夜はあっという間に更ける。更けてほしくない日に限って、そのすばやさはとびきりだ。
　星の瞬きが研ぎ澄まされて、夜の空気は細くなる。彫刻と螺鈿にふちどられた柱時計が約束の時間を指し示したとき、カーリスは最後の〝調整〟を終えて立ち上がった。歯車がきりきりと触れ合う音がした。
　訪れ人のノックは二回。歯が噛み合うほどのかすかな音だったが、彼女が聞き逃すはずはなかった。リュトラウスの皇族は暗殺から身を守るために、どんな些細な音でも拾えるように、耳を鍛え抜いているのだから。
　ドアについているのぞき穴から訪問客がティグリアトス王子であることを確認し、彼が本当にひとりであることを部屋の四箇所に隠して取り付けてあるのぞき鏡（数枚の鏡を反射させることによって、廊下や回廊の曲がり角を手もとに映し出し、人影が潜んでいないかどうかを皇族やその近衛が調べるためのもの）でもう一度じっくりたしかめてから、カーリスは世慣れていない深窓の令嬢のようにおずおずとした演技で扉を開けた。
　銀の髪が燭台の仄明かりにまばゆく輝く。青ガラスのような瞳がその奥で散るくわだての火花をあわてて隠すかのようにひらめいた。
「お待ちいたしておりました」
　カーリスは火花にも何にも気づかないふりをした。声をわざと震わせるのも、忘れてはならない演出だった。
「……ああ、ごめんなさい、いたらなくて。どうぞこちらにおかけになってください」
　ティグリアトスの姿は、客観的に見れば、かなり素敵なものだった。ボタンをなかばまではずし、けだるげにはだけさせ、襟元からは白い鎖骨がのぞいている。ひじから爪が隠れるほどの長さをたっぷりとったフリル付の袖のブラウスにはほんのり青白く肌が透け、唇は糖蜜のゼリーよせを食べたばかりのようにつややかに光をたたえている。しかしそれはあくまで客観的にであって、カーリスの主観から言わせてもらえば、王子のこれらのファッションは、単なる「あばずれ」以外のなにものでもなかった。むしろザルフィウムの高級娼婦のほうが、ずっと趣味がよい。
「お茶をお淹れしますわ。とてもよい香りの茶葉がありますの」
「カーリス殿下。あなたはただでさえ緑柱石のように美しいのに、昼間拝見したときよりも、こうして僕の前に立ってくださっている今このときのほうが数倍美しく思われます。なぜでしょうね？」
　すらりと形よい細い足を優雅に組んでソファに座り、王子はカーリスに微笑みかけた。
　色じかけに心動かされるほど素直にもおめでたくもできていない性質のカーリスは、どんなにとろけるような視線であっても真向かいから見返すことができるのだが、この場合、その微笑を正面から受け止めたのではあまりにあまりに深窓の令嬢らしくなかろうと思い、わざわざおろおろ視線を逃がしてささやいた。夜分に殿方がたずねてきた場合、世慣れていない姫君というものはそうするものなのだろう。たぶん。
「わたくしをからかっていらっしゃいますのね。お口がお上手すぎますわ。ただの、蝋燭の火のいたずらでしょう」
――よくもまあわかりきったことを、しかもありふれた口説き文句とたいして変わらないというのにしゃあしゃあと口にできるわね――
　そう軽蔑の念をくすぶらせながらも、カーリスも表向きははにかんだ（ような演技の）微笑みで応じた。
「蝋燭の火明かりのもとでは、誰でも三割は美しく映えると申しますから。天井から下がる照明は毎夜定時に消されてしまいますし、煌々とつけていても怪しまれてしまいます」
「薄暗いくらいのほうが、趣きがあるというものですよ」
　カーリスがテーブルに出したティーカップを手にとって、彼は紅茶の香りを楽しむようにカップをゆすった。たちまちかぐわしい香気がさらに強くくゆり立つ。皇女たる者、紅茶を淹れる腕前さえも侍女たちに勝って当然だとカーリスは考えていたから、そのカップの中身は最上級の味と香りで当然なのだった。ティグリアトスは満足げに視線を上げた。
「古来より逢瀬は闇の中でと決まっています。明かりがまぶしくたかれた中で貴女にお会いするのなら、それは逢瀬ではなくて政治的な会見です」
　何が逢瀬だこの子どもは自分の年いくつのつもりでそんな台詞を口にしているのよ何よりわたくしより年下だってこと忘れているんじゃなくって？　
　腹の中でひととおり毒づいてからカーリスは頬を染め（たように見えるように、もともと濃い目に頬紅を入れておいた）、みずから淹れた紅茶に口をつけた。それを見届けてからティグリアトスもようやくティーカップを口に運んだ。毒や眠り薬を警戒してのことだろう。しかしカーリスはそのようなたぐいのものを入れてはいないし、睡眠薬で眠らせたり毒で苦しめたりしたところで、現段階では何の特にもならない。毒を飲まされるかもしれない程度にしか警戒していないらしいティグリアトス王子よりも、この点、カーリスのほうが何倍も上手であった。
「けれど今回は、政治的な会見の意味合いも少しは持っているのではありませんこと？」
　カーリスは小首をかしげ、ぶしつけにならぬようにとっくり用心しつつ、ティグリアトス王子を観察した。
「ダンスのとき、ティトス殿下がお伝えしたいことがらがあるとおっしゃったでしょう？　わたくし、あれからどんなお話なのだろうとあれこれ考えてみたのです。ですがちっとも見当がつきませんでした。殿下、そのことがらとは、なんなのです？」
　王子は相手を魅惑するようにつややかな唇をつりあげて、睫毛の豊かな目をしばたいた。それだけで、カーリスは彼が話をはぐらかそうとしているのだと悟った。きっと、伝えるべき大切なことがらなど存在しないのだ。あの言葉は、カーリスの部屋に招き入れられて彼女を篭絡するためのきっかけをつくる彼の方便に過ぎない――カーリスは確信した。
「おわかりにはならないのですか？　僕がどんなことを伝えたくて、ここまでお邪魔させていただいたかということが」
　浮ついたその台詞で確信は強固になり、彼女にはためらいがなくなった。あちらが得意とする手練手管に持ち込むつもりならば、こちらにはこちらが得意とする環境に持ち込む必要がある。
　カーリスはティーカップをソーサーにもどすと自身が腰かけているソファ右脇の肘掛にもたれかかり、体重をかけた。ごく自然に、少しだけ緊張が解けた少女が少しだけくつろぐようなしぐさで。
――カタン。
　と、それは、一瞬のできごとだった。刹那の間にティグリアトスが腰かけていたソファのクッションが消え失せて、彼はカップを手にしたまま座面の消滅したソファの中へ、奥へ、その先へと落下していった。やがて何かが鈍く跳ねたような音がひびき、そして、何も聞こえなくなった。
　鼻を鳴らし両手を腰に当てて、彼女はソファにぽっかりと開いた暗闇の口をのぞきこんだ。
「思い知って？　リュトラウスの才媛を甘く見ては大間違いよ」
　慎重に戸締りを確認し、クッションのスペアをクローゼットから取り出してソファをもとどおりにすると、机の下の隠し扉を開けて、地下へと降りた。
　私室の地下こそが、カーリスとアゼルと夜闇の指先といったごく一部の者のみが知る、カーリス皇女の力が最大限に発揮される場所。アゼルが冗談と尊敬と畏怖をこめて〝基地(アジト)〟と呼ぶ、特別の部屋なのだった。
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