「ご気分はいかがかしら？」 　自室の地下にある��基地(アジト)�≠ﾉ下りて、カーリスは壁の小さな明かりをつけた。獅子でも狼でも入れられる巨大な鋼の檻に、白金色の髪をした少年が横たわっている。檻とはいえ充分な広さがあり、その床にはクッションが敷き詰めてあるので、軽い打撲のほかには怪我はないはずだ。 「気を失ったふりはおやめになったら？　場所が変わっただけで、ここでも会談はいくらだってできるはずよ。あなたが顔をめり込ませているクッション、最上等の絹で中身は凪鳥の羽根よ。触り心地もやわらかさも最高ではなくて？」 　ティグリアトスはゆるゆると起き上がった。つややかな前髪が目見にかかり、頬は青ざめている。紗のとばりのような前髪と鋼の柵越しに彼はリュトラウスの皇女を見つめ、唇を震わせた。 「あなたは……僕をこのような目にあわせて、何のおつもりです？」 「あなたこそ、何のおつもりでしたの？」 　カーリスはわざとらしく小鳥のように小首を傾げ、柵に近づいた。ティグリアトスも柵の棒を両手でにぎり、額を寄せた。 「夜、このような時間に年若い娘の部屋までやってきて、どんな話をなさるおつもりでしたの？　聖堂で愛を誓い合ったわけでもないのに睦言を？」 「そのようなことを、愛らしい花のようなその唇でおっしゃらないでください」 　ティグリアトスの台詞に、カーリスはめまいを覚えた。呆れるのを通り越してのめまいだった。 「このようなことをなされずとも、僕は十二分にあなたに囚われているのですよ。あなたのその美しさと、聡明さに」 　くらくらした。「どうしてこいつはこんなにも無駄に安っぽい甘さをふりかけた実のない台詞をつらつらと吐けるのだろう」と、思わず下町の者たちのようにぞんざいで品のない言葉で考えてしまった。おつむの中身に、ひょっとしたら脳みその代わりに桃色の蜜菓子でも詰まっているのかしら。国学院で優秀だったというから、期待していたのに。 「……遠まわしに気づいていただこうとしても気づいていただけないようですから、はっきり言わせていただくわ」 　カーリスは顔を上げて、正面からティグリアトスを見た。ティグリアトスもうるわしい青の双眸でカーリスを見つめ返した。カーリスは彼のその白い額に、ゆるされるなら拳骨を打ちつけてみたいと思った。 「わたくしはあなたの手には落ちません。わたくしという獲物は、あなたの手には負えません。これまであなたは失敗したことなどなかったでしょうから信じられないかもしれないけれど、わたくしにあなたの手は通用しないわ。だからわたくしは、あなたとまっとうに話がしたい。恋だの愛だのを語るのではなくってね。王子と皇女として、正しくあるべき会話をいたしましょう？」 　ティグリアトスが細く、しかし長々と息をついた。白い喉が震え、銀に光る前髪がさらりと流れる。 「本当に……賢いおかたなのですね、カーリス殿下は」 「いいえ。皇族にあっては普通です」 「いいや、あなたほどの方ははじめてです。僕が相手にしてきた人たちはみんな、僕がちょっとそぶりを見せただけで簡単になびいたんだもの」 　彼はくつくつと笑い、そうっと柵から離れた。 「カーリス殿下。あなたの望みどおりにお話をしましょう。けれど、その前に僕をここから出していただけますか？　檻の中と外で王子と皇女が話をするだなんて、正しくあるべきではないでしょう？」 　カーリスは鍵を取り出して、扉に三つある守りを順番に開錠していった。カシン、カシン、硬質な音が地下に響き渡る。最後の鍵を開けて鋼鉄の扉を引くと、ティグリアトスはゆるやかな足取りで檻から出てきた。ソファの仕掛けから落ちたためだろう、衣服に奇妙に皺がよっているが、やはり怪我はなさそうだ。 　カーリスは目の前の床に座るようにうながした。