに持ち上がり、澄んだ金茶色の双眸が何か物言いたげに揺らいだ。「なに？」とアゼルが首をかしげると、その金茶色の瞳が何かを語るよりも先に彼の唇が、アゼルの唇の左端に押し当てられた。ぴりぴりとした静電気に似た緊張が発生して顎の下を猛スピードで這い、首すじを伝って心臓のほうへと抜けてゆく。うっとりする余裕など、あったものではなかった。 「ごめん…………我が姫君」 　アゼルの頭を胸に抱きこむようにして、押し殺した声で彼が言った。間違いないユーベリウスの声、ユーベリウスの言葉であった。 「ごめん……本当に、ごめん……」 　不意に、三年前、ユーベリウスの死を知る前の未明のできごとがアゼルの脳裏にあざやかによみがえる。あのときもユーベリウスは、同じように謝ったのだった。 『……ごめん。我が姫君』 『約束が、果たせなくなったんだ』 『ねえアゼル。あなたと一緒に旅に出るという約束は、もうどうしたって果たせなくなってしまったんだよ』 　だからこそイルヴェラントへ一緒に行くという約束は、果たせなくなってしまったと思っていたのに。ユーベリウスが死んで、イルヴェラントへ一緒に旅立つどころか会うことすらできなくなったと思っていたのに。 　彼はルシフィエと名を変えて、赤褐色から琥珀色に瞳の色を変えて、三年も経ってからアゼルの前に再び現れた。そして言ったではないか。約束どおりに。 『イルヴェラントに行こう』 　思い出しただけで、目の奥が、かっと熱くなった。思わず詰問口調になって、アゼルは訊いた。 「それは、私をだましていたからごめんって謝っているの？　ルシフィエだなんて名乗って、ユーベルは死んだことにして、私をずっとだましていたから？」 　彼の胸に押しつけられて思うように口を動かせず、くぐもってよくわからない発音になってしまいながらも、もごもごアゼルは問うた。 「そうじゃないなら、どうして謝るの？」 　約束を守って、一緒にイルヴェラントに行こうって、言ってくれたのに。 　グレイルが気を利かせて、礼拝堂の中の皆にアゼルたちをそっとしておくようにはからってくれたのかもしれない。彼女らを意図的でなくとも邪魔するように誰かが出てくるということも、その気配すらもなかった。 「ユーベル？」 　口をつぐんでしまっている彼の目をアゼルはのぞきこんだ。彼はそらそうとした視線を、ふとしたはずみで思いとどまったらしく、少しさまよわせただけで、アゼルの上に照準を戻した。 「いろいろだよ、アゼル」 　彼は深く息を吐き出した。 「いろいろなんだよ。あなたに話していないことがありすぎる。だから僕は、アゼルにいくら謝っても謝り足りない」 「どういうこと？」 　アゼルは不安になった。「約束が、果たせなくなったんだ」と言いに来たユーベリウスの表情に今の彼の面持ちがあまりに似ていたので、おそろしく不安になった。 ――また、私の前からいなくなるつもり？　化け物だろうがなんだろうが、一緒にイルヴェラントに行きたいって、さっき答えたばかりじゃないの！―― 「ねえユーベル」 　アゼルがぐいと顔を近づけると、唇のまんなかに彼の人差し指の腹が触れた。彼は今にも泣き出しそうな、しかし懸命に厳しさを保っているような目見で、アゼルに言った。 「僕のこと、ほかの人がいる前では絶対にユーベリウスと呼ばないって、約束してくれるかい？」 「今はいいんでしょう？　ほかに誰もいないんだから」 「今はいい。でも約束して、アゼル。二人きりのとき以外は、絶対にその名前で呼ばないって」 　腑に落ちないものを感じながらも、アゼルはしぶしぶうなずいた。けれども同時に、彼がこのような約束を持ち出してくると言うことはつまり、彼がユーベリウスであることを認めたということにほかならない。 「教えてくれるわよね？　どうしてユーベルが一度死んだふりをして、名前を変えて、目の色が文字通り変わって、三年も経ってから私に会いに来たわけを」 　アゼルがそううながしても、しばらく彼はしぶっていた。