第三章、夜闇の指先　黄金の魔の手


「皇太子殿下におかれましてはご機嫌うるわしゅう」
　明るい褐色の巻き毛を当世風に結い上げた貴婦人がなめらかに膝を折って辞儀をするのを、カーリスは待ちきれずにさえぎった。
「あらたまった挨拶なんて抜きでかまわなくってよ、エリエッタ。わたくしとあなたの仲じゃないの」
「ですが殿下のお許しをいただくよりも前から礼儀を欠いた振る舞いをするなど、グリプトンの名折れとなりますわ。ご理解くださいまし」
「あなた……わざとやっているのではなくって？」
　エリエッタは華やかな既婚婦人特有のあでやかなしなをつくり、はなやかな微笑みを浮かべた。
「何をおっしゃいますか、殿下。このエリエッタ・シェーナ・グリプトン、今までに殿下のご不興をかうようなことを故意に成したことがございまして？」
　そりゃあもう両の指だけでは数え切れないくらいにわんさとあるわと胸のうちだけで応じて、カーリスは眉間の皺を人差し指の腹でもんだ。
「カルローネ、フィリエス、ハイオーネ。あなたたちはさがりなさい。それから、なん人たりともわたくしたちの邪魔だてに入らないように申し伝えておいてちょうだい。久々の旧友との再会なのだから、水を差してほしくはないの」
「かしこまりましてございます」
　侍女たちが確実に立ち去ったのを見届けてから、カーリスは深々とため息をついた。ソファに身をしずめてから、こめかみをさする。時間がない。さっさと進めなくては。
「……わたくしがなぜあなたを呼んだのか、わかっているのではなくって？　エリエッタ」
　グリプトン夫人は、小柄だが華のある面立ちをした貴婦人である。年はアゼルやカーリスとひとつしか違わないが、三年前からグリプトン伯爵家に嫁ぎ、子はまだいないものの、りっぱに伯爵夫人として振舞っている。にこやかな彼女の笑みにぼうっとならない男性は、石の感情でも持たない限りそうそういまい。しかし、これまで幾人もの男性を虜にしてきた彼女の青い双眸は今、冬の湖面のように冷たく鋭く澄んで、くるりとまたたいた。
「わたくしが察しもせずに参上したとでも？　まさかそんなことがあるはずないでしょう。ご安心めされませ、皇太子殿下」
　そこでようやく安堵の息をついて、カーリスは立ち上がった。これからの話題は、応接室で堂々と話しこめるたぐいのものではない。例の密談室までエリエッタを連れて行かなくては。
　エリエッタは、カーリスとアゼルの共通の友人である。カーリスとエリエッタは宮廷初等学校時代からのつきあいで、初等には通わず高等にも行かず学舎に進んだアゼルは、カーリスの紹介でエリエッタと親しくなった。美しい褐色の巻き毛に、青玉のような瞳。黙っていれば男どもがふらふらとなるような小づくりな美人であるのに、口は達者で手も足も達者、頭の回転が早く機敏で、思い立ったらばすぐに行動に移り、まるで抜け目も隙もあったものではないのだった。
　そんな彼女の気性を、カーリスは見込んだのだ。平時であればカーリスとアゼルのティータイムに集う気のおけない友人であるが、エリエッタは、カーリスとあとは一握りの人間しか知らないところでは、別の顔を持っていた。
「殿下。今日は〝夜闇の指先〟として、馳せ参じました」
　密談室のかんぬきをカーリスが閉め終えたのを見届けるなり、エリエッタは口上を述べた。
「何か障りのある懸案がおありでしょうか」
「……ティグリアトスのことについて、あなたは何か情報を得ていて？」
　長々と息をついて、カーリスは腹心の友あらため忠実なる裏側の臣下を見つめた。
「ティグリアトス・フェデラン。銀の髪に青碧の双眸。王子ながらフェデランでは傾城(けいせい)とあだ名がつくほどの美貌。外貌だけでなく、国学院でも優秀な成績を修めていたとか。舞踏にも通じ、つい先ほど終わりました歓迎の式典では、それはそれはみごとなダンスを披露召されましたね」
「そんなことはわたくしでも承知しています。それに、一緒に踊ったのはわたくしですもの」
　カーリスが澱を汲もうとでもいうように顎をしゃくると、エリエッタはちらと笑った。
「そんな怖い顔をしないで頂戴、カーリス。あなたが聞きたい類いのことは、見当がつくわ」
　エリエッタの口調がくだけて、彼女の青い瞳がひらめいた。
「……ねえ、聞いていて？　ティグリアトスの傾城(けいせい)というあだ名は、あながち単なるあだ名ではないみたいね」
　やっぱり。カーリスは口の中でつぶやいた。エリエッタとふたり向かい合ってソファに座ると、〝夜闇の指先〟である彼女の情報に耳をかたむけた。
「あの美貌を持って生まれたそのときから、ティグリアトスの使い道は決まったようなものだったらしいわ。これまでも何度か、大陸の周辺諸国にフェデラン王の供として連れて行かれて、そこここの主君を篭絡した実績があるみたいね。……つまるところ、本質的にザルフィウムの娼館育ちと同じなのよ。ティグリアトスは、中年の脂ぎって腹の突き出た他国の施政者に上手く取り入って、国の弱みを聞き出すの。篭絡された施政者たちはあとでしまったと気がついても、もう遅い。なにせ、ティグリアトスは男の子でしょう？　そんなことが巷に広まれば外聞が悪くて民の信用を失いかねないから、うっかり傾城王子に手を出した馬鹿どもはフェデランの言いなりになるよりほかないのよ」