けれどもフェデランの王子は床に座るのではなく、カーリスの上にかぶさってきた。 　予想できたことではあった。真面目な実のある話し合いなど、この王子には無理なのだろうか。 　天井の手前に、あでやかなティグリアトスの顔がある。標本の蝶のように床にとめつけられたカーリスは、ゆっくりと緑の目をしばたいた。染めたように青い目が見つめ返してくる。プラチナの髪が彼の白い肌を縁取り、その白磁のような頬には今、刷毛で刷いたようにバラ色が息づいていた。つい先ほどまで青白かったというのに、彼の頬を通う毛細血管は都合よくできているらしい。 「これでも、僕の気持ちをお分かりいただけませんか？」 　つややかな花びらのような唇が気だるげに吐息を漏らす。その演技じみたやり方にカーリスはほとほと嫌気がさした。さてどこまで演技につきやってやるべきか、そこが問題だった。 　カーリスは様子をうかがうために身じろぎし、ティグリアトスの胸を押し返した。すると手馴れたようすでカーリスの両腕はまとめ上げられ、ティグリアトスの左手で頭の上の位置に押さえつけられた。カーリスの腰の両側にはティグリアトスの両膝があり、目の前に顔があり、頭の上の床に左手がある。彼の開いた右手はゆるやかにカーリスの麦穂色の髪をなで、頬をなで、手のひらを頬にそえたまま親指で唇に触れてきた。指を噛み切ってやることもできたが、それではここまで彼の遊戯につきあってやった意味がない。そのままゆっくりと唇の形をなぞられ――なんて慣れている十四歳だと、カーリスは舌打ちできるものしたいと思った――彼女の首筋にそのかたちよい額を埋めてきた。 ――そろそろいい加減、潮時かしら―― 　カーリスは頭上にまとめられている両腕の両手のひらをにぎり合わせて振りかぶり、膝を曲げ、勢いをつけ体を折りたたむようにして膝頭と拳を打ちつけた。膝頭がティグリアトスの腿の裏を打ち、肩と腕が彼の頭をはさんで締め上げる。あわれ王子は声にならぬ悲鳴をあげておののき、カーリスは容赦なく体を半回転させると、逆に彼を組み敷いた。 「あなたはまだ十四なのです、ティトス殿下」 　カーリスはティグリアトスの両膝を左足で体重をかけて押さえつけ、両手で彼の両腕を縫いとめながら青ガラスのような瞳を見下ろした。 「あなたがたくましい青年の姿で現れたなら、わたくしはこのような真似はしませんでした。力では勝てないでしょうからね、もっと別の方法を考えます。けれど今、あなたの腕はわたくしと変わらぬほどに細く、肩幅もまだ狭い。それに、おつむの中身が青い……いえ、桃色と申し上げたほうがいいかしら？　わたくしの膝も手の指も固定せずに動きを封じたつもりになるなんて、まだまだですもの。それとも何かしら？　あなたの甘言だけでわたくしが動かなくなると、わたくしを篭絡できると、本気でお思いだったの？　わたくしの神経は鍛えられていてよ。だから残念ながらずぶといわ」 　ティグリアトスの目が見開かれた。ようやくそれとわかる「本当の」表情だった。演技をしていない素の彼は、驚いているらしかった。 「なぜ……。僕は、魅惑的ではありませんでしたか？」 「そういうことって、真顔で聞くものじゃないわ」 　カーリスは疲労を覚えた。 「何も知らない人からすればそりゃあ魅惑的で蟲惑的でしょうね。そういうものに飢えている人からしても、渇きをうるおす魅力的なものに映るかもしれない。でも残念ながら、わたくしは美しさにも魅力的なものにも慣れているの。自分で自分の美しさを重々承知しているし、わたくしの友人たちの多くも男女問わず美しいわ」 「けれど、僕ほどの美貌は貴重でしょう？」 「自分で言うところからして間違ってるわよ」 「あなただって自分で美しいとおっしゃったじゃないですか」 「わたくしはいいのよ」 「僕の力は美貌だけではありませんよ。