他人のふりをし続けてきたと言うことはつまりそれ相応に言いにくい事柄であろうとは想像していたのだが、この期に及んでここまでしぶられると、もともと悠長にはできていないアゼルはだんだん腹が立ってきた。そしておどしつけるためにも、「教えてくれないんだったらひとりでフィルガルタに帰ってやるんだから」と口にしたのである。それを聞いて、彼は目に見えて震え上がった。 「首都にだけは、絶対にもどっちゃいけない」 「どうして？　一緒にイルヴェラントに行くのが嫌だったら、今すぐやめてもいいって言ったじゃないの。私を安全なところへ帰すからって」 「アゼルを安全な場所に連れて行って、もう二度と僕みたいな化け物に関わらないようにするとは言ったけれど、フィルガルタに帰すとは言っていない」 「安全な場所って、具体的にはどこなのよ？」 　彼は答えなかった。 「どうして首都ではいけないの？　あそこには、お父様もお母様もクルゼイルもキャストンもムーンレーナもいるっていうのに」 　彼は礼拝堂の扉を見遣り、周囲にも誰もいないことをたしかめるように念入りに目を配り、誰にも見られておらず聞き耳も立てられていないことを確認できてからやっと、アゼルに向きなおった。 「首都フィルガルタはそう遠くはない未来、陥落するんだよ。ひょっとしたら、リュトラウス皇国自体がなくなるかもしれない」 「――――陥落？」 　ひゅうと、風邪が節穴を通り抜けるような音が鳴った。アゼルの喉が鳴った音だった。 「……ど、どういうこと？」 「僕たちマンティコアの血族が、フィルガルタを陥落させることになっているんだ」 　アゼルは冗談だと思いたかった。もともとユーベリウスは冗談やユーモアが好きだったのだから。けれども彼の横顔は青白く、とても冗談を言っている顔には見えなかった。不幸にも、そうは見えなかった。 　ルエドルフ・トルキイスは祖父の書斎をひっくり返していた。ルエドルフは何度となく、アゼルが行方不明になってからというものもう何度となく、祖父に機関の精鋭部隊を使ってアゼルを探し出してくれるように電信で頼んでいたのだ。しかし祖父は一度も諾とは言わなかった。 ――じいちゃんは、何かを隠してる。侯爵の、上流貴族のご令嬢がかどわかしに遭ったんだから精鋭の一部隊や二部隊くらいさっさと出しそうなものなのに、俺が頼み込んでも出さないだなんて、絶対におかしい―― 　アゼルは犯罪に巻き込まれたはずじゃないか。グライスタッド男爵がしかと目撃している。カーリス皇女も心配している。アゼルはれっきとした被害者じゃないか。そんな犯罪から被害者を助け出し、リュトラウスの安全を守ることこそ機関の役目であるはずなのに。アゼルは貧民街の私生児でもないし、歓楽街の花売り娘でもないし、一介の町娘でもない。侯爵様のご息女だ。皇太子カーリス様のご親友だ。本来ならば誰に言われるまでもなく率先して、機関が力を総動員させてでも救出すべきご令嬢だ。それであるのに、アゼルを探し出すのに機関の力を貸すのをしぶるだなんて、何かアゼルに関することがらを隠しているとしか思えない。 　祖父はあまり首都の邸宅には帰らない。一年のうちの九十九パーセント近くをオールヴィースの上級機関員宿舎ですごしている。しかし一応書斎はかたちばかりではあってもトルキイス邸に存在するので、その書斎に手がかりがある可能性はかぎりなく低いがゼロと言うわけではないだろうと思い、こうして探しているのである。 　しかしルエドルフの予想に反して、手がかりは見つかった。否、それを見つけたばかりのときはアゼルとどんなつながりがあるのかまったくもってわからなかった。ただ大変なものを見つけてしまったということは、ルエドルフにもわかった。 　彼は見つけてしまった紙束を握り締めて、カタカタとみずからの奥歯が震える音を聞いた。 「極秘事項　上級機関員以上のみ閲覧許可　��フィルガルタ陥落、オールヴィース首都化計画�＝v――紙束の表紙には、そう黒々と書き付けられていた。

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