「密偵の女を閨(ねや)に遣わすよりも、賓客である王族に――しかも王子に――手を出したということで二重に弱みを握るほうが、旨みがあるというわけね」
　カーリスはうなった。
「……陛下はとんでもない物件を、わたくしに吹っかけなさったのね」
「陛下はこれらのことをご存知ではないと思いますわ。これはわたくしたち、夜闇の指先である女だからこそ仕入れられる情報ですから」
「その夜闇の指先と同じようなことを、フェデランの王子がやっているというのね」
「そのようでございますわね」
　カーリスは額を押さえて、肺の奥底から深々と嘆息した。
　〝夜闇の指先〟というのは、代々皇王妃もしくは女性皇王が受け継いできた力であり、情報網である。娼館の女たちすべてからの忠誠を受けるという力であり、権利であり、その忠誠を裏切らない義務をも、〝夜闇の指先〟を束ねる妃や女性皇王は負わされる。
　すべての領地の領主が集い、他国の賓客が集う首都フィルガルタ。当然のように花街が発達し、高級娼館街のザルフィウムと、庶民にも親しまれているファダール通りのふたつがフィルガルタにも並び立つ。フィルガルタの娼館ではその他の街の歓楽街とは異なり、生活苦のために売られてきて娼妓になるような少女はいない。たとえ娼妓の始まりが生活苦や貧しさであったとしても、他の街で見込まれて引き抜かれてザルフィウムやファダールにやってくる。首都の花街では何より忠誠が最優先されるため、裏切りは許されず不適切と判断された者は容赦なく排除される。その代わり牛馬のようなひどい扱いを受けることはなく、それどころか一般の民にはわからないところで厚遇されることもしばしばだ。
　この花街の手綱を男たちに知られぬように上手く引き締めておくのが、代々の皇王妃もしくは女性皇王に引き継がれてきた使命のひとつだった。皇王妃や女皇王がみずから娼館に足を運ぶことなどできないので、当たり前に彼女らの手足となって動き情報を集める人物が必要となる。それらの人物は皇王妃たちと親しい貴族の身分の者から、娼館をとりしきるオーナーから、それぞれ信の置ける人間を数人よりすぐって、〝夜闇の指先〟と呼び習わしていた。
　そして当代、カーリスが〝夜闇の指先〟の筆頭としているのが、エリエッタ・グリプトンだった。
「それらの情報を、娼妓たちは誰から手に入れたの？」
「王子の側近から。ザルフィウム街は美女ばかり、しかも賢く気高い娼妓が粒ぞろいと海向こうの他国にも名声が及んでいるそうですから、ティグリアトス王子の側近たちはフィルガルタに着くが早いか、こぞってザルフィウムに繰り出したそうですわ。どんな忠臣でも花宿では熱に浮かされて口が軽くなりますし、聞き出すのは簡単だったとか。まあ、本当の意味での忠臣ならば、王子のそばを離れずに付き添っておりますから、花街などに繰り出さないでしょうけれど」
　カーリスは顎に指を添えて、しばし考え込んだ。娼妓にほいほいと王子の裏の顔を話してしまうような口の軽い輩がフェデラン一行にまじっていてもっけのさいわいであったが、だからといって、ティグリアトス王子がやっかいな物件であることには変わりなかった。
――でも、王子は十四歳。わたくしのほうが四年は長く宮廷生活をしていてよ。駆け引きなら四年分年季が入っているんだから――
　付け入る隙はあるはずよ――彼女は顔を上げた。
「実はね。今晩、ティグリアトスがわたくしの寝室にやってくるの」
「あらぁ、カーリスも隅に置けないこと」
「……茶化さないで頂戴」
「怒らないでくださらない？　ほんの冗談よ」
「わかってるわよ」
　エリエッタはみずからの頬に手をそえて、小首をかしげた。
「けれど、大胆な行動に出すぎたのではなくって、カーリス。あなたが篭絡されるような純情な娘でないことくらいわかっているけれど、力攻めでこられたら危ないんではないかしら？」
　純情な娘ではないってどういう意味よと問うことはしなかった。愚問だ。
「腕力だけが危険なのではないわ。あなたが言うように私がただの純情な娘であったならばそういう心配ももっともだけれど、わたくしはリュトラウスの皇太子、才媛と呼ばれる皇女ですもの。わたくしの枕やベッドの中にどれだけの毒針や痺れ薬がしのばせてあるか、エリエッタだって目の当たりにしたらひっくり返るわよ」
　むしろ力攻めにこられたほうが正当防衛で鉄槌を下すことができるのだから簡単だと、カーリスはつぶやいた（「だって、まだ正式な婚儀も婚約も取り交わしていないんですもの。婦人への暴虐というわたくしの言い分が表向きに通るわ」）。
「では、なぜあなたはそのティグリアトスが寝室を訪れるというのを許可したの？」
　エリエッタの青い双眸を、カーリスはじっくりと見返した。
「……手駒に加えようと思って」
「は？」
「だからこちらに引き込もうと思って。何も敵を陥落させる手管は、手篭めにするだけではないわ。わたくしはわたくしのやり方で、フェデランの意図をぶった切ってやりましょうと思ってね」
　フェデラン王にしてみれば、我が子であるティグリアトス王子も手駒なのよ。あなたが仕入れてきた情報を教えてくれたでしょう？　エリエッタ。
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