あなたに逆転されなかったなら、あなたの檻のような鋼鉄の心をとろかすことができたのに」 「……本気で言っているんじゃないでしょうね？」 　押さえつけられているというのに、ティグリアトスは嫣然と微笑んだ。 「もちろん、本気ですよ。そちらの手管には自信があります」 「本当に、わかっているの？」 「いままで僕に夢中にならなかった為政者や女人は一人とていません。それに、あなたが僕と婚約前に通じたとなれば、皇王陛下は僕らの婚約を正式にせざるを得ないでしょう？」 　不覚にもカーリスはこちらを見上げている少年が哀れに思った。疑いを知らない目、自分の考えに、してきたことに、絶対の自信を持っている青い目。彼女はぽつりとつぶやいた。 「……だから、わかっていないというのよ」 「え？」 　その青い目がしばたかれた。ガラスのように混じりけなかった瞳に、疑いやとまどいといった色がよどんだ。 「たしかに今まではそれですべて上手く、あなたたちの思うとおりにことは進んだのかもしれない。でも今回はちがっていてよ。わたくしは女で、あなたに比肩する美貌で、そして皇太子なの。次期皇王よ。そしてあなたは婚約者候補としてわたくしのもとへ来た。これがどういう意味なのか、あなたはまるでわかっていない」 「わかっていますが？　だからこそ、今宵こうしてたずねてきたのに」 「わかってないからこそそういった手管にうったえようとしたのでしょう。……ティトス殿下、あなた、ミイラ取りがミイラ取りになる危険を考えたことがあって？」 「どういうことです？」 「わたくしがあなたをしのぐそういった手練れであった場合、反対にあなたが篭絡されていてよ」 　ティグリアトスの体に震えが走り、手足がこわばったのをカーリスは感じた。カーリスは冷たく凪いだ瞳で彼を見下ろし、小さく息をついた。 「わたくしが言いたいのは、それだけではないわ」 　細い手首を床に縫いとめる手のひらに、彼女は力をこめた。 「男の王があなたを寝室に迎えてしまえば、それはそれは醜聞になるでしょうね。口止めのために、あなたがたの言うことを聞かざるを得なくなる。また夫のいる身分ある女性があなたに口説き落とされたとしても、同じように体裁が悪いでしょうね。だから、あなたの出す条件を飲むのでしょう。 　一方でわたくしは、仮にあなたと通じたとして、本当に婚約を成立させなくてはならないかしら？　閨で機密をうっかり漏らしてしまうから？　残念ながら、リュトラウスで政権をにぎっているのは皇族ではなくて、オールヴィースの機関なの。わたくしが多少機密を漏らしたところで、そんなもの機関員たちにしてみればたいしたことではないわ。皇族でも知っている機密なんて、彼らにしてみれば機密でもなんでもないのだから。それに……それにね。わたくしは皇太子であってただの姫君ではないのだから、夫を選ぶ権利があるの。父は何と言うか知らないけれど、これは男の皇太子が他国の姫を選べるのと同じだわ。万に一つ父の身に何かがあった場合、明日からでも皇位を継承するのはわたくしだもの。父が強行にあなたとの婚姻の話を進めたとしても、わたくしにはあなたを拒む、もしくは離縁するだけの力があるのよ。あなたはただの末の王子でしかない。あなたが選ぶ側ではないの、わたくしが選ぶ側なの。ありえないことだけれどわたくしがあなたに夢中になりあなたを夫君に選んだとして、わたくしが頭がからっぽのお馬鹿さんのようになったら、それだけで皇王国は消滅よ。オールヴィースが総力でもってリュトラウスの全権支配に乗り出すでしょうからね。あなた方が皇族に取り入った利益は皆無になるわ」 　沈黙が下りてしばらくたっても、ティグリアトスは身じろぎすらしなかった。その様子を見て、今度こそカーリスはティグリアトスが心底可哀相に思われた。彼が馬鹿で頭がからっぽだったのではない。彼の父親が、フェデランの王がおそらくとんでもない色惚けで、自分の都合のよいところしか見ない性質のとんでもない阿呆だったのだと、よくよく理解できた。 「あなたとあなたのお父上は、これまで上手いことやりすぎたのよ」 　カーリスはいくぶん声を優しくしてささやいた。 「だから今の今まで気づけなかった。今回も、これまでと同じように姫を手篭めにして国の弱みを聞き出してくればいいって、それくらいに思っていたのでしょう？　……でも、残念ながらリュトラウスも、わたくしも、そんなに単純ではないのよ」 　カーリスが膝の上から退いても、ティグリアトスはしばらく動かなかった。 　いつまで待っても起き上がる様子がないので、しかたなしにカーリスは手を差し伸べた。呆然としてほとんど焦点の定まらないティグリアトスに肩を貸して地下から私室へともどると、ソファに座らせて気つけのハーブティーを飲ませてやった。 「これまで自分が疑いもせずに歩いてきた道にも穴があることを知って、さぞがっかりしたことでしょうね」 　彼女がバタークッキーに甘いジャムをのせてふるまってやると、ティグリアトスは幼い子どものような顔でそれを食べた。こちらのほうが可愛らしくて好きだと、カーリスは思った。 「あなたさえよければ、明日もわたくしの部屋にいらっしゃい。あなたが妙技を披露できる機会はないでしょうけれど、大陸とはまたちがう、諸島国家ならではの複雑さや世の中の仕組みをわたくしが教えてさしあげるわ。あなたが言うようにわたくしは賢くってね、宮廷学校ではずばぬけて成績がよかったのよ」 　最後では片目をつぶってみせた。すると、ティグリアトスは十四歳にふさわしい顔で笑った。 　彼を彼本来の寝室へと帰してしまうと、夜にふさわしい静寂が返ってきた。人の気配などなく、空気はしんと止まっている。けれどもカーリスにはわかっていた。彼女はベッドに腰かけて髪に櫛をいれると、どこへともなく呼びかけた。 「エリエッタ、もう出てきても大丈夫よ」 　忠実な夜闇の指先にして皇女の心の友は、葡萄と葉と蔓がからむ透かし彫りがほどこされた衝立の向こうから、微笑みながら現れた。 「さすがはカーリス・ヴェンティーヴァ。わたくしの出る幕などなかったわね」 「いてくれただけで心強かったわ。もしもティグリアトスが逆上して暴挙に出た場合、あなたに止めてもらわねばいけなかったもの。それにしても、毒針を使う必要がなかったのは幸いだったわ。友人に手を下させるというのは、やっぱり心が痛むものね」 　カーリスはエリエッタから毒針一揃いを受け取りながら笑った。 「これで、第一関門は突破したわ。あなたのおかげよエリエッタ、お礼を言うわ」 「お礼だなんてやめて頂戴。わたくしは闇の指先として、すべきことをしているだけだもの。そして……あなたの友としてね」 　彼女らは微笑み合い、おやすみなさいと声をかけあった。部屋から出て行く間際に、エリエッタは思い出したように足を止めた。 「ところでカーリス」 「なあに？」 「ミイラ取りがミイラ取りになる話だけど。あなたがその道の手練れだったとは、このわたくしでさえ知らなかったわ」 　たちまちカーリスは破顔した。 「あんなもの、はったりよ。権謀術数にまみれた皇族の生まれとはいえ、わたくしにだってロマンチックな夕べに憧れる乙女の気持ちというものがあるわ」 　エリエッタは爆笑を必死でこらえるような面持ちで立ち去っていった。カーリスは枕の下にもとどおり毒針を隠して、安らかな夢の中へともぐりこんだ